”死”
それは人間に平等に訪れ、誰しもが安らかに最後を迎えたいと願うでしょう...
しか〜し!!!
歴史上の偉人たちの中には、残念過ぎる死(死後)を遂げた人たちが数多く存在します_:(´ཀ`」 ∠):
そこでこの記事では偉人たちの残念な死に方を紹介するという非常に趣味の悪い内容でお送りしたいと思いますw
それでは、早速、見ていきましょう_φ( ̄ー ̄ )
Contents
ミイラにされて輪切りにされた!?ツタンカーメン
ツタンカーメンは『生きている時に具体的に何をしていたか?』よりも死後のミイラとなったことの方が遥かに有名でしょうw
実際、長らくツタンカーメンの存在はエジプト史の中では目立っていなかったのです。
しかし、1923年に3000年の時を経て、ツタンカーメンのミイラが発見され、探検家たちが墓に入って大量の黄金で作られた副葬品を全て持ち去ることに...
そしてツタンカーメンのミイラはメスを入れられ、輪切りにされ、X線やCTスキャンにかけられ、穴を開けられてDNAを調べられるハメに_:(´ཀ`」 ∠):
死後に自分の亡骸がこんなに切り刻まれるとは思いもしなかったでしょうね👀
ツタンカーメンをミイラにするための処置の方法!
ツタンカーメンはわずか9歳で即位したため、少年王とも呼ばれており、また10歳でアンケセーメンと結婚していますw
(ツタンカーメンとアンセケーメンは腹違いの兄弟)
そして19歳でこの世を去ったわけですが、古代エジプト人は死後の生命を信じていたため、新たな旅路に向けてファラオの遺○を整える必要があり、70日間かけてミイラにするための処置が行われたのです。
死後の旅の途中で体を腐らせないようにするために、中身を空にする必要があるので、まずは『青銅製の長い針を鼻の穴から差し込み、少しずつ脳をかき出す』
というやり方で脳が取り出されたわけです(⊙_⊙')
また古代エジプトでは物事を考えるのは”心臓”と信じられていたため、脳はそれほど重要視されておらず、そのままの状態で残されたのは
- 歯
- 爪
- 目玉
- 心臓
- 性○
でした(*´Д`*)
さらに、腹を切って、内○を掴み出して、それらを全て綺麗に洗って乾かし、カノポスと呼ばれる4つの壺に納め、そして亡骸にナトロンという粉(天然の炭酸塩の一種)をまぶして、台の上に寝かせて乾燥させます。
続いて行われるのがツタンカーメンをミイラらしく仕上げる作業で、体が崩れないようにフットボール場半個分の包帯を全身に巻きつけますw
(包帯を巻きながら、143個の護符も挟み込んでいく)
また、包帯がほどけるのを防ぐために、温めた樹脂を塗ってしっかり固めちゃいます!
そして召使たちがファラオが持っていくにふさわしい
- 王座二脚
- 投石ひも2本
- ハチミツ2壺
- 二輪戦車6台
- 黄金の像30体
- 模型の船35艘(そう)
- 杖130本
- 矢427本
- 大量のサンダル
などの品々を王宮から運んで来たら、豪華絢爛なツタンカーメンのミイラは完成♪( ´θ`)ノ
ツタンカーメンが亡くなった当時、200年もの間、王が死○でもピラミッドは作られておらず、理由は墓荒らしがミイラや副葬品を全て盗んでいたからです。
そのため、ツタンカーメンの墓はピラミッドではなく『王家の谷』に隠し、そこで3000年の間、眠り続けたのでした。
ツタンカーメンは殺された!?
1922年にハワード・カーターという王家の谷を20年間、発掘してきた人物が、大量の砂の下に埋もれていたツタンカーメンの墓を発見。
その後、カーターは10年かけて副葬品をより分け、各国の博物館に配るんですが、カーターは『とっとと国へ帰れ』とエジプトの人々に言われちゃいますw
しかし、カーターと発掘チームは帰る前にふと、『検死解剖』をしようと思いたつのですが、ミイラは棺の底に張り付いており、黄金のマスクも頭部にくっついていた為、容易いことではありませんでした(⊙_⊙')
それでもカーターはどうにか当たりをつけ、『ツタンカーメンは若くして亡くなったのでは!?』と考えました。
彼がそう考えた理由は親知らずが全部生え揃っておらず、足の骨も発達が十分ではなかったからで、その後、ツタンカーメンは石棺に戻され、再び王家の谷で眠ることに...
