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【戦国時代のミステリー特集】合戦にまつわる謎・逸話を紹介!

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戦国時代と言えば合戦ですが、合戦には様々なミステリーが残されていたり、意外と知られていないことが多く存在するんです(*´Д`*)

そこで今回は合戦にまつわる様々な謎や逸話を紹介していきますよ〜!!!

果たして戦国時代・合戦にどんな謎が隠されているのか!?

それでは合戦開始〜♪( ´θ`)ノ

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豊臣秀吉は敵のミスによって天下人になった!?

豊臣秀吉(Wikipedia)

本能寺の変で信長を討ち取った明智光秀が羽柴秀吉にあっけなく討ち取られ、これは『三日天下』という言葉の由来になっているのは有名です。

が!!!

この三日天下の影には

秀吉が偶然入手したある手紙の存在がある...

『高松城水攻築堤の図』
画像:Wikipedia

本能寺で明智光秀が織田信長に向かって兵を挙げた時、秀吉は高松城で毛利氏側の武将、清水宗治と対峙しており、あと少しで城を落とせると考えた秀吉は織田信長に援軍を要請し、その到着を待っていました(⊙_⊙')

すると!?

明智光秀から毛利氏側に宛てた手紙を持った使者

間違って秀吉側の陣に迷い込んで来たんですw

その手紙には、本能寺で信長が討たれたことが記されており、それを知った秀吉は毛利氏側に講和を持ちかける。

信長の死を知らない毛利氏は城主・清水宗治の切腹と備中・備後(広島県東部)・伯耆(鳥取県)などの領地を割譲するという条件を受け入れたわけです。

豊臣期大阪図屏風に描かれた大阪城と大阪城下。
画像:Wikipedia

その後、兵力を整えた秀吉はすぐに京へ向かい、山﨑の戦いで明智軍に圧勝。

しかし、もしも信長の死が毛利氏側に先に知らされていたら、高松城での講和が結ばれることも、秀吉が本能寺の変の直後に京へ向かうことはなかったでしょう👀

つまり!!!

一人の使者の偶然の過ちによって豊臣秀吉は天下人になれたと言えるのです_φ( ̄ー ̄ )

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関ヶ原の戦いは城で行われる予定だった!?

関ヶ原合戦図屏風(Wikipedia)

徳川家康と秀吉に仕えていた石田三成が戦ったことで有名な関ヶ原の戦いですが、実はこの戦いは当初、関ヶ原とは別の場所で行われる予定だったんです(⊙_⊙')

秀吉の死後、三成を打倒する機会をうかがっていた家康は、まず上洛(京都に上がること)の要請を無視した上杉景勝に対し挙兵(きょへい)しますが、これは三成に対する誘い水でした。

一方の三成は毛利輝元らを招集して準備を整え、美濃(岐阜県)の大垣城で家康軍を迎え撃つ予定だった...

家康は城攻めが苦手だったため...

大垣城(岐阜県)
画像:Wikipedia

しか〜し、家康は城攻めが苦手だったんですw

そこで、どうしても野戦に持ち込みたかった家康は

『大垣城ではなく三成の居城・佐和山城を攻める』

というニセ情報を流しちゃったんですw

それを聞いた三成軍は、籠城するハズだった大垣城を出て佐和山城へ移動せざるを得なくなります。

そして2つの城の間に位置する関ヶ原で両軍は対峙することになったというわけなんです👀

勝敗は家康に軍配が上がりましたが、もしも戦いの舞台が大垣城のままだったら、歴史は大きく変わったのかもしれないですね_φ( ̄ー ̄ )

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『東北の関ヶ原』と呼ばれる合戦がある!?

伊達政宗
画像:期待値クマパパ.COM

家康と三成の両軍が天下分け目の決戦を関ヶ原で行っていたのと時を同じくして

『東北の関ヶ原』

と呼ばれる激戦が行われていました(⊙_⊙')

これは長谷堂城の戦いとも言われる、慶長出羽合戦のことで、西軍についた上杉景勝の軍勢と東軍についた最上義光・伊達政宗の軍勢が東北で激突することに(*´Д`*)

東北では上杉・最上・伊達の3氏がしのぎを削っていましたが、反徳川勢力の上杉が家臣の直江兼続に最上を攻めるように命じたことで『東北の関ヶ原合戦』は始まったのです。

兼続はあっという間に最上領を席巻(せっけん)し、関ヶ原の戦いが行われた同日には、最上の居城・山形城の近くまで肉薄し、前衛である長谷堂城を取り囲んだ...

自害することを決意した兼続を...

前田慶次
画像:傾奇萬屋 Jamil ONLINE STORE

しかし、長谷堂城主・志村光安らの奮闘もあり、長谷堂城は頑なに落ちず、さらに最上勢に伊達の援軍が到着したことでこう着状態に。

そんな状況で両軍に

『関ヶ原で三成の西軍が大敗した』

という一報が届き、これを知った兼続は

『天、我に味方せず』

と言って自害しようとします。

が!!!

