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乳幼児を殺○まくった鬼婆『寿産院事件』

石川ミユキ

寿産院事件(ことぶきさんいんじけん)は1948年(昭和23年)に発覚した嬰児(えいじ(赤ちゃん・乳幼児)の貰い子殺○事件で死亡者数は

  • 5人(確定判決)
  • 27人(検察の主張)
  • 84人(警察の調査)
 
 

と諸説あります(⊙_⊙')

この事件の主犯・石川ミユキは東京帝国大学医科大学附属医院産婆講習科を卒業した才媛(さいえん(才能のある女性)で夫の石川猛と、猛と先妻の間の息子および養子(男2人・女一人)と共に暮らしていました。

特殊産院事業を始めた石川夫妻

寿産院

石川夫妻は1943年からから主に未婚の男女の間に生まれ、始末に困る私生児を預かり、子供を欲しがる人に斡旋する特殊産院の事業を始めます。

親からは養育費として2千円〜1万円(時には広告も取っていた)を受け取っており、さらに顔立ちの良さで金額を変えて300円〜500円で養親に売り払っていたんです(*´Д`*)

夫妻はこれらの養育費の横領に加え、配給された粉ミルクや砂糖、死○した嬰児の葬祭用の清酒2升などを闇市に横流しして、事件発覚までに100万を荒稼ぎしていました。

が、預かる子供が増える一方で貰い手が少なくなると、預かった嬰児には

  • 平常の半分しかミルクを与えない
  • 風呂にも入れない
  • おむつも替えない
  • 医者には死○間際しか診せない
 
 

ほどの劣悪な環境に置き、『売れ残り』の大部分は栄養失調に陥らせて死○させ、一部は冬季に保温せずに凍死さ○たのです。

このような非人道的で劣悪な環境を見るに耐えれず、雇われていた数十人の助産婦は増員やミルクの増量、保温処置を再三訴えますが聞き入れられず、辞めるものも多くいたと言われています。

事件が発覚し、石川夫妻と葬儀屋は逮捕される

逮捕された際の様子。石川ミユキ(前列右)、葬儀屋(同中央)および石川猛(同左)

1948年(昭和23年)1月12日に事件は発覚し、新宿区榎町15番地で警察に職務質問された葬儀屋が、寿産院から頼まれて5体の遺○を運ぶ途中であることを告げ、これまでも30体の死○の火葬を頼まれたと答えたことに警察は不信感を抱き捜査を開始、また検察にも手配して国立東京第一病院で遺骸の司法解剖を行います。

その結果、3体は餓死、2体は凍死であることが判明し、殺○の不作為犯で間違いないとして令状を請求し、15日早朝に石川ミユキ(当時52歳)、夫の石川猛(当時55歳)、葬儀屋を逮捕したのです。

裁判の結果とその後の石川夫妻

公判の様子

裁判の結果は

  • ミユキ・・・懲役4年
  • 猛・・・懲役2年
  • 共犯の保険外交員・・・懲役10年
  • 医師の中山四郎・・・禁錮4ヶ月
 
 

となっています。

なお、事件発覚から1年経った時点で保釈中の石川ミユキは閉鎖した寿産院に住み続け、中の三畳三間の部屋を貸し出そうとしており、また

石川ミユキ
『成功して無実の罪を着せられた復讐をしよう』
   

と奮起して石鹸・クリーム・魚の行商を始め、この時点では東京都内で不動産業を営んでいたようですが夫の猛とは死別したとされています_φ( ̄ー ̄ )

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殺害後に屍○...『おせんころがし殺○事件』

徴兵されるも夜尿症が原因で2ヶ月で除隊となった犯人の栗田源蔵

1948年(昭和23年)、ヤミ商売のブローカーをしていた栗田源蔵は三角関係のもつれから静岡県で交際相手の女性を殺○(栗田は交際相手2人を殺○したと供述したが立件されたのは1件のみ)。

さらに1951年(昭和26年)8月には栃木県で子供を寝かしつけようとしていた主婦を強○しながら絞○し、殺○後に屍○をしたのです(*´Д`*)

千葉県にある『おせんころがし(入道ヶ岬側)』と呼ばれる崖

同年10月には国鉄上総興津駅で母子4名を誘い出し、日付が変わった翌日の深夜に長男と長女を断崖絶壁の

『おせんころがし』から投げ落○して

主婦を強○した後に背中に背負っていた次女ごと投○落とした...

