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残酷な世界の反乱・革命・戦争の黒歴史を紹介!
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過去に世界で起きた反乱・革命・戦争...

そこには自由と正義の名に隠された大量◯戮や事件が起きていました(⊙_⊙')

この記事では世界史の教科書には載せられないような史実を紹介していきます🥶

それでは見ていきましょう。

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ルイ16世とマリー・アントワネットを葬った男『ロベスピエール』

マクシミリアン・ロベスピエール(wikipedia)

1789年7月14日、パリ市民の蜂起(ほうき)で封建制を打ち倒したこの革命の歴史的なスローガン『自由・平等・博愛』ロベスピエールによって唱えられた。

しかし、彼はこの頃に発明されたギロチンを使って『裏切り者』を粛清していった人物でもあるんです(⊙_⊙')

彼の手によって、パリだけで2600人が処刑されたと言われており、ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを葬ったのもロベスピエールだった。

この時の粛清がどれだけ凄惨なものだったかはギロチンで処刑されたロラン夫人の悲痛な叫びがよく伝えています。

ロラン夫人
『自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか』

ロベスピエールも最後はギロチンに...

マクシミリアン・ロベスピエール(wikipedia)

粛清という名の殺戮は、パリから近隣の町に及び、トゥーロン、マルセイユ、リオンも同じ運命に...

またナントの町では500名もの子供たちが銃とこん棒で皆○しにされた

ギロチンで公開処刑された子供たちもおり首ではなく頭を真っ二つに切○されたのです🥶

(まだ小さいので処刑台に届かなかったから)

あまりに数が多いので、 効率を上げるため、キャリエという名の処刑者は『溺死刑』という方法も考え出した。

これは川の中で囚人を一杯に乗せた船を転覆させ、溺れさせるという方法だった

(岸に泳ぎ着いた囚人は斧で殴り○された)

1794年にはロべスピエールの恐怖政治はますますエスカレートしていく...

しかし、ロベスピエール自身も権力争いの末の7月28日、市庁舎に踏み込んだ反ロベスピエールの兵士たちに捕らえられ、その日の内にギロチンにかけられた。

革命という名の歴史的大量○人はこうして幕を下ろした。

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ロシア革命の引き金となった『血の日曜日事件』

血の日曜日事件の絵画(Wikipedia)

日露戦争当時、ロシア国内の人々の暮らしは戦争による経済的困窮のため恐ろしいほどの惨状になっていたのです(⊙_⊙')

そこで国民は皇帝ニコライ2世にその窮状を訴えることを決意。

これは『 真の皇帝は、国民に自由と幸福をもたらすもの』というのが古くからのロシア人の考えからでした。

皇帝への請願書は神父ガポンが作成、そして晴天の日曜日の朝、人々は雪に覆われた各通りを冬宮広場へと向かって行進を始めた

ところが、 賛美歌を歌い、十字架や聖画像を先頭にゆっくりと進む行列をネヴァ川沿いで待っていたのは政府軍だった...

当時の行進する群集の写真(Wikipedia)

人々は騎兵のサーベルに蹴散らされ、必死になって川へと逃げた。

また、ガポンを先頭に進む一団はナルバ凱旋門の前で歩兵の一斉射撃に遭い、次々と倒れていった。

5回もの射撃によって門の前の雪は血で真っ赤に染まった...

それでもまだ、人々は勇気をふるい起こしてネフスキー通りを広場へと進み、広場で銃を構えた兵士たちと向かい合う

時計塔が2時を告げた時、3回ラッパが鳴り、それと同時に兵士の銃声が広場に響き渡った。

デモ隊の大人や子供が人形のように打ち倒され、 広場の雪は血で赤く染まっていった...

参加者約7万人のうち、4000人以上の命がこの銃撃で散ったといわれています。

1950年1月22日、ロシアの首都ペテルブルクで起きた歴史上例を見ない惨劇はのちに『血の日曜日』と呼ばれる事件に。

ちなみにですがこの時、ニコライ2世は離宮でいつものように優雅に午後の紅茶を飲んでいたそうです(⊙_⊙')

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聖地奪還を理由に蛮行!?『十字軍遠征』

十字軍の遠征路(wikipedia)

『 聖地を異教徒から取り戻せ』という教皇の声に従い、 ヨーロッパからエルサレムまで遠征していった十字軍

彼ら兵士の行為は聖地奪還のためとはいえ、蛮行極まりないものだったのです...