それから約半世紀後の1968年にイギリスの専門チームがツタンカーメンの死因を突き止めるために、X線でミイラを検査すると!?
胸部と性○、胸骨、片方の手の親指、肋骨が何本かないのに気づき、さらに脊椎骨の融合や頭蓋骨の変形が確認された。
チームはこうしたデータから、なんと!?
と発表したんです_:(´ཀ`」 ∠):
が!!!
2005年にエジプトのチームがCTスキャンでミイラを調べると、カーターが検死後に発表していない”ある事実”が発覚するんです(*´Д`*)
実はカーターはツタンカーメンの腕や足をもぎ取り、胴体を半分に切○していたんですよw
さらに、黄金のマスクを外すために、ナイフを使って頭まで削って、143個の護符を手に入れようと包帯も切っていました。
また性○や親指、肋骨はくっつけるのが面倒だったのか、『砂に埋めて、それからツタンカーメンを木箱ごと、棺に戻した』ということをやっちゃってるんですw
つまり、カーターは墓荒らしと同じというわけです(*´Д`*)
しかし、CTスキャンによって別の新事実も発覚したのです...
ツタンカーメンの本当の死因はマラリアだった!?
2009年に再びエジプトの科学者チームが今度はツタンカーメンの骨からDNAサンプルを取り出し、血液なども詳しく調べたところ、彼はケーラー病に罹っていたことが判明。
この病気によって、ツタンカーメンの骨は壊死を起こしていたと考えられています(⊙_⊙')
副葬品に大量の杖が納められているのはこれが理由で、生前も死後も杖が必要だったわけです。
しかし、ツタンカーメンを死に至らせたのはケーラー病ではないんです。
ツタンカーメンはマラリアに感染していたことも判明しており、足が壊死し、大腿骨が折れ、最後にマラリアがトドメを刺したと考えられています(鎌状赤血球貧血症が原因という説も)
実はカーターたちが行った最初の検死の報告書に
と記されているんですが、それはもしかしたら”蚊”に刺された痕かも知れず、つまりツタンカーメンは一匹の蚊によって命を落とした可能性があり、もしそうなら残念過ぎる死因と言わざるを得ないでしょう_φ( ̄ー ̄ )
ボロボロの状態で死んでいった『クリストファー・コロンブス』
コロンブスは海では神がかった才能を発揮していましたが、陸地では、パッとしなかったようですw
当時の人々は薄っすら『地球って丸いんじゃね?』とは思いつつ、粗末な食事で狭い船室に詰め込まれ、わざわざ遠回りして陸地を探すような真似をする人間に対して『何が楽しくてそんなことするの!?』『頭がおかしいんじゃない!?』
というような考えを持っていました(*´Д`*)
しかし、世間に馬鹿にされようと自らの夢・ロマンを追い求めるコロンブスの意志は揺らぐことはなかったのです💪🤩
イタリアで生まれたコロンブスは20代でポルトガルへ移り、結婚して2人の息子をもうけます。
そしてコロンブスは自分の夢を叶えるためにポルトガル王室に掛け合ってサポートをお願いするも、断られますw
なのでコロンブスはスペインに向かい、共同統治者のフェルナンド2世とイサベル一世に航海のための資金援助をお願いしますが、6年経っても良い返事は貰えずw
そこでコロンブスはこんな提案をするんです...
と。
この提案でフェルナンド2世とイサベル一世はようやく、協力してくれるんですw
ここまでゴリ押せるのはやっぱり頭がおかしいからでしょうwww
航海でコロンブスの才能が発揮される!
1942年に
- ニーニャ号
- ピンタ号
- サンタ・マリア号
という3隻の船に100人ほどの男が押し込まれます。
この時のコロンブスは41歳で、この時代は望遠鏡やサングラスはもちろん、船内用の便器もない時代だったため、一向は装備らしい装備がない状態で西を目指すことに。
航海には3年がかかると言われていましたが、コロンブスは類稀な航海術でわずか33日で陸地を発見しちゃうんです♪( ´θ`)ノ
そして
と宣言。
島はサン・サルバドル島と名付けられ、原住民は裸同然の姿でしたが、なんと!?