被害者たちは一時、崖の途中でなんとか踏ん張っていましたが、栗田は石で殴○して息の根を止めたのです。

(長女だけは奇跡的に助かった)

栗田の逮捕

おせんころがし(小道側)

1952年(昭和27年)1月13日、千葉県千葉郡検見川町(現在の千葉市花見川区)で主婦と叔母が殺○され、主婦はやはり屍○されます。

この事件の捜査の際に指紋が検出され、これによって栗田が割り出されて逮捕されることになり、1959年(昭和34年)10月14日に宮城県刑務所で死刑が執行され、被害者数は7人となっています_φ( ̄ー ̄ )

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荒川放水路バラバラ殺○事件

逮捕された被害者の妻

1952年5月10日、東京都足立区にある荒川放水路(通称・日の丸プール)で新聞紙に包まれた胴○だけの男性遺○が浮かんでいるのを近くで遊んでいた少女が発見し、さらに5日後には同放水路で頭部、その翌日には両腕が発見されます(*´Д`*)

発見された頭部から被害者は行方不明になっていた板橋警察署の巡査(当時28歳)であることが判明。

巡査から日常的にDVを受けていた妻は夫が寝入ったところを見計らい紐で絞○、母親と共に遺○をバラ○ラにして荒川放水路に遺棄して懲役12年の刑が下されました_φ( ̄ー ̄ )

ストーカーの勘違いが生んだ悲劇『人違いバラバラ殺○事件』

1954年(昭和29年)9月5日、埼玉県入間郡高階村で19歳の女性が絞○され後、身体をバラバラに切○され、殺○現場付近の畑や肥溜めなどにに手足や肉片をば○撒かれるという凄惨な事件が発生しますが...

同年11月18日に埼玉県警は被疑者として古谷栄雄(ふるや ひでお)を殺○および死○損壊・遺棄で逮捕すると古谷はなんと

古谷
『自分が探していた女性と間違って殺○した』
   

と供述したんです(⊙_⊙')

古谷の供述とストーカー行為

古谷はさらに

古谷
『バラバラにしたのは日頃の鬱憤が爆発したから』
   
古谷
『まず女としての価値をなくすために持っていたボンナ○フで下腹部と乳○を切○取った』
   
古谷
『歩けないようにするために足を切○した』
   

と供述していますが、彼は少年院を出た後、A子という女性と知り合い勝手に好意があると思い込んでストーカー行為を始めます。

A子は古谷から逃げたものの、古谷は彼女の実家のある埼玉県でA子を探し始め、最後は無関係の女性をA子と誤認して殺○したのです。

法廷に現れたA子を古谷が襲撃!

さいたま地方裁判所(当時:浦和地方裁判所)。
この法廷内で古谷はA子を襲撃した

逮捕後に浦和地方裁判所に出廷したA子が

A子
『古谷は勝手に私のことを恋人と思い込んでいるだけで、私には関係ない』
   

と述べると、古谷は隠し持っていた竹べらを使って襲撃し、A子は全治2週間のケガを負い法曹関係者の間で大いに問題となりますが、判決は死刑で、1959年5月27日、古谷は宮城刑務所にて死刑執行されています_φ( ̄ー ̄ )

同僚殺害硫酸樽遺○損壊事件

『日本皮革』は渋沢栄一ゆかりの企業で近森も東大理学部を卒業したエリートだった
画像:公益財厨法人渋沢栄一記念財团HP

1956年(昭和31年)3月1日、東京都足立区千住緑町にある日本皮革(現在:株式会社ニッピ)の工場事務所で同社の技師・近森英治(当時28歳)が

近森
『殺○を犯した』
   

との遺書を残して自○を図った...

と思いきや!?