元々、十字軍の兵士というのはゲルマン民族大移動以来、略奪と残虐行為を日常としていた小領主たちで税金と土地を手に入れるためなら殺○は朝飯前という人々だった。

ある小領主は町を侵略した時に鼻を切○落とし、両目をえ○り取った100人の人々を行進させ見せしめにしています(⊙_⊙')

そんな彼らが大集団となって、1096年の夏、ヨーロッパを出発し約3000kmの道のりを3年の歳月をかけて進んだ。

道中で蛮行の限りを尽くし、何千人単位での虐○を行う。

(赤ん坊を焼○串の上にのせてグリルにしたり、子供を串○しにするなど)

エルサレムに到着した十字軍の残虐性は爆発した!

第1回十字軍によるアンティオキア攻囲戦(Wikipedia)

目的地エルサレムに到着すると彼らの残虐性は一気に爆発した

1099年7月15日エルサレム城北門から強行突入し、見境のない大量虐○が始まる...

逃げる市民を手当たり次第に斬◯。

イスラム寺院に避難した市民は皆○しにされ、約7万人が犠牲に。

そして住居に押し入り強奪を働くほか、○体からも金品をあさり、腹を裂○て金品がないか調べ回った。

またユダヤ教徒は集められ、ドアを閉め切って火を放ち、全員焼○。

このようなやりたい放題の行為が7日間も続き、聖地エルサレムは血の海と化した...


宗教の違いが招いた惨劇『セポイの反乱(インドの大反乱)』

セポイの反乱(wikipedia)

1857年5月、インドでセポイの反乱が勃発。

そのきっかけはイギリスの東インド会社で彼らが弾薬筒にウシやブタの油を使用するという噂が広がったことにあります。

シはヒンズー教徒にとっては神聖な動物ブタはイスラム教徒とって忌むべき動物でインドの人々にとっては、とんでもない話だった。

これがきっかけでイギリス駐屯部隊にいたセポイと呼ばれるインド人傭兵がデリーを占拠し、その3週間後にイギリス軍は降伏する。

大勢の民間人も反乱に巻き込まれた。

6月、ヨーロッパ住居地域だったカウンポールには、反乱軍の捕虜になって連行されたイギリス人女性や子供たちが125名いた。

彼女たちの行方は、その翌月の7月になって判明。

この地を訪れたイギリス救援部隊のメンバーは世にもおぞましい光景を目の当たりにすることに...

制圧されてきたインド人の怒りが爆発し地獄絵図と化した!

メーラトでセポイの反乱(Wikipedia )

ある小屋はくるぶしが埋まるほどの血の海になっており、またある小屋には婦人靴が整然と並べられ、靴の中には切○取られた足が入っていた。

捜索が始まり、すぐに彼らは女性や子供の変わり果てた姿を発見する。

近くの井戸にぎっしりと溢れそうなほどの、バラバラに切断された遺○や手足が詰め込まれていた...

そして イギリス軍の医師が遺○を解剖した結果、女性たちは全て陰○から撃ち込まれた銃弾によって◯亡したことが判明したのです。

長きにわたって制圧されてきたインド人のイギリスへの憎しみが、一気に噴き出した結果といえるでしょう...

※現在ではセポイの反乱は『インド大反乱』と呼ばれる様になっています。

怒り狂った民衆に頭蓋骨を砕かれた『フェルセン伯虐殺事件』

ハンス・アクセル・フォン・フェルセン(Wikipedia)

スウェーデン出身のハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵は1793年に処刑されたマリー・アントワネットの愛人と噂される人物で領地を抵当に入れて費用を工面し、マリー・アントワネットとルイ16世を革命派の手から逃亡させたのもフェルセンだった

しかし、そんな必死の助力も実を結ばず、 民衆の怒りは王妃を処刑ダイエットを運んでしまう。

そして、フェルセンの命を奪ったのもまた、民衆の怒りだった...

それは1810年、フェルセンがオーストリア国王元帥の資格でスウェーデンのクリスチャン皇太子のお供をしていたときのこと、皇太子が閲兵の最中に脳溢血で急死してしまう。

すると、 皇太子の死はフェルセンに毒殺されたものだというデマが流れてしまうんです(⊙_⊙')

『葬儀に参加すれば命はない』という脅迫の手紙が何通も彼のもとに届いた。

しかしフェルセンは気にせずに堂々と葬儀に参列した。

が!!!

事が起きてしまったんです!!!

民衆に襲撃されるフェルセン(Wikipedia)

暴徒が彼の馬車に向かって石を投げたのをきっかけに、フェルセンは歩道に引きずり下ろされ飛び起きようとしたが群衆に押し倒され、唾を吐かれて踏みつけられた。

さらに1人の大男が仰向けに横たわる彼に飛び乗り体を踏みつけて踊った。

その結果、肋骨が折れ、頭蓋骨が踏み砕かれてしまいます。

衣服はズタズタに切り裂かれ、かなりの時間、彼は裸のまま排水溝に転がっていたがすでに息はなかった...