黄金の鼻輪をしていました。
そこでコロンブスは
と横取りして、一向は戦利品を手にして帰還することができたのです_φ( ̄ー ̄ )
2度目の航海に悲劇!?原因は下痢w
帰還したコロンブスは完全に英雄扱いで、戦利品を持ち帰ったため、フェルナンド王とイサベル女王は2度目の航海を許すんです。
そして1493年にコロンブスは17隻の大船団を率いて出航。
目指すはサン・サルバドル島で、目的は黄金を掘り出すため。
ところが!?
航海の途中でコロンブスは体調を崩して、下痢になるんですw
これが悲劇の始まりで、当時、船で腹を壊すと用を足した後に、船にぶら下がっているロープで尻を拭いていたんです。
そして下痢をしたコロンブスもロープで拭くのですが、その後に他の乗組員たちがロープを触り、その手で食事をしたことで一気に感染拡大してしまいます_:(´ཀ`」 ∠):
さらに、何ヶ月も潮風を浴びたことで、コロンブスの関節は腫れ上がり、ついには歩けなくなった...
それでもコロンブスは必死に航海を続けましたが、東洋も黄金郷も発見することはできなかった。
帰国したコロンブスから報告を受けたフェルナンド王とイサベル女王は当然、面白くありません。
『時間を下さい』と必死に訴えるコロンブスでしたが、この時のコロンブスの体はボロボロで、長期間、日光に晒されたことで目は充血し、船では塩漬け肉や酢漬けの鰯を食べ、葡萄酒を散々飲んでいたことで痛風になり、足が腫れてまともに歩けない。
とても、航海に出て、戦利品を持ち帰れるとは思えませんでしたが、王と王女は3度目の航海のための資金援助を出すことにしたのでした。
コロンブスはマラリアに罹り、その後...
3度目の航海では一行はベネズエラに上陸し、新世界の発見を果たしましたが、コロンブスはその目で新大陸を見ることも、足を踏み入れることもできませんでした(⊙_⊙')
(目はさらに悪化し、関節炎で背中は曲がっていた)
もはや、コロンブスは船どころか自分の体の舵取りすらできなくなっていたので、主甲板に彼専用の船室が作られました。
体の自由も効かず、目もほとんど見えない状態で、コロンブスは4度目の航海に出ており、その際に新しい土地に到着(数百年後にパナマ運河が開通する)
しかし、喜びも束の間で、コロンブスはマラリアに罹ってしまい、自慢の航海術も使えなくなり、船は難破して一行はジャマイカにたどり着く。
部下のひとりが近くのイスパニョーラ島まで丸木船を漕いで、救援を出す頃には1年が過ぎていた...
そしてコロンブスは瀕死の状態でどうにかスペインに戻り、その後は修道院で修道士の介抱を受けることになります。
そして1506年5月20日、54歳でコロンブスは亡くなり、葬儀に参列する者は誰もおらず、新聞で報じられることもありませんでした。
この時、イサベル女王はすでに亡くなっていましたが、フェルナンド王はコロンブスの取り分を遺族に支払う気はなく、誰もが『コロンブス』という名前を口にすることすら憚られるように。
そして遺族も、コロンブスが残した地図や手紙をすべて売り払ってしまいます。
このように夢とロマンを追い求めた彼の最後は残念極まりないものだったのです_φ( ̄ー ̄ )
太る→腐る→破裂!!『ヘンリー8世』
ヘンリー8世は17歳でイングランド王に即位、馬上槍試合(ばじょやりじあい)や格闘などの武芸の才能があったヘンリーは国民の期待を集め、また側近たちからも敬愛されていました。
が!!!
それは一時的なもので、
ヘンリーは気に入らない者を容赦なく殺○などの残忍な行為が目立つようになり、この光景を目の当たりにしたことで側近たちの心は離れ、また、とてつもなく恐ろしい存在になってしまうんです(⊙_⊙')
またヘンリーは毎日のように大饗宴をくり広げていたのですが、そのせいで元々は美男でしたが醜い巨漢へと自らを変えてしまうハメになります_:(´ཀ`」 ∠):
ヘンリーの食欲はとどまるところを知らず、最終的には145キロまで太り、外見も中身も怪物のようになってしまうんですw
足の痛みに襲われるヘンリー8世
ヘンリー8世の太ももは紫色に変色した傷が口を開け、腐りかけの肉や膿、静脈や神経の末端がむき出しになって酷い悪臭を放っていました_:(´ཀ`」 ∠):
この傷によってヘンリーは激痛と高熱に苦しめられる...