通報を受けた警察がやってくると近森は泥酔していただけで、目を覚ました途端に大暴れします(⊙_⊙')

近森の遺書に書かれていた内容

近森は非常に巨漢な男で、刑事4人が手錠をかけるのに10分も要していますが、遺書の内容は

2月28日に同僚の技師(当時35歳)と工場事務所で酒を飲んでいる最中に口論になり撲○してしまった。
 
2月28日に同僚の技師(当時35歳)と工場事務所で酒を飲んでいる最中に口論になり撲○してしまった。 そして遺○を試験工場にある原皮処理用の硫酸樽に入れて、証拠隠滅を図った。
 

というものでした(*´Д`*)

警察と鑑識が調べたところ、被害者の遺○の一部を硫酸樽から発見。

また近森の供述によれば高さ1.2m、直径70cmの原皮樽に遺○を投げ込み

  • 重クロム酸ソーダ
  • 濃度96%の濃硫酸
 

を投入したとのこと。

警察がコバルト色に染まった樽内の液体を抜いたところ、軟組織が溶解した

被害者の頭○骨や背骨

が残っていました_:(´ཀ`」 ∠):

手足の骨などは完全に消失しており骨格は全身の2割しかなく、また頭蓋骨には近森の供述通り殴○の跡がありました。

1959年9月8日、近森には東京裁判所で懲役6年の判決が下っています_φ( ̄ー ̄ )

昭和を代表する激ヤバ事件『少年誘拐ホルマリン漬け事件』

林邦太郎

昭和に起きた事件の中でも一際インパクトのある事件で知っている方も多いと思いますが、この事件の犯人・林邦太郎(当時26歳)は有名囲碁棋士の長男で、さらに被害者の少年はプロレスラーの長男だったため、当時、ひときわ世間を騒がせました(⊙_⊙')

1957年(昭和32年)4月2日、被害者少年は銭湯に行ったきり帰って来ず、母親のところに身代金を要求する脅迫状が届きます。

すぐに警察に通報しますが脅迫状に書かれていた場所に犯人が現れることはありませんでした。

捜査は難航するかと思われた矢先、都内の精神病院から警察に”ある患者”に関する通報が入り、それは患者だった林の自宅に

ホルマリン漬けにされた遺○がある

というもの(*´Д`*)

警察が林の自宅に駆けつけると、そのホルマリン漬けにされた遺○は被害者少年であることが判明。

事件当日、林は少年を家に連れ込み、服を脱がせようとしますが拒否されたため殴○て殺○し、その後、2晩かけて遺○を刃物でバラバラにすると、大型の金魚鉢など4つの容器にホルマリン漬けにして保存したのです。

事件の翌年、林は懲役10の判決を受け、控訴せずに服役しています_φ( ̄ー ̄ )

 

戦後初の女性死刑囚を生んだ『ホテル日本閣事件』

戦後初の女性死刑囚となった小林カウ

ホテル日本閣事件は元夫と女3人を殺○した小林カウを主犯とする1961年(昭和36年)に発覚した連続殺○事件で、また小林カウは戦後初めての女性死刑囚として知られています(⊙_⊙')

事件の発端は、経営難に陥っていたホテル日本閣を買収しようとしたことで、小林はまず経営者・生方鎌輔の妻を日本閣で雑用していた大貫光吉に指示して殺○せます。

ホテル日本閣跡地(福渡橋)
画像:Youtube

この後、小林は経営者の先方の妻となり、女将として経営の出した矢先に

『旅館には多額の借金があり競売にかけられる寸前』

であることが発覚。

そこで小林は共犯の大貫に

小林カウ
『生方を殺○て、夫婦になってホテルを経営しよう』
   

と持ちかけて共謀して生方を殺○。

(この時、小林が包丁でとどめを刺○た)

また小林はこの事件以前に青酸カリで殺○を行っており、これは逮捕後に自供しています(*´Д`*)

小林カウのもう1つの恐ろしい計画

逮捕のきっかけは『あまりに人が消える』ということで不審がられ、警察が追及したところ共犯者の大貫が自供し、その後、小林も認めたわけですが、実は彼女にはもう1つ恐ろしい計画があり、それは

小林カウ
『大貫も殺○つもりだった』
   

ということです_:(´ཀ`」 ∠):

(逮捕後に供述した)

結局、1966年に2人とも死刑が確定し、1970年6月11に同時に処刑されていますが、大貫はどちらにしても死○運命で小林カウはまさに魔性の女と言えるでしょう_φ( ̄ー ̄ )

永山則夫連続射○事件

第一の事件の舞台となった『東京プリンスホテル』

この事件は1968年(昭和43年)10月〜11月にかけて

  • 東京
  • 京都
  • 北海道
  • 愛知県
 
 

で発生した拳銃による連続殺○事件で、犯人の永山則夫(当時19歳)が在日アメリカ海軍・横須賀海軍施設から盗んだ拳銃で相次いで男性4人を射○しました(⊙_⊙')