それを諌めた(いさめた)のが花の慶次でお馴染みの

前田慶次♪( ´θ`)ノ

で、慶次に説得された兼続は撤退を決意。

この時、最上・伊達の猛烈な追撃を受けながらも2万の軍勢を撤退させた兼続は実に見事で、家康さえも感嘆(かんたん)させたそうです_φ( ̄ー ̄ )

生涯無敗の武将①吉川元春

吉川元春(Wikipedia)

生涯無敗を誇る武将として名前があがるのが

  • 吉川元春
  • 立花宗茂

の2人です(((◞︎( ・ิ౪・ิ)◟︎

吉川元春は毛利元就の次男として生まれ、母方の従兄である名門、吉川家の養子になり家督を継いでいます。

月山富田城跡
画像:Wikipedia

そんな元春の名を世に知らしめたのは、毛利氏の長年のライバルであった尼子氏を降伏させた月山富田城の戦いで、この勝利によって毛利氏は中国地方の支配を確立。

その後も秀吉の毛利攻めを撃退するなど、57年の生涯で76回の戦いを挑み、元春が手がけた合戦における勝率は

8割以上

と驚くほど高いものだったのです(*´Д`*)

②生涯無敗を貫いた『立花宗茂』

立花宗茂(Wikipedia)

一方の立花宗茂は元春から30年遅れて生を受けますが、幼い頃より武人としての才能をうかがわせ、また大友氏の家臣で鬼神と恐れられた立花道雪から直々に養子に迎えられるほどでした(⊙_⊙')

やがて秀吉に認められ傘下に入りますが、関ヶ原の戦いの前に家康が味方に引き入れようとした...

というように宗茂の戦の才能は誰もが認めるものだったんです。

結局、関ヶ原の戦いの後、家康に取り立てられ大名に復帰し、76歳でこの世を去るまで立花宗茂は

生涯無敗を貫いた

のでした_φ( ̄ー ̄ )

刀は戦場の主な武器ではなかった!?

槍を携える山中幸盛(月岡芳年画)
画像:Wikipedia

『合戦では武士たちが刀を振りかざして戦う』

というようなイメージがあり、鉄砲が入って来るまでは刀を中心としていた

『チャンバラ合戦が繰り広げられていた』

と思われてきました。

が!!!

どうやらそれは違うようです_:(´ཀ`」 ∠):

たしかに戦国時代、刀は武士にとってなくてはならないものでした。

しか〜し、それは敵を組み伏せる場合にのみで、大群で敵に切りかかるような合戦では刀は使用されていなかったんです(⊙_⊙')

この理由は刀を使って接近して攻撃すると、敵だけでなく味方にも死傷者が出てしまうからです。

自分の軍の兵はできる限り無傷のままで、敵だけを倒したい』

そうするには接戦を避ける必要がありました👀

そんな戦術を可能にした武器とは!?

それは

槍!!!

槍は刀に比べて扱いが簡単で、訓練をあまり受けてなくても使うことができるというメリットもありました👀

真田幸村

戦国時代の兵士の中には領地の農民も多くいたのですが、彼らは普段から訓練を受けている職業兵士ではないため、扱いやすい槍は彼らにピッタリの武器だったわけです。

また、柄の長さも大きな利点で、手槍で2〜3m、長柄と呼ばれる長い槍は3〜5.5mもありました👀

そのため、相手との間合いを大きく取りながら戦えるので、防御の意味でも槍は優れた武器と言えるでしょう。

また

  • 突く
  • 叩く
  • 払う

というように用途も様々。

真田幸村が愛槍の十文字槍を持って、大阪夏の陣で家康を追いつめた』という有名な話があるように、名のある武将にも槍は好まれていたのです_φ( ̄ー ̄ )

鉄砲を使わせたら最強の傭兵集団『雑賀衆』

『太平記英勇傳 鈴木孫一(雑賀孫一)』
画像:Wikipedia

戦国時代の終わり頃に各地の戦場で名を上げた集団がいます。

それは

雑賀衆♪( ´θ`)ノ

彼らは当時、鉄砲を使わせたら最強と言わた傭兵集団で、巧みなチームワークで次々と勝利を収めていました。

(1570年、天下統一を目論む織田信長と、それを阻む顕如(けんにょ)率いる本願寺勢力が激突した石山合戦で、雑賀衆が本願寺側に付いて、信長を苦しめたという有名な話があります)

雑賀衆は紀州(和歌山県)の60以上の土豪(どごう)たちの集まりで、その中でも土橘家と鈴木家が大きな勢力でした(⊙_⊙')

またリーダーには代々

雑賀孫一』

の名が継承されています。

雑賀衆は金さえもらえれば...