そのため側近たちは鉛や銀、粉炭(ふんたん)、サンゴの粉、などを集めてきて、それを煮込んで糊状にして王の足に塗ったり、おがくずと一緒に水に混ぜて飲ませたりしていました(⊙_⊙')
この処置によって、一旦は皮膚の感染症が良くなった!?
と思うとまた悪化し、その度に侍医たちはこの治療を初めから繰り返していました。
しかし、『ヘンリーの足の痛み』についてとやかくいうのは誰であっても許されなかったんです。
なぜなら、密偵が放たれ、王の体調について噂する者がいれば報告するように命じられているからで、もし見つかれば耳を削○落とされるか、火炙りの刑に処されるのです。
なのでヘンリーが現れる先々では人々は口をつぐみ、誰もが、けして話題にすることができない存在だったのです。
太り過ぎで馬が倒れる!?
そんなヘンリーが人生最後の馬上槍試合をしたのは44歳の時で、その時の彼は鎧かぶとで全身を覆い、足を引きずりながら、馬にまたがった。
また馬も試合用の装束に身を固めており、ヘンリー&愛馬はあまりにも巨大な標的で、負かすのは簡単。
しかし、王を勝たせないといけなので手加減はしたのですが、この時は勝手が違い、相手が長槍でヘンリーの馬を軽く突いただけで、馬は重みに耐えれずに潰れてしまいます。
さらに悲劇だったのが横転した馬がヘンリーの良い方の足を下敷きに!!!
ヘンリーはあまりの衝撃で気を失ったそうですw
周りの人間はこれでヘンリー8世もお終いだと思いましたが、それを口に出す者は当然いませんでした。
それは賢明な判断で、なぜなら気絶から2時間後、ヘンリー8世は目を覚ましたからです(*´Д`*)
ヘンリー8世死す!
ある日、ヘンリーは鹿狩りに出かけたのですが、帰って来ると熱があり、体がむくんでいました(⊙_⊙')
両足は腫れ上がり、歩くこともままならないヘンリーを見て、誰もが『王は死○かけている』と思いましたが、それを口にする者は当然、誰もいません。
側近たちは王の尿を瓶に集めて飲んだ水の量と比べ、侍医たちは大便を調べ、熱を下げるために浣腸を行い、理容外科医は足の傷の治療にかかります。
しかし、治療の甲斐もなく、1547年1月28日にヘンリー8世は55歳でこの世を去りました。
死因は両足の感染症に加え、肺に十分な血液が行きわたらなかった(肺塞栓症)ため。
王が亡くなってからも、しばらく家来たちは恐ろしくて2日間も王の死を明かすことができなかったようです。
またベッドの上に横たわるヘンリーの屍は強烈な悪臭を放っていましたが、その状態でいつも通り王の部屋に食事が運び込まれていたことから、側近たちがヘンリー8世をどれだけ恐れていたかを窺い知れますね(*´Д`*)
遺○が鉛の棺に安置された際に、どうやら棺がきつく閉じられていなかったのか、ヘンリーの巨体が横たわるうちに、体に溜まった有毒物質が爆発して、棺の縁から肉片がこぼれ出たと言われています。
ヘンリー8世は暴飲暴食から太り、それにより健康を害し、足は腐り、遺○は爆発するという残念な末路を迎えたのでした_φ( ̄ー ̄ )
あらゆる病気に冒された天才『ガリレオ・ガリレイ』
ガリレオは『地球が太陽のまわりを回っているのでは?』と考えたのですが、それはカトリックの教えに反し、当時、そのような思想を抱いただけで死に値するとみなされていたのです(⊙_⊙')
ガリレオはイタリアの大学で20年間、数学の教授を務めており、その頃は教授と学生が一緒に暮らすのが普通で学生に対して『氷はなぜ葡萄酒に浮くのか?』というような愉快な課題を出しては、最終的に葡萄酒を全て飲み干すというようなことを日常的にやってましたw
大学の中ではすでに大物だったガリレオは、のちに世界中にその名を轟かせて『近代科学の父』と呼ばれるようになります。
ガリレオが生きた時代、16世紀では35歳を迎えられたら運が良いと言われたほど、現代に比べて寿命が短かったんです_:(´ཀ`」 ∠):
天然痘をはじめとした、さまざまな病に対して医者はどうすることもできずに、多くの人たちが若くしてその生涯を終えています。
しかし、ガリレオは45歳になってから、望遠鏡の制作に取り掛かっていますw
(この望遠鏡によってガリレオは地球が太陽のまわりを回っていることを発見)
葡萄酒が原因で様々な病気になった!?
