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【明治・大正・昭和に起きた凄惨な事件20選】狂気に満ちた殺人事件簿!

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今回は明治〜昭和にかけて起きた凄惨な事件をドド〜んと紹介していきます(ΦωΦ)フフフ・・

どれも狂気に満ちた殺○鬼たちが起こした現代に語り継がれる凶悪事件となっているのでこの手の内容が好きな人には激刺さりするハズですが、逆に苦手な人は頑張って最後まで読んでください。

それではさっそく見ていくとしよう...

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臀肉事件(でんにくじけん)

野口男三郎の義兄、野口寧斎の家
画像:産経新聞

この事件は『野口男三郎事件』とも呼ばれており、少年が何者かに殺○され尻の肉を切○取られた未解決事件で、野口男三郎はこの事件と他2件(義兄・野口寧斎殺○、薬局主人殺○)の容疑者となります(⊙_⊙')

野口は少年と義兄の事件に関しては証拠不十分で無罪となりましたが、薬局主人殺○で有罪となり死刑に処されたのです。

臀肉事件の概要

野口の義兄・野口寧斎

1902年(明治35年)3月27日、東京府麹町区二番地の路地裏で、近所に住んでいた河合荘亮(当時11歳)が両眼をえ○り取られ、臀部の肉2斤(約1.2kg)が剥ぎ取られている無惨な姿で殺○れているのが発見され、それから3年後の1905年には麹町区4丁目8番地にあった薬局の店主、都築富五郎が、東京府豊多摩群代々幡村佐々木の山林で縊死○(い○たい)となっているのが発見されます(*´Д`*)

縊死体
首吊り死○のこと
 

また同時期に野口の妻の兄で漢詩人だった野口寧斎が急死...

麹町警察署は、薬局に出入りしていた野口男三郎に注目し、その後の捜査によって

警察
『少年の臀部が切○取られた事件の真犯人ではないか?』
   

と考え甲武鉄道飯田町駅(現在のJR飯田橋駅付近)で野口男三郎を逮捕したのです。

法廷でうつむく野口男三郎の様子
画像:文春オンライン

逮捕された野口は、3件の殺○事件と余罪を自白。

殺○の動機ですが『ハンセン病の治療に人肉が効く』という俗説を信じて少年を殺○し臀肉を切○取り、また義兄の野口寧斎はハンセン病に罹っており、野口の妹・サエに感染るのではないか?と危惧し、さらに財産のことで義兄と争いが絶えず邪魔になって殺○、さらに薬局店主に関しては金銭目的だったとのこと。

野口は1908年(明治41年)7月2日、市々谷監獄にて絞首による死刑が執行され28歳でこの世を去っています_φ( ̄ー ̄ )

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日本初のバラバラ殺○『鈴弁殺○事件』

惨○された鈴木弁蔵

この事件は1919年(大正8年)6月に新潟県で起きた殺○事件で日本初のバラバラ殺○事件とされ、別名、山憲事件とも呼ばれています(⊙_⊙')

農商務省外米管理部の技師・山田憲(当時30歳)が鈴木弁蔵(当時60歳)を後輩の渡辺惚蔵(当時27歳)と共謀し、バットで殴○した上で絞○し、さらに遺○を切断してトランクに詰めて信濃川に投棄した...

(被害者の名前から鈴弁事件、また加害者の名前から山憲事件と呼ばれる)

山田の従兄弟・山田庄平(左)と共犯者の渡辺惚蔵

事件の発端は高利貸しや輸入業で財をなした鈴木が来相場でひと山当てようと山田に賄賂を渡したものの、結局、山田と渡辺に騙されていたことに気づき、賄賂の返還を求めたためです。

この事件では山田の従兄弟である、山田庄平も死○遺棄に関与していますが、あえなく3人は起訴され

  • 主犯の山田・・・死刑
  • 渡辺・・・懲役15年
  • 従兄弟・・・懲役1年(執行猶予3年)
 
 

となっています_φ( ̄ー ̄ )

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猟奇的殺○事件の金字塔『首なし娘事件』

増淵倉吉(ますぶち くらきち)

1932年(昭和7年)2月8日、愛知県名古屋市中村区米野町の鶏糞小屋で若い女性の腐乱死○が発見され、遺○は頭が切○され持ち去られていたうえ、乳○と下腹部がえぐり取られているという常軌を逸した損傷を受けていたんです_:(´ཀ`」 ∠):

捜査の結果、遺○の身元は19歳の女性であることが判明し、彼女と恋愛関係にあった和菓子職人の増淵倉吉が犯人として浮かび上がります。

すぐに指名手配されますが、その行方はつかめず...

