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【永山則夫連続射殺事件】19歳の青年が事件を起こした本当の動機、原因は...

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この事件は当時19歳の永山則夫(ながやま のりお)が

『横須賀・米軍基地から盗んだ拳◯で4人を射◯する

というもので、当初、永山は事件の動機について

永山則夫
『不幸な境遇(自身の)に対する怒りを 社会にぶつけた』

としていましたが、後に動機は

金銭目的へと変化

していくんです(⊙_⊙')

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東京プリンスホテルで悲劇が起きる!

最初の事件の舞台になった『東京プリンスホテル』
画像:Wikipedia

1968年10月11日午前0時50分頃、東京プリンスホテル敷地内を巡回していた当時27歳のガードマン・
中村公紀さん
が何者かにいきなり約1mの至近距離から拳◯で頭を撃◯れ、ホテル近くの慈恵医大病院に搬送される。

そしてレントゲン撮影の結果、脳内に金属片が見つかったため、緊急手術が施されたものの、同日午前11時頃死亡が確認された...

永山則夫が逮捕時に所持していた西ドイツ製の拳◯
画像:JIJI.COM

この犯人はもちろん永山則夫で、永山は10月の初め頃に横須賀米軍基地に侵入して

永山が盗んだもの
 
  • 22口径の拳○
 
  • 弾丸
 
  • ジャックナイフ
 
  • 『M』の刺繍が入ったハンカチ
   

を盗んでいました(*´Д`*)

その後、永山は桜木町駅(神奈川県横浜市)前のガレージ裏に盗んだ拳◯などを一旦、隠しますが、9日の朝にそれらを持ち出して東京・池袋に遊びに行きます。

翌日(10月10日)の夕方頃まで池袋や新宿、渋谷で遊び、21時頃に東京タワー近くのベンチで寝むり込み、夜中に目を覚ますと

東京プリンスホテルの照明が見えた

ため行ってみようと思い立ったわけです(⊙_⊙')

事件当日の10月11日0時過ぎに永山は東京プリンスホテルのプール入り口から敷地内に入り、ホテル本館南側を徘徊し、そして0時50分頃に巡回中の中村さんに発見されることに...

2人には次のようなやりとりがあった後に、事件発生となります↓

まず中村さんが

中村さん
『どこへ行くの?』

と質問し、それに対して永山は

永山
『向こうへ行きたい』

と答える。

それに対して

中村さん
『向こうには行けない。 ちょっと来い』

と言われ、さらに中村さんは永山のジャンパーの襟首を掴む。

永山は

永山
『ここで捕まれば拳◯を持っていることや 基地から盗んだことがバレる...』

と恐れ、とっさに

永山
『コイツを拳◯で撃◯て逃走しよう。 死◯でも構わない...』

と考え、中村さんの顔面に銃◯を向けて2回狙◯したんです_:(´ཀ`」 ∠):

そして永山は中村さんが倒れるのを確認してから付近の寺へと逃走した...

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京都でも男性の顔面を撃◯抜いた...

京都での事件の舞台となった『八坂神社』

画像:wikipedia

寺へと逃げ込んだ永山は境内の植え込みに隠れて朝まで過ごし、一旦池袋の兄のアパートに立ち寄った後、翌12日夕方に横浜駅から京都へ向かったんです(⊙_⊙')

13日早朝に京都へ到着(この時、拳◯には6発の銃弾が装鎮されていた)した永山は、駅の待合室で2時間ほど休んでから、市内で映画鑑賞などして過ごし、市内を徘徊していた午後10時頃に

八坂神社

に出たためココで野宿をすることに。

しかし!!!

境内に入ったところで永山は夜警をしていた警備員の勝見留次郎さん(当時69歳)に声をかけられるんです(*´Д`*)



勝見さん
『どこへ行くんだ?』

これに対して

永山
『あっちへ行く』

と本殿の向こう側を指差して答える永山。

しかし...

勝見さん
『向こうには何もない。 おかしいだろ』

と怪しまれため、永山は拳○とジャックナイフを取り出し勝見さんに突◯つけて

永山
『近づくと殺○ぞ!!!』

と脅した後に、約1.5mの距離から勝見さんの胸を目がけて1発撃った。

が!!!

勝見さんは倒れず、そのため

永山
『弾が外れたか...

と思った永山はさらに、胸と顔を目がけて残弾である5発全てを勝見さんに発◯。

その時、発砲音を聞いて警察官が駆けつけるのが見えたため、勝見さんがどうなったかを確認する前に永山は茂みに飛び込んで身を隠し、警察の隙を見て、鴨川へと逃走した...

わけです(⊙_⊙')

そして病院に運ばれた勝見さんは



勝見さん
『17、8ぐらいの男にやられた...』

と話した後に死亡しています。

夜間であったこともあり、永山は逃走に成功しています。

が!!!