ガリレオは葡萄酒ばかり飲んで、水を飲まなかったことが原因で腎結石になってしまいます(⊙_⊙')
(この当時は水よりも葡萄酒の方が健康に良いと考えられていた)
また痛風にもなり、手の指は変形してしまい、爪は捻れ、手の皮がむける。
天才・ガリレオも知らなかったのです。
風味をつけるために葡萄酒に入っている鉛が毒であることや、葡萄酒の大樽に使われている金属から鉛がしみ出ていることは...
さらに鉛入りの葡萄酒を飲み続けたせいで、ガリレオは頭痛、貧血に悩まされ、歯は腐ってしまいます_:(´ཀ`」 ∠):
また『二大世界体系に関する対話』という本を書いている時には、ヘルニアや緑内障にもなりましたが、それでもガリレオは書くことはやめなかったのです。
異端審問にかけられるガリレオ
当時、カトリック教会の警察ともいうべき検邪聖省(けんじゃせいしょう)に『宇宙の中心は太陽』だと口にして火炙○にされた男がいました。
この男はカトリックの教えに反する言葉を口にしたことで、異端審問にかけられた結果、火刑に処されたのです(⊙_⊙')
検邪聖省には誰であっても教会の教えに反する思想を抱く者は捕まえることができる、権限が与えられており、対象者は異端者と呼ばれ拷問や死刑に処せられることも珍しくありませんでした。
そんな状況下でガリレオは1632年に本を発表してしまい、案の定、検邪聖省に呼び出され、異端審問にかけられてしまう...
審問所に入った時、その部屋の中で最も賢い人物は間違いなくガリレオでした。
しかし、そんなことは審問官には関係なく、ガリレオは異端だと断じたわけです(*´Д`*)
そこで賢いガリレオは考え、言ったのです。
これが功を奏し、なんとか死刑は免れましたが、終身刑の判決が下されました。
しかしこの時のガリレオの年齢はすでに69歳でこの当時の感覚で言えば、生きた屍のような存在だったため、審問官たちは減刑し、ガリレオを別荘に移して自宅軟禁にしたのです_φ( ̄ー ̄ )
77歳まで生きたガリレオ
それでもガリレオは研究を続けますがやがて、目は完全に失明し、全身の至る所が痛むようになったため、弟子たちに椅子ごと運んでもらわないといけない状態に...
それでも彼は研究をやめることはありませんでした(⊙_⊙')
しかし、判決から8年後の1642年1月8日、ガリレオは腎不全によって77年の生涯に幕を閉じる。
35歳まで生きれたら運が良いと言われた時代に、ボロボロになりながらもガリレオは77歳まで生きたのです。
異端者とされていたので、盛大な葬儀が許されず、遺○はフィレンツェのサンタクローチェ教会に運ばれ、物置き程度の小さな部屋にガリレオは葬られた...
それから95年後、ようやく科学の世界がガリレオに追いつき、彼の亡骸は聖堂内の大きな大理石の墓に移されることに。
その際にガリレオを賛美する者たちが
- 脊椎骨1本
- 歯1本
- 右手の指3本
を持ち去っています_φ( ̄ー ̄ )
400万回嘔吐した!?『チャールズ・ダーウィン』
ダーウィンと言えば『進化論』が有名で、”長い年月をかけて生物は進化し、強いものだけが生き残る”と考えていましたが、ダーウィン自身は度を越した心配性で、そのストレスですぐに嘔吐し、外に出るのも怖い...
家に人が訪ねて来ると慌ててカーテンの陰に隠れて吐く。
というように超小心者だったんですw
ダーウィンの”進化論”は当時のどの宗教の教えにも反するものだったので、簡単には受け入れて貰えないのが自分でも分かっていました(⊙_⊙')
そのため、20年間、ごく少数の友人を除いて誰にもこの話をしなかったのです。
ダーウィンは記録魔だった!?