その3日後の2月11日に犬山城にほど近い犬山橋近くの木曽川河原で、被害者女性の頭部が発見されますが、頭部からは頭皮ごと頭髪が剥○取られており、さらには下顎が刃物で著しく損壊されていたんです。

増淵倉吉

それからさらに約1ヶ月後の3月5日に頭部発見現場近くの茶店に物置から中年男性の首吊○死○が発見されますが、この遺○は

長い頭髪がついたままの女性の頭皮をカツラのように被っていた

んです(⊙_⊙')

また、女性用の毛糸の下着の上に黒い洋服を着て、足にはゴムの長靴を履き、ポケットには女性の財布が入っていましたが、その財布の中に入っていたお守り袋の中には

女性の眼球

が入っており、小屋の片隅にあった冷蔵庫内には

被害者女性の乳○と下腹部

が隠されていたのですが、この首吊り死○の正体は増淵でした。

(19歳の女性とは不倫関係だったが妻の病死後、関係はより深まっていった)

1932年1月、増淵は旅館に女性を呼び出し、昼夜情事にふけった末に彼女を最初の事件現場へと連れ込んで絞○し遺○を損壊したうえで自○したのです。

増淵が女性の遺○を損壊させて、頭部を切○した理由ですが、彼は若い頃から神仏への強い信仰心を持っており、彼女と一体化したいという思いから頭皮や下着を縫って自○を遂げたとされています_φ( ̄ー ̄ )

玉の井バラバラ殺○事件

玉の井は戦前〜1958年までに存在した私婦街ですが、その玉の井付近に通称『お歯黒どぶ』という動物の死骸などが遺棄される非常に不衛生な下水溝がありました(⊙_⊙')

1932年3月7日、この場所でハトロン紙に包まれた男性の

  • 上胸部胴体
  • 腰部胴体
  • 生首
 
 

発見され、死因は撲○で、遺骸の身元は千葉龍太郎(当時27歳)という子連れの浮浪者である可能性が浮上します。

千葉は建具職人の長谷川市太郎(当時39歳)宅に寄宿していたことから長谷川に疑いの目は向けられ、警察が問いただしたところ、長谷川は犯行を自供。

殺○の動機ですが、実は長谷川は本職はほとんどせず、春画を描いて千葉に売り捌かせていましたが、ある時、葉が売上金を着服したことが原因で殺○に至ったと当初述べていましたが...

事件の本当の動機・真相


なお犯行には長谷川の妹・とみ(当時30歳)と弟・長太郎(当時23歳)も関わっており、長谷川と弟がスパナで千葉を撲○し、その後、遺○を2日間かけて兄弟でバラバラに切断した後に風呂敷に包んで腹の部分を持ち出し、王子で遺棄し、首と胸、腰の3つは行李に詰めて妹の手荷物を装いタクシーで玉の井まで運んで遺棄したのです(*´Д`*)

この事件における本当の動機は、千葉を寄宿させていたところ長谷川宅に居座ってしまい、追い出そうとすると


千葉
『春画を描いて生計を立てていたことを警察に言うぞ』
   

と脅迫し、また働きもせず酒を飲んでは長谷川の兄弟や母親に暴○を振るうようになったため、一家は次第に千葉に対して殺意を抱くようになっていったというのが真相です。

このような事情があったことから

  • 長谷川・・・懲役12年
  • 弟・・・懲役6年
  • 妹・・・懲役6ヶ月
 
 

の判決となっています_φ( ̄ー ̄ )

14時間かけて老夫婦を解体『隅田川コマ切れ殺○事件』

最初に遺○が発見された永代橋

これは1934年(昭和9年)6月に東京府東京市渋谷区(現在の東京都渋谷区)で発生した強盗バラバラ殺○事件で、刑務所を出所した直後の小林利平(当時23歳)が老夫婦を殺○して家財を奪った挙句、事件を隠蔽するために遺○をバラバラに切断し隅田川に遺棄したのです(⊙_⊙')

被害者は窃盗の前科があり『ホラ吹き爺さん』と呼ばれていて、何度か結婚、離婚を繰り返した後に『ハテナ婆さん』と渋谷区公会堂通りで所帯を持ち、おでんの屋台を引いて生活をしていました。

また被害者はあだ名の通り、

ホラ吹き爺さん
『貯金が一万円以上ある』『恩給がたっぷり入る』
   

日常的にホラ(嘘)を吹いて回っていました(*´Д`*)

ホラが原因でホラ吹き爺さん&ハテナ婆さんは殺○される...