石山合戦図(Wikipedia)

雑賀衆は戦国の世において特殊な集団で、雇われて戦いに参加する傭兵集団という見方が強いんです(⊙_⊙')

彼らは金さえ貰れればどこででも戦いましたが

『雑賀を味方につければ必ず勝てる』

と言われていたため、その実力は本物だったようです♪( ´θ`)ノ

しかし、石山合戦で本願寺の要請を受け入れたのは金銭だけが理由ではなかったのです👀

というのも、雑賀衆の中には本願寺と同じ一向宗の信者が多かったため、肩入れしたとされています。

また雑賀衆の全員が傭兵とは限らず、足並みが常に揃っていたわけでもなく、実際に石山合戦の後半で雑賀衆は分裂し、対立関係に発展しています(⊙_⊙')

石山合戦は1580年に終結、その後、雑賀衆は内部の権力争いに巻き込まれ、最終的には敵に回した秀吉の猛攻に遭い、独自集団の役目を終えることになりました_:(´ཀ`」 ∠):

織田軍は『戦国最弱軍団』だった!?

信長死後に宣教師によって描かれたとされる肖像画を写真撮影したもの。
画像:Wikipedia

天下統一にまであと一歩まで迫った織田信長ですが、彼が率いる織田軍には”ある特徴”がありました👀

それはなんと!?

『ここぞという命懸けの場面では驚くほど弱かった』

というんですw

これは、信長の軍隊が

金で雇われた兵士が中心だった

ことが原因です(*´Д`*)

戦国時代の中期以降、兵農分離によって兵士を職業とする者たちが出てきて、彼らは日常的に武器を持ち、訓練を行い、戦闘のプロとも言える傭兵軍団になります。

この傭兵軍団は足軽と呼ばれ、足軽を雇うことで、各軍はいつでも出陣できるようになったわけですが...

新しいものを積極的に取り入れることを好んだ信長は特に足軽たちを重用したようです(⊙_⊙')

(農民を徴兵するのとは違い、足軽は農繁期に左右されずに戦うことができるため)

では、なぜ戦闘のプロである足軽たちはここぞという場面で弱かったのか?

足軽たちがいざという場面で弱かった理由!

火縄銃の一斉射撃を行う足軽部隊
画像:Wikipedia

では、なぜ戦闘のプロである足軽たちはいざという場面で弱かったのか?

それにはこんな理由があるからなんです↓

農民兵士にとって、戦に負けることは自分の土地・家族を奪われることを意味うするので、必死に戦うわけですが...

足軽たちは守るべき土地がなく、さらに金で雇われているに過ぎないので、命懸けで戦に挑む覚悟がなかったんですw

さらに!!!

織田軍と浅井長政の軍が戦った姉川の戦いでも、足軽の弱点が露呈しますw

序盤戦、数の上では織田軍が有利で圧倒していたハズなのに、猛攻撃を仕掛けてくる浅井軍に大苦戦を強いられ、一時は浅井軍が織田本陣に迫る勢いだったそうです(*´Д`*)

しかし、信長がこだわった傭兵部隊は戦国時代が進むにつれ

兵力の確保

という点においては先見性があり、正しい選択だったと言えるでしょう_φ( ̄ー ̄ )

天下人になった徳川家康の2つの替え玉説!

徳川家康
画像:Wikipedia

北朝鮮の金正恩には影武者がいると噂されていますが実は徳川家康にも2つの替え玉説があります(*´Д`*)

まずひとつ目は

『家康は桶狭間の戦いで死◯でいたのではないか?』

という説です。

家康は幼少時代に松平家から今川氏に人質に出されており、今川軍と織田軍が戦った桶狭間では、今川軍の前線で戦っていた

そして、今川軍が敗れると今川氏と決別し、信長と同盟を結んでいる。

その家康が替え玉と言われており、正室の築山殿や長男の信康を殺◯、力をつけて本家の松平家を冷遇しているというのがその根拠とされています(⊙_⊙')

徳川家康の替え玉説②

『従一位右大臣 征夷大将軍源家康公』
画像:Wikipedia

2つ目は

『大阪夏の陣で討ち死◯していたのではないか?』

という説です。

冬と夏の2度にわたって繰り広げられた大坂の陣は、江戸に幕府を開いた家康が大阪の豊臣家を滅亡させるために挙兵した戦いで、史上空前の白兵戦となりました👀

徳川軍も大苦戦し、軍の指揮官が次々と死傷した激闘の中で

家康も絶命したのではないか?

と言われているわけです。

家康が亡くなったと世に広まることで、徳川幕府の土台だ揺るぎかねないため、替え玉を立てることで徳川幕府の安定を図ったのではないか!?

と言われていますが真相は明らかになってはいません_φ( ̄ー ̄ )

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