少年時代のダーウィンは昆虫採取したり、泥を集めたりしてよく遊んでいましたが、彼は自分がしたことはなんでも記録する”記録魔”で、後年にはバックギャモン(ボードゲームの一種)で2795回勝ったことまで記録していますw
ダーウィンの父親は蟻塚を眺めるのを辞めて”まともな仕事について欲しい”と願っていました。
この父の願いが通じたのか、22歳の時にダーウィンに夢のような仕事が舞い込んできたのです!
イギリス海軍が測量船・ビーグル号で5年かけて世界各地を調査する計画があり、その船に乗ってくれる”自然科学者”を探していました。
そんなわけで、ダーウィンの天職とも言えるこの仕事を始めたわけです(⊙_⊙')
彼にとってこの仕事はまさに天国💪🤩
上陸するたびに様々な動植物の標本を集め、その数は5436種類にものぼったのです。
しかし、この大遠征がダーウィンにとって最後の屋外での冒険となる...
ダーウィンの唱えた『適者生存』
大遠征から戻ったダーウィンは、ほとんど家を出ることありませんでしたが、帰国から1年も経たないうちに『全ての生物が1個の生命から進化した』と確信。
それを証明しようとする間、幾度となく嘔吐し、息を切らし、腹のガスに苦しみ、そして人を避け続けたのです(⊙_⊙')
こんなダーウィンですが結婚はしてるんですw
相手は”従兄弟”のエマ・ウェッジウッドで、当時は従兄弟同士での結婚もタブー視されていませんでした。
しかし、ダーウィンは『良からぬことが起きるのでは?』と心配した。
エマとの間に生まれた10人の子供のうち、2人が赤ん坊の時に、ひとりは10歳で亡くなっており、さらにひとりは言葉が上手く喋れませんでした。
ダーウィンの家は小さいながら病院で、エマが看護師長でしたが、ダーウィンが唱えた『適者生存』の理論は、自分の家族の中で見事に現実のものになり、子供たちのうち、子孫を残せた者はわずか3人しかいなかったのです。
ダーウィンは50年間、体調不良に悩まされた!?
1859年に『種の起源』が出版されると、この本は売り切れるほど大人気となったのですが、予想通り宗教界の人々は大激怒したわけですw
ダーウィンは50年間
- 吐き気
- めまい
- 頭痛
- 痺れ
- できもの
- 湿疹
- 動悸
- 不眠
- 憂鬱
- 腹のガス
など、体の様々な不調に苦しめ続けられていました(⊙_⊙')
(これら全てをダーウィンは毎日、健康日誌に記録していた)
また、ひどい時には食事のたびに嘔吐し、夜中に何度も戻すことも...
すぐに嘔吐してしまうダーウィンですが、どうにか食べたものを腹に収めておこうと、あらゆる手を尽くしています。
- ストリキニーネ(日本では毒物に指定)入りの飲み物
- インディア・ペールエール(ポップの多いビール)
- コンディ液(消毒液)
- ビスマス(金属の一種)
- 阿片
- 炭酸カルシウム
- アンモニア炭酸塩
など。
しかし、どれもこれも効果は全くなかったため、ダーウィンは家から離れて有名な医師であったガリー医師の温泉療養所で水治療を受けることに。
診療所では、濡れたシーツにまるでミイラのように包まれて台の上に寝かされ、シーツが乾くまで何時間もそのままの状態にされ、それから皮膚が赤くなるまでタオルで体を擦られたり、叩かれたり、2500ℓ近い冷水を背中に浴びせられたりなどされました(*´Д`*)
この拷問のような治療後に、足に腫れ物ができましたが、これは治療が上手くいったしるしとされていたため、ダーウィンは『ありがたい水治療のおかげ』と記していますw
実際、診療所にいる間、ダーウィンは一度も食べ物を吐いていません。
しかし、これは”ありがたい水治療のおかげ”ではなく、彼が普段やっていることを一切やらなくなったことが関係しているのかも!?
治療期間中はホルマリン入りの容器の上に身を屈めることなければ、死○だ鳩の皮を素手で剥くこともなく、リスの剥製を作ることもなかったのです。
これらの作業を彼はマスクなしで、特別な手袋もはめないで50年間続けていましたが、そんなことで人が病気になるとは主治医たちは思いもしなかったわけです_φ( ̄ー ̄ )
ダーウィン『死ぬことなど少しも怖くない』
やがて、ダーウィンは発作を起こすように...