犯人の小林は、前橋刑務所を出所したのち、神奈川県平塚市で寿司屋の出前持ちとして働くようになるものの、集金した25円を持ち逃げして上京。

そして偶然入った『ホラ吹き爺さん』のおでん屋で、景気のいい話を聞いた小林は、これに目をつけて老夫婦を強○することを決意します。

小林は2人にたらふく酒を飲ませてから、手斧で老夫婦を惨○し、その後はノコギリや鉈(なた)、出刃包○で肉から皮、骨、内臓に至るまで一寸刻みに切○刻み、刃物の切れ味が悪くなると新たな包丁を購入し

14時間かけて老夫婦をミ○チ状

にして、肉片は石油缶(5缶)に詰め込み、偶然出会ったバタ屋(廃品回収業者)に捨てさせた...

事件は同年6月14日に永代橋の上流で成人男性の左○首が発見され、さらに6月18日には芝浦の海岸に左足首が打○上げられたことで発覚しますが、この事件で小林が手にしたのは現金19円(現在の約4万円)、通帳残高の50銭のみでした。

法廷で小林は

小林
『死刑にしてください』
   

と訴え、10月にその望み通りに死刑が執行されていますがホラを吹いたことで夫婦共に殺○れ、小林もわずかな金のために人生を台無しにしたという、なんとも言えない事件ですね_φ( ̄ー ̄ )

男○器を切り取った『阿部定事件』

事件前の阿部定(あべ さだ)

阿部定事件は1936年(昭和11年)5月18日、中居だった阿部定は性交中の愛人男性を扼○(やくさつ)し、さらに局○を切○取ったという有名な事件で、殺○されたのは雇用されていた鰻料理店の主人、石田吉蔵という人物でした(⊙_⊙')

扼殺
手で首を締めて殺○こと。
 

石田吉蔵

事件の2日前、性○中に窒息プ○イをするため定は腰紐を使い、2時間にわたって交わりますが、首を強く絞○た際に石田の顔は鬱血していました。

 

そして5月18日、定は薬局で鎮静催眠剤カルモチンを購入して石田に飲○せ、彼がが寝入ると死○まで首を絞めた...

石田の死亡後、定は包丁で性○を切○し、雑誌の表紙に陰○と睾○を包むと、これを逮捕されるまで持ち歩いたのです(*´Д`*)

さらに、石田の傷口から流れる血でシーツに『定吉二人キリ』左腿に『定吉二人』と書き、石田の左腕に包丁で

と刻んだ...

SHIN
『もはやメンヘラ女の究極系w』
   

阿部定の逮捕〜出所後

逮捕直後に高輪警察署にて撮影された阿部定

それから3日後の5月20日に阿部定は品川の宿で逮捕されますが、逮捕時に定は

阿部定
『阿部定を探しているんでしょ?あたしがお探しの阿部定ですよ』
   

と言ってのけ、その後も世間を騒がせます(⊙_⊙')

定は殺○及び死○損壊罪で懲役6年の判決(求刑10年・未決通算120日)の判決を受け服役。

出所後は『吉井昌子』と名前を変えて一般人として生活していましたがカストリ本『昭和好色一代女 お定色ざんげ』を巡って業者と出版社を名誉毀損で告訴し、これが原因で事実婚であったサラリーマン男性と破局してしまいます。

阿部定

その後、定は芝居・見世物一座で巡業したり、大阪でホステス、伊豆の旅館で仲居、東京の料亭『星菊水』で客寄せパンダとして働いた後、上野の国際通りに小さなバー『クィーン』を開店するも半年で閉店してしまったため、スポンサーに出資してもらう形で『若竹』というおにぎり屋を台東区竜泉で開店します(⊙_⊙')

おにぎり屋といっても定と三味線弾きの女性のみでカウンターではお酒を飲ませる店で、この頃には芸能人や力士、政治家なども通うようになり、一部では有名な女将となっていました。