ピッケルで頭を...『トロツキー暗殺事件』

レフ・トロツキー(Wikipedia)

1940年8月20日、ロシア革命の指導者の一人レフ・トロツキー(レオン・トロツキーとも)は亡命先のメキシコシティー郊外のヴィラの庭先でペットのウサギに餌をやっていた。

そこで1人の青年がレインコートを手に訪ねてくる。

この青年はトロツキー信奉者のサークルに出入りしているフランク・ジャクソンで論文の原稿に目を通してもらうためにやってきた。

しかしこの青年、実は独裁者スターリンが送り込んだ刺客で彼の正体は秘密警察の局員ラモン・メルカデルだった。

(トロツキーは全く気付いていなかった)

レーニンと共に史上初の社会主義政権を打ち立てたトロツキーだったが、レーニンと対立して国外追放となりヨーロッパを転々とする。

そして、たどり着いたのがメキシコだったがスターリンの粛清の手が伸びていたとはトロツキーは思いもしなかった...

1937年のトロツキー(Wikipedia)

原稿を手にしたトロツキーは書斎のテーブルに座って読み始めた。

メルカデルは非常ボタンをさえぎるようにして、トロツキーの左側に立ち、そしてテーブルに置いたレインコートから隠し持っていた登山用のピッケルを取り出した。

目を閉じて、握りしめたピッケルを力いっぱい振り下ろすと、鋭く尖った先端がトロツキーの頭に突き刺○、一撃で頭蓋骨が砕○た。

トロツキーは絶叫した!

その悲鳴は永遠に続くかと思われたと、のちにメルカデルは告白しています。

もう一度ピッケルが振り下ろされようとした時、トロツキーは必死で客間へと逃げ、そこへ駆けつけた護衛によってメルカデルは取り押さえられ、襲撃は終わった。

すぐにトロツキーは病院に運ばれましたが26時間後に亡くなりました。

(彼の頭蓋骨には約8cmもの穴が空いていたそうです🥶)

不死身の男『ラスプーチンの殺害』

グリゴリー・ラスプーチン(Wikipedia)

1967年、 アメリカで生涯を終えたフェリックス・ユスポス侯爵はロシア革命で故国を捨てた貴族の一人でこの公爵こそ、ロシア帝政末期、宮廷に君臨した怪僧ラスプーチンを暗殺した人物なのです!

これは有名な話で知っている人も多いと思うんですけど、ラスプーチンはむちゃくちゃアレがデカくて、貴婦人を虜にしていたんですよw

またカリスマ性があり宮廷を圧していました(⊙_⊙')

息子アレクセイが患う血友病の苦しみを和らげることのできるただ一人の人間、ラスプーチンの言葉は皇帝ニコライ2世の意思をも左右していたと言われています。

入院中のラスプーチン( Wikipedia)

ユスポフ侯爵が仲間の貴族とラスプーチンの暗殺を行ったのは、1916年12月29日の夜のこと。

侯爵の家に招き、青酸カリの入った菓子やワインでもてなした。

しか〜し!!!

ワイン三本を空にしたにも関わらず、ラスプーチンはピンピンしていたのです👀

業を煮やしたユスポフ侯爵は短剣でラスプーチンを切りつけ、さらに、倒れたところを隠れていた仲間と縄で縛り上げた。

が!!!

ラスプーチンは縄を引きちぎって抵抗した。

恐怖に駆られたユスポフは今度はピ○トルの弾がなくなるまで撃ち続け、それでも足りずに鎖で縛って凍ったネヴァ川に投げ込んだ。

が!!!

が!!!

なんと、氷に穴をあけてラスプーチンは川から這い上がってきたのデス!

とここまで完全に不死身だったのですがこの後、ついに力尽きて絶命しました。

しかしラスプーチンの死因は青酸カリでもピ○トルでもなく肺に水が入ったため。

つまり溺死なんです(⊙_⊙')

遺◯は2日後に発見されましたが、彼の体から宮廷の女性たちを虜にした30cmあったというサオが切り取られていたのです。

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拷問男

ストーリー

シングルファーザーのデレクは、失踪した幼い娘が変わり果てた姿で発見され、絶望の淵に突き落とされた。

警察が捜索を続けるなか、デレクは独自に犯人を探し出し、自宅の地下室に監禁。

復讐の鬼と化したデレクは、娘と同じ痛みを与え始める。

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