それは狭心症によるもので、もはや手の施しようがありませんでした(⊙_⊙')
(かなりの高齢であったため、妻・エマは研究をやめるように釘を刺した。)
ダーウィンは日誌に夕食後の400万回目の嘔吐と腹のガスについて記すと、こう語ったのです。
と。
小心者のダーウィンでしたが、死を恐れなかったのです👀
そして、研究への意欲は決して衰えることはなかった。
ある日、同僚の生物学者から郵便が届き、中身は水生昆虫の標本一匹が入っており、その体には二枚貝が付着していました。
目を輝かせたダーウィンは妻の許しを得て、上機嫌で標本を詳しく調べたのです。
ダーウィンの最後
数日後、寝ついたダーウィンは突然、胸の痛みに襲われた。
苦しそうに喘ぎ、体を震わせ、皮膚は冷たくなり灰色に変色、そして吐血。
エマはダーウィンのそばにそっと寄り添って最後を見届けたのです。
1882年4月19日、チャールズ・ダーウィンは心臓発作により73歳の生涯に幕を閉じた...
ダーウィンは生前、地元の墓地に埋葬されることを望んでおり、先立った子供たちの側で眠りたいと話していました(⊙_⊙')
しかし、進化論で、国の宝となったダーウィン。
政府の役人は遺族に、国葬にしてロンドンのウェストミンスター寺院の『アイザック・ニュートンの近くにダーウィンの遺○を安置してはどうか?』と持ちかけ、遺族は了承したのです_φ( ̄ー ̄ )
脳を盗まれた天才物理学者『アルベルト・アインシュタイン』
世界一有名な方程式『E = mc2』や『相対性理論』でお馴染み、言わずと知れた天才物理学者・アインシュタインはドイツのユダヤ人一家に生まれます(⊙_⊙')
生まれたばかりのアインシュタインを見た母親は頭がやけに膨らんでいる上に形が歪んでいることを心配し、またアインシュタインは3歳まで言葉を喋りませんでした。
しかし、その膨らんだ歪な形をした頭の中にある頭脳は教師たちをいとも簡単に凌ぐようになり、後に世界を大きく変えることになります。
高校を中退し、学びの場を別の土地に求めたアインシュタインはスイスの工科大学に入学しますが、講義にはあまり出席しなかったようです👀
一般相対性理論をまとめたのは26歳の時で、光電効果の発見ではノーベル賞を受賞。
アインシュタインは一躍有名となり、人々は彼に注目、さらに様々な方面から意見を求められ、科学、医学、哲学の名誉博士号を世界中の大学から授与されるなど、世界中からその天才的な頭脳が認められたわけですが...
この時、世界は戦争の真っ只中で、第一次世界大戦中に、アインシュタインは平和主義者となり、世界政府の樹立を夢みたのです。
そして、第二次世界大戦ではナチスから狙われていたこともあり、ドイツからアメリカに亡命。
その後、22年間にわたり、『天才たちの楽園』と称されたニュージャージ州のプリンストン高等研究所で教育と研究の日々を送りました。
アインシュタインの脳を盗んだ男『トマス・ハーヴィー』
老年になったアインシュタインは腹部に痛みを覚えるようになります(⊙_⊙')
(心臓から腹部に通じる大動脈の壁がこぶ状に膨れ上がり、そこから中身が漏れ出していた)
そして腹部大動脈瘤の破裂によって1955年4月18日にアルベルト・アインシュタインは76歳で人生の幕を閉じます。
本人の意志で火葬されることになったのですが、その前に検死解剖が行われたんです。
その日の当番だった、病理医のトマス・ハーヴィーは信じられなかった...
冷たくなった天才物理学者・アインシュタインが目の前にいることが。
まず、ハーヴィーが通常の検死解剖を行うと、不自然なことはなく、診断通りの死因であることを確認します。
これで本来は終わりなんですがw
彼はアインシュタインの脳を調べれば『天才の秘密』が解明できるかも!?
と考えたわけです。
まず、頭頂部でアインシュタインの髪を綺麗に前後に分け、分け目に沿って耳から耳まで頭皮を切り、それを剥がして顔までめくり、さらに首まで引き下ろす。
次に、眉毛のすぐ上辺りで電動のこぎりで横半分に頭蓋骨を切○。
それから切れ目にノミを当て、木槌で2〜3回打ち込むと!?