1971年、東京を後にした定は千葉県南町の『勝山ホテル』で働くことになりましたが、ココでも置き手紙を残し、浴衣一枚だけ持って失踪し、その後の行方はわかっていませんが、パリ人肉食事件の佐川一政が阿部定になんらかの方法で接触したとされ『定は伊豆の老人保護施設にいる』と作家の睦月影郎は佐川からそのことを教えられたそうです_φ( ̄ー ̄ )

結核を患い、閉鎖的な村社会によって若者が狂人となった『津山事件』

津山事件の犯人、都井睦雄

津山事件は1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現在の津山市加茂町行重)の貝尾・坂本両集落で発生した殺○事件で、犯人の名前から『都井睦雄事件』の他、『津山三十人殺○』とも呼ばれています(⊙_⊙')

都井は徴兵検査を受けますが結核を理由に丙種合格(入営不適、民兵のみ徴用可能でこれは事実上の不合格だった)とされますが、この頃から関係を持っていた女性たちから

結核を理由の拒絶される

ブローニング・オート5

ようになります。

それに不満を募らせた都井は狩猟免許取得し猛獣用の散弾銃、ブローニング・オート5を手にいれ、毎日山に籠って射撃練習に励むようになり、また毎夜猟銃を手に村を徘徊して村民に不安を与えるように...

家宅捜査を受け、武器を押収される

津山事件の発生場所

ある日、都井は祖母の病気治療目的で味噌汁に薬を入れているところを祖母に目撃され

祖母
『孫に毒○される!!』
   

と大騒ぎし警察に通報されたことで家宅捜査を受けることになり、その結果


  • 猟銃一式
  • 日本刀
  • 短刀
  • 匕首(鍔(つば)のない短刀)
 
 

などを押収され、さらに猟銃所持許可も取り消されます。

この一件で都井はこれまで集めた武器の全てを失いますが、知人を通じて狩猟や弾薬の購入し、刀剣愛好家から日本刀を譲り受けるなどして、再び凶器類を揃えることに成功したのです(*´Д`*)

事件当日、集落は地獄絵図と化す!

事件当日の都井睦雄の格好を再現した様子

犯行当日、都井は近隣の住民を約1時間半のうちに改造猟銃と日本刀で次々と殺○し、最終的には死者30名(即死:28名、重症・のちに死亡:2名)、重軽傷者3名の被害を出し、集落は地獄絵図と化します_:(´ཀ`」 ∠):

計11軒の家が犯行に遭い、そのうち3軒は一家全員が惨○され、4軒の家は生存者1名でしたが、この事件の最初の被害者は都井の祖母で、就寝中に首を斧でハネて即○させていますが祖母に関してはひとり残してはおけないという理由で殺○しています。

犯行後、都井は遺書を書くための紙と鉛筆を借りるために隣の集落を訪れていますが、この家は都井と仲良くしていた少年の家で他の家族も都井を差別していなかったため、被害には遭わずに紙とペンを彼に渡すだけで済んでいます。

その後、3.5km離れた仙の城と呼ばれていた荒坂峠の山頂で追加の遺書を書いた都井は猟銃で自○。

(心臓を撃ち抜いて即○だった)

津山事件に関してはこれだけでは『なぜ都井はこのような凶行に及んだか?』の全貌が分かり辛いので、詳しく知りたい方は↓の関連記事をチェックしてみてください_φ( ̄ー ̄ )

 

知的障害を持つ連れ子を食○た『群馬連れ子殺○・人肉食事件』

これは先妻と死別した夫と離婚歴のある妻の家庭で起きたなんとも悲しい事件で、妻が夫の連れ子(当時17歳)を殺○し、その後、家族に食○させたんです...

動機は食糧難によるものなのですが、この家庭は色々と複雑で

  • 夫の連れ子4人
  • 妻の連れ子1人
  • 夫婦の実子2人
 
 
 

で、さらに夫が全く働かずに配給の食料を無計画に消費していました(⊙_⊙')

また殺○された連れ子は幼少期に患った髄膜炎によって知的障害となり、普段の会話もままならず、学校にも通っていなかったのです。

『ヤギの肉』と偽り家族で食べた...