第一の殺○事件は1968年10月11日で東京プリンスホテルの本館南側芝生付近を徘徊していた永山は警備員に呼び止められ、拳銃を所○していることがバレることを恐れて発砲。

弾丸は1発が警備員の顔面に命○し、もう1発も左側頸部を貫○して警備員は死○し、永山はそのまま逃走します。

永山則夫が逮捕時に所持していた西ドイツ製の拳◯
画像:JIJI.com

それから3日後の10月14日には京都の八坂神社で警備員を射○したことで永山は自○しようと生まれ故郷の北海道網走市に向かいますが、10月26日深夜に函館市近郊でタクシー運転手の男性を射○して売上金を奪います。

その後、いったん横浜に戻ってから名古屋へ飛びますがココでもタクシー運転手を射○し売上金を奪って逃走しています。

永山の拳○所持の発覚と逮捕、そして死刑...

逮捕時の永山則夫(真ん中)

そして翌年の1969年4月7日、東京都渋谷区千駄ヶ谷三丁目7番10号の『一橋スクール・オブ・ビジネス』に忍び込んだ永山は金品を物色していたところを警備員に見つかったため発○しますが命中せず、すぐに警察に通報されたため明治神宮の森に隠れます(⊙_⊙')

が、朝方になって永山は警察から職質を受け、その際に拳銃所○が発覚したため、その場で現行犯逮捕されます。

1990年4月に死刑が確定し1997年8月1日に収監先の東京拘置所で死刑が執行されますが彼は精神疾患を患っていた可能性があり、この一連の事件の引き金になった可能性があると個人的には思っています。

↓の記事ではより詳細に永山則夫連続殺○事件について書いており、また彼の精神疾患についても私見を書いているので興味のある方はぜひチェックしてみてください_φ( ̄ー ̄ )

 

いじめ問題の走りと言える『高校生首切○殺○事件』

この事件は神奈川県のサレジオ高等学校で起きたいじめ問題の走りのような同級生殺○事件です(⊙_⊙')

1969年(昭和44年)4月23日、同学校付近の山で加害者の少年が同級生を登山ナ○フで殺○し、10分以上かけて加害者の首を切○し、さらにその首を蹴○ばします。

加害者少年は偽装のために自分の肩を2回ナ○フで刺した後、そのナイフを現場付近の土の中に埋めて隠蔽し、車で通りかかった人に

加害者少年
『3人組の不良に襲われて、友達が殺○れた』
   

嘘をつきます(*´Д`*)

実は加害者の少年は

被害者にイジメられて

いて、これが事件の動機となっており、その恨みから『殺○後も首を切○し、首を蹴○飛ばす』という残虐な行動に出たわけです。

加害者少年のその後

その後、加害者少年は警察で自供して少年院に送られ、出所後は慶應大学→学習院大学を卒業し弁護士となっています(⊙_⊙')

また養子縁組で姓を変えて『石川一郎』と名乗っていましたが、一方の被害者遺族は精神を病み家庭崩壊寸前の状態に陥っていましたが、この石川一郎は和解金も一切支払わずに忽然と姿を消しています...

暴力団による縄張り争いから発展した『手首ラーメン事件』

最後は1978年に兵庫県と岡山県の山中からバラバラに切断された遺○が発見された『手首ラーメン事件』で締めたいと思います。

この遺○の背中にあった『天女』の刺青から住吉連合(現在の住吉会)傘下の幹部・男性(当時29歳)と判明しますがなぜか

手首だけは発見されなかった

んです(⊙_⊙')

捜査の結果、別件の殺○容疑で逮捕された幹部(当時30歳)が子分4人と共謀し男性を殺○し、子分の郷里に近い山中に死○をバラバラにして遺棄したことが判明し、また幹部は

幹部の男
『指紋で身元が判明するのが怖くて手首を持○帰ったが始末に困った。だから自分が商売しているラーメン屋台で鍋の中に入れて煮込み、残った骨は槌で粉々にして捨てた』
   

と供述しています。

SHIN
『マジで怖いんですけど_:(´ཀ`」 ∠):』
   

ちなみにですがなぜ手首だけ残っていたのかというと!?

子分たちが遺○を遺棄する際に東京に忘れてしまったためで、また殺○の動機は

ラーメン屋台の縄張り争い

とのことです_φ( ̄ー ̄ )

 
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