アインシュタインの頭蓋骨が外れたわけですが...
ハーヴィーはアインシュタイン本人はもちろん、遺族の了解がないまま独断で脳を取り出していますw
(遺族には後に許してもらっていますw)
ハーヴィーは『天才の脳は普通の人よりも大きいに決まってる』とワクワクしながらアインシュタインの脳を天井から吊り下がった秤に乗せると!?
およそ1.2kg ...
むしろ、平均より軽いw
そんな馬鹿な!?と思いながらハーヴィーは脳をホルマリン入りの瓶にアインシュタインの脳を入れ、空になった頭蓋骨に綿を詰め、何事もなかったように元通りにしたのです(*´Д`*)
そしてアインシュタインの脳を取り出したことには触れず、トマス・ハーヴィーは検死結果の報告を記者の前で発表し、報告が終わり解剖室に戻ると遺○は既に火葬場へと向かっていました。
火葬場で当然の如く、頭の中が抜かれていることなどには気づかず、そのまま遺○は焼かれ、遺灰はニュージャージーにまかれた...
スライスされたアインシュタインの脳
ハーヴィーはアインシュタインの脳を持っていると上司や家族に自慢していたことで、噂が広まり、ついにはアインシュタインの息子、ハンス・アルベルト・アインシュタインは父の脳が盗まれたことを新聞で知ります(⊙_⊙')
怒り狂ったハンスは病院に電話するのですが、ハーヴィーは『天才の秘密を知るためにぜひ、研究させて欲しい』と懇願し、結局ハンスが折れる形となります。
しかし、病院としては独断でしかもアインシュタインの脳を盗んだ人間を置いておくことはできず、結局、ハーヴィーは解雇されてしまいますw
その後、ハーヴィーは自宅に脳を持ち帰り、無傷の脳を写真に収めてから、脳を薄くスライスしていき、最終的には240切れのスライスを用意、それらをスライドガラスで挟んだのです。
なぜ脳をスライスしたかと言うと、ハーヴィーは脳の専門家ではないため、脳を持っていたとしてもアインシュタインの天才の秘密など分からなかったんです。
そこで、脳のスライド標本を様々な脳研究者に送って、調べてもらおうとしたのですが、自分の住所も書かずに送っていたことや、各研究者に直接連絡しなかったこともあり、研究してくれる専門家は皆無でした_:(´ཀ`」 ∠):
時を経て判明したアインシュタインの脳の秘密とは!?
ハーヴィーの解剖から30年が経った1985年、脳のスライド標本を受け取った研究者のひとりが、アインシュタインの脳は通常よりも※グリア細胞が多いことを発見するんです(⊙_⊙')
(※神経細胞をとり囲んで、結合や栄養補給などの働くをする細胞のこと)
しかし、グリア細胞が多い=天才かどうかは定かではありません。
そして、アインシュタインの脳を保管してから40年、ついにハーヴィーは脳を調べてくれる人物を見つけます😭
その人物はカナダのマックマスター大学のサンドラ・ウィテルソン。
ハーヴィーはウィテルソンに脳のかけら14個と無傷の脳の写真を送って、調べてもらった結果、アインシュタインは下頭頂小葉(かとうちょうしょうよう)という脳領域が普通よりも15%大きく、外側溝(がいそくこう)という大きな溝が部分的になくなっており、ひとつの大きな塊になっていることが判明しました。
(この研究結果はハーヴィーが送った写真と解剖の際に測定したデータをもとに行っており、脳自体を調べたわけではない)
ハーヴィーは2007年に亡くなりますが、その数年前にアインシュタインの脳をプリンストン病院に車で運び、病理医に渡しており、現在も脳はそこに保存されています_φ( ̄ー ̄ )
この盗まれたアインシュタインの脳について『アインシュタイン:天才脳の行方と秘密』というドキュメンタリーでめちゃくちゃ詳しく紹介されていて、僕も実際に観たのですが、最終的にアインシュタインの天才性は果たして脳が優れているからなのか!?
というところが面白くまた勇気を貰える内容なので、興味がある方はぜひチェックしてみてください✅
『アインシュタイン:天才脳の行方と秘密』はU-NEXTで観ることができます🤩
それでは今回はここまでとなります_φ( ̄ー ̄ )
<参考文献:偉人たちのあんまりな死に方>