1945年3月26日、家の食糧を夫が全て食べ尽くして外出し、他の家族が飢餓で苦しむその姿を見て、連れ子を殺○することを決意した妻は連れ子の首を戸棚の敷居に押し当て、その首を背後から両手で押さえ窒○死○せる...

 

そして殺○後、ノ○ギリと包○で遺○の頭部と四肢を切○し、体や内臓をバラバラに解○して鍋で煮込み

『ヤギの肉』

と偽って夫や子供たちとその肉を食したのです_:(´ཀ`」 ∠):

(妻は家族が寝静まった深夜に頭部や足首を庭に埋○た)

事件の発覚後、群馬県警による捜査で庭先から人 骨が発見され、妻は懲役15年の判決を言い渡され、出所後は寺に引き取られて余生を過ごしました_φ( ̄ー ̄ )

女性たちを強○しまくった『小平事件』

小平義雄

今回紹介する殺人鬼の中で最もクズなのがこの小平義雄で、この男は1945年から1946年にかけて東京都市に周辺で発生した連続強○殺人事件の犯人です(⊙_⊙')

小平は太平洋戦争末期から敗戦直後の東京で女性に言葉巧みに食糧の供給や就職の斡旋を持ちかけては、山林に誘い出したうえで強○し殺○を繰り返していました。

彼が最初の殺○を行ったのは1945年5月で勤務していた海軍第一衣糧廠(いりょうしょう)の女子寮に侵入して21歳の女子隊員を強○したうえに殺○。

その後も強○と強盗殺○を繰り返した小平は1946年8月6日、就職の斡旋をすると声をかけていた17歳の女性を公園裏で強○し殺○。

それから約10日後の8月17日に遺○が発見されますが、被害者女性が小平と住所を交換し、8月4日に自宅を訪ねた際に母親が小平と会っていたため、これによって事件当日に女性が小平と出かけたことが判明し逮捕されます。

法廷での小平の様子

また小平はこれ以前にも浮気が原因で妻が実家に帰ったことに激怒し自宅を襲撃しており、鉄棒で義父を殺○し、6人を負傷させています(*´Д`*)

この事件で小平は懲役15年の有罪判決を受けますが2度の恩赦によって1940年に仮釈放しています。

が、1945年以降に起こした連続強○殺人では1948年11月に当然のごとく死刑判決が言い渡され、翌年10月5日に宮城刑務所で刑が執行されました_φ( ̄ー ̄ )

勇気ある新聞記者によって暴かれた『岡田更生館事件』

収容者たちは劣悪な環境に置かれた...

1946年(昭和21年)12月〜1950年(昭和25年)まで存在した浮浪者収容施設・県立岡田更生館では組織的な

  • 監○
  • 暴○傷○
  • 殺人
 
 

が行われ

死○者は76人

とされています(*´Д`*)

1949年(昭和24年)2月に収容者の一人が脱走し、毎日新聞大阪本社にリークしたことで発覚。

そして同社社会部の記者、大森実と小西健吉が潜入取材したことで世間に知られることになりました。

あまりにも軽い罪状が裁判で言い渡される

収容されている戦争孤児

劣悪な環境に加え

  • 監○
  • 虐○
  • 暴○
  • 私刑
 
 

によって収容者を死に至らしめ、死者はその遺○が戸棚に乗せられ、夜明け前に薪と共に運び出されて裏山で焼かれ、また本来であれば医師が書くべき死亡届も医師を自称する老女が書いていました(*´Д`*)

岡田更生館は報道関係者側とメディアで争いますが、公的捜査と裁判の結果、名木田安男館長に業務上横領と私文書偽造の罪で

懲役1年

の判決が下され、他の共犯者も同罪で懲役が下されましたがあまりにも軽い罪状だったのです。

この事件は毎日新聞社の2人の記者が身を挺して証明した事件で、県立の施設に対して勇敢に立ち向かった姿勢が評価されています。

事件後の岡田更生館

犠牲者を悼む石碑

事件の後、岡田更生館は『岡山県吉備』に改組名称変更しますが1955年に廃止となり、その後、更生施設から養護施設に改組されますが1957年にこれまた廃止となっています(*´Д`*)

1988年には亡くなった入居者を追悼するため、地元の元小学校教諭が中心となって『春の小川村』という有志16人のグループが結成され『命尊碑(いのち たっとき ひ)』と刻まれた石碑が建てられました_φ( ̄ー ̄ )

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