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ガダルカナル島で日本兵を襲った『飢餓地獄』はなぜ起きたのか!?

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太平洋戦争で亡くなった日本兵の多くは、敵国と戦ったことによる『名誉の戦死』

ではなく、ほとんどが食糧難に陥ったことによる餓○や栄養失調による病死、あるいは自決によるものとされています(⊙_⊙')

そして1942年(昭和17年)8月から約半年間、日米が激突した『ガダルカナル島の戦い』で、島に上陸した日本兵は3万1500人で、そのうち戦死者は6000人。

そして戦死者の約2倍の1万5000人が

飢餓と病気で亡くなっている

という事実があり、飢餓地獄と化したガダルカナル島では、想像を絶するような光景が繰り広げていた...

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ガダルカナル島が『餓島』となった理由

島のいたるところに
餓○した日本兵の遺○が転がっていた
三川軍一中将

ガダルカナル島の戦いは日本軍とアメリカ軍による、飛行場をめぐる戦いがきっかけで勃発。

同年8月7日、日本軍はガダルカナル島で建設中の飛行場をアメリカ軍に占拠されてしまい、7日深夜から翌日8日未明にかけて、三川軍一(みかわ ぐんいち)中将率いる日本海軍第八艦隊が出勤した艦隊戦は日本が勝利を収めます。


一木清直大佐

が!!!

その後は、一木清直(いちき きよなお)大佐率いる先遣隊(せんけんたい)916人が全滅し、一木大佐は自決するなど、神風がピタッと止まり、やがて、支援部隊の上陸もままならなくなる...

そこで苦肉の策として『弾薬・医薬品・食料などの物資を詰め込んだドラム缶を駆逐艦に積んで、島の海岸に極限まで接近して海中に投入し、それを船舶工兵隊が引き上げる

という方法で補給することになるんです(*´Д`*)

(夜間に行われたこの補給方法を兵士たちは『ネズミ運送』と呼んだ)

1942年8月7日、ガダルカナル島に上陸する海兵隊

しかし、米軍の猛攻撃で物資の輸送が困難になったため、軍はガダルカナル島の部隊に

『現地到達せよ』

と命じるように...

現地調達はヤシの実などが多くあった頃はなんとか凌げていたものの、やがてヤシの木は砲弾戦で倒されてしまいます。

その後、ネズミ運送や、その後に行われた潜水艦による『モグラ運送』もままならなくなり、兵士たちに極限の飢餓が待ち受けることに。

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極限状態に陥り、戦友の肉まで食○る!

ガダルカナル島で小休止するアメリカ軍

極限状態に陥った日本兵は


  • カエル
  • トカゲ
  • ネズミ
  • バッタ

など何でも食べて飢えを凌いだのですが、それ故に命を落とした兵士もいたようです👀

ガダルカナル島から無事に帰還できた日本兵は

日本兵
『サワガニを食べた人が赤痢で死○だ。自分はカニが嫌いだったので、 どんなに空腹でも食べられず、そのおかげで命拾いした。』

また別の日本兵によると

日本兵
『隣の部隊の5人全員がのたうち回って嘔吐、下痢をしながら苦しんで死○でいった。 恐らく毒ヘビと知らずに、分け合って食べたのだろう...

と証言しています(⊙_⊙')

日本兵の遺○

このような極限状態でたびたび起きたのが

食料争奪戦

で、食料の窃盗・強奪はまだマシな方で、空腹のあまり寝ている仲間を殺○して奪う者も現れ、さらには、戦友の遺○を煮たり、焼いたりして食べる者や、生きている人間を殺○て食べる者まで現れたのです_:(´ཀ`」 ∠):

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負傷兵は容赦無く殺◯れ、島に置き去りに...

壊滅した第2師団(1942年10月25日)

そして1942年(昭和17年)12月31日、大本営は『転進』という名目でガダルカナル島を放棄することを決定しますが、実際には惨敗の末に撤退を余儀なくされたわけです(⊙_⊙')


翌年2月1日〜7日にかけて、1万人余りの生存者がブーゲンビル島へ撤退します。

が!!!

撤退のための集結地にたどり着けなかった負傷兵や飢えで動けなかった兵士たちは薬○などで殺○れるか、

置き去りにされた

のです。

このようなことが行われていたため、帰還した兵士は遺族から

『息子はどのような死○方をしたのか?』

と聞かれた際に『置き去りにされた(した)」とは言えず

日本兵
『名誉の戦○をされました』

嘘をつくしかなかった...

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