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【中村久子】両手・両足を失い『だるま娘』と呼ばれた女性の壮絶な人生!
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大正時代、わずか3歳で両手足を失い、後に『だるま娘』の芸名で見世物小屋の芸人になった女性がいます(⊙_⊙')

名前は中村久子で、彼女は身体的ハンデによって想像を絶するほど過酷な人生を送ることになります。

この記事では中村久子の数奇な興行生活とその人生について紹介していきます_φ( ̄ー ̄ )

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中村久子はなぜ両手足を失ったのか!?

久子自身が縫い上げたこの日本人形はヘレンケラーに贈られた。

1897年(明治30年)11月25日に岐阜県大野郡高山町(現・高山市)に生まれた中村久子は、3歳の時に

左足のしもやけが原因

体の一部が壊死する突発性脱疽(だっそ)となり、やがて右足と両手にまで病は伝染していきます(*´Д`*)

医者から

『切断しなければ命がない』

と言われ驚いた久子の両親は『なんとか他の方法がないものか』

探していたのですが、ある日、両親は泣いている久子を見て呆然とします。

それもそのはず。

久子の真っ黒になった左手首がポトッと落ちたのですから(*´Д`*)

結局、両親の願いも虚しく、久子の両足は膝から下、両腕は肘から下が切◯された...

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血の滲むような努力で着物を縫い上げれるまでに!

ヘラを口に咥えて布地に折り目をつけている様子

久子の不運はそれだけにとどまらず、7歳の時に父・栄太郎が急性脳膜炎で他界してしまい、10歳の時には弟の栄三も急逝してしまうんです_:(´ཀ`」 ∠):

母・あやはその後、藤田という男性と再婚しますが、久子は義父から口汚い言葉を浴びせられ、また『人に見られないように閉じ込められる』

といった虐○を受けることになるんです(⊙_⊙')

そんな久子は

『学校に行きたい』

という夢を持っていました。

が!!!

障害者差別が強かったこの時代、その夢が叶うことはありませんでした。

久子は大好きな人形に毎日

『あんたはおテテ(手)もアンヨ(足)もあっていいわね』

と語りかけていたそうです。

そんな久子に対して祖母は優しく、母は心を鬼にして厳しく接しました。

母は、手足のない自分の娘に

  • 火起こし
  • 寝具の上げ下げ

までやらせて

母・あや
『できないのは横着だから』

と言い放ったのです(*´Д`*)

また母は久子に

  • 裁縫
  • 洗濯
  • 料理

など、この時代の女性が当たり前に身につけることも教えます。

一方、祖母は

  • 文字の読み書き
  • 書道
  • 編み物

を教え、久子は血を滲むような努力を重ねた結果、18歳になる頃には

着物を縫い上げる

までになったんです!!

それから

久子
『自分には何ができるのか?』

と真剣に考えるようになり、また国からの扶助料も拒否した久子は故郷を離れ、1916年(大正5年)に20歳で見世物小屋で働くようになるんです。

(久子は生涯を通じて国からの障害者への保障を受けることはなかった)

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『だるま娘』として人気を博した久子!

見世物小屋の絵看板

画像:エトノスシネマ

見世物小屋とは奇形の人間や動物、ヘビの丸呑みなど...

インパクトのあるものを見世物とした小屋仕立ての興行のことで、エレファント・マンとして知られるジョゼフ・メリックも見世物小屋のショーに出て生計を立てていました(⊙_⊙')

久子につけられた芸名は

『だるま娘』

で、彼女は努力によって習得した

  • 書道
  • 裁縫
  • 切り絵
  • 編み物

を芸として披露したのです。

最初は地味だと言われたものの、出来はどれも素晴らしく、やがて日本全国はもとより、朝鮮、台湾にまで巡業するほど人気を博したのです!

さらに!!!

この時期に、自伝が婦人雑誌の懸賞で1位になり、久子には賞金と義足が贈られています。

久子は4ヶ月かけて自らの足で歩けるようになり(義足をつけて)

久子
『1人で買い物に行けることが何よりも嬉しかった』

と話しており、さらにさらに!!!

無理だと諦めていた夢が叶ったのです(ΦωΦ)フフフ・・

それは同じ見世物小屋で働く男性との結婚で、長女を出産するという夢で、久子はまさに幸せの絶頂にいた!!!

ハズでした...

久子は全てを一瞬で失う

中村久子

というのも久子の夫が病に倒れ、乳飲み子を抱えて1人で奮闘する中、さらに追い討ちをかけるように関東大震災が起きてしまい、その数週間後には夫が亡くなってしまい、久子は自分と長女の命以外の全てを一瞬で失ったのです(*´Д`*)

それから生きるために久子は再婚を決意し、再婚相手との間に次女が生まれますがなんと!?

この2番目の夫とも死別してしまい、さらに3番目の夫は女癖が悪い上に浪費家で、三女を授かるものの、わずか10ヶ月で急逝...

そして昭和9年に4度目の結婚をした久子は程なくして興行の世界から身を引いたのです。

ヘレン・ケラーも久子を称賛!

ヘレン・ケラー

視覚と聴覚の重複障害者でありながら世界各地を歴訪し、障害者の教育・福祉の発展に貢献したヘレンケラーが昭和12年に来日した際に久子に対して

ヘレン・ケラー
『私より不幸な人、私よりも偉大な人』

という言葉を贈っています(⊙_⊙')

そして久子は1968年(昭和43年)に脳卒中で亡くなるまで、夫や娘に背負われながら、ヘレンケラー同様に社会福祉活動を精力的に続けたのです。

久子の遺◯を見た医師たちは

『この体でよく72年間生きられました』

『きっと、とても辛かったことでしょう』

と涙を流したそうです。

しかし久子は生前にこのような言葉を残しています。

久子
『人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。 生かされているのだと言うことです。』

久子
どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。 いかなる人生にも決して絶望はないのだ。

と。

わずか3歳で両手足を失い、度重なる不幸に見舞われながらも、挫けずに人生を最後まで全力で走り抜いた中村久子さんだからこそ説得力のある言葉と言えるでしょう_φ( ̄ー ̄ )

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