この時、永山は現場から約40m離れた場所で米軍基地から盗んだジャックナイフを落としており、また東京プリンスホテルの犯行時には『M』の刺繍入りハンカチも落としています。

(事件後、これらはいずれも国内で手に入らないものであることが判明)

さらにハンカチには多量の鼻水が付着していたため、犯人は『蓄膿症の少年ではないか?』とされました。

そして線条痕(せんじょうこん)から東京と京都の2つの射◯事件が同じ22口径の拳○であることが判明し、同一人物による犯行と断定され、18日には広域重要指定108号事件』に指定され、大規模な捜査が開始されたのです(*´Д`*)

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永山は函館でタクシー強盗殺人事件を起こす!

被害者の斎藤さんが運転していたタクシー。
函館市内の草むらに放置されていた

京都の事件から5日後の19日夕方、永山は今度は北海道へと向かうため、上野駅から青森行きの列車に乗る。

この時、永山はすでに2件の殺◯事件を起こしていたことから

『生まれ故郷の網走で自◯しよう』

と考えていたんです(⊙_⊙')

が!!!

北海道に到着した当初はそう考えていた永山でしたが、道内を歩いているうちに

永山
『20歳までは生きる。 残された日々をせめて満たされなかった金で生きる』

と考え方を変え、その手始めに函館市内でタクシー強盗に及ぶんです。

自◯を思いとどまった永山でしたが、北海道を彷徨う内に所持金はとうとう100円足らずになってしまう...

斎藤さんのタクシーの運転席

そこで

永山
『タクシーの運転手なら 現金を持っているに違いない』

と、26日午後11時頃に函館市郊外から斎藤哲彦さん(当時31歳)の運転するタクシーに乗り込み、七飯町へ行くように指示。

そして午後11時13分頃に七飯町の路地でタクシーが停車した際に、わずか50cmの距離から斉藤さんの頭に狙いをつけて、永山は引き金を引いた

そして永山は動かなくなった斎藤さんの胸ポケットから8,000円あまりを盗んで、函館市内へと逃走した...

斉藤さんは翌27日午前7時頃に、通りかかった主婦によって発見され、すぐに病院に運ばれましたが、約1時間後に死亡が確認されたのです_:(´ཀ`」 ∠):

名古屋で再びタクシーの運転手をターゲットに!

永山が名古屋で運転手の伊藤さんを殺◯した現場

函館の事件後に永山は横浜へ帰って1週間ほど沖仲仕(船から陸への荷上げ荷下ろしをする労働者)として働いていましたが、逮捕されることを心配して名古屋へ行くことに...

(1週間の間、拳◯は市内の空き地に埋めて隠しており、名古屋に行くときに掘り出した上で6発の弾を装填した)

1968年11月3日、名古屋駅に着いてから翌日の4日まで、永山は市内見物や映画鑑賞などをして時間を過ごした。

そして4日の夜遅く、永山は沖仲仕の仕事を見つける目的で、名古屋市中川区内の路上を名古屋方面に歩いており、気がつけば日付は5日に変わっていた、そして...

深夜1時20分頃のこと、伊藤正昭さん(当時22歳)が運転するタクシーが近づいてきて

伊藤さん
『どこへ行くの?』

と声をかけられたため

永山
『港へ行く』

と永山が答えると、伊藤さんはタクシーのドアを開けたため、そのまま乗車。

そして車内で伊藤さんが永山に

伊藤さん
『港へ何しに行く? 今行っても何もないよ』

と言うと

永山
『港で働く』

とココで伊藤さんは詮索をやめれば良かったんですが...

伊藤さん
『あんた東京の人でしょう。 今晩どうする?』

と聞かれたことで

永山
『自分を東京の人間と知っている以上、コイツをそのまま生かしておけば 足取りを警察に伝えられ、逮捕されるかもしれない...』

と考え、さらにこの時、永山の所持金は2,000円だったことから

永山
『コイツを拳◯で射◯して 現金を奪って逃げよう...』

と決意。

そして名古屋市港区七番町の路上でタクシーが停車すると、伊藤さんの頭部に4発の銃◯を撃ち込み、現金7000円あまりと腕時計を奪って逃走。

実は最初の1発目を撃った際に伊藤さんは

伊藤さん
『待って!待って!!』

と叫んで命乞いするも、永山は容赦なく続けて引き金を引いたのです(*´Д`*)

永山の逃走後、伊藤さんはまだ意識があり、自力でタクシーを降りて、血◯みれで歩いているところを発見され、すぐに病院に運ばれますが、大量◯血で死亡しています。

ちなみにですがこの事件時に永山は初めて被害者の流血を目の当たりにしており、後に

永山
『それ以降、 引き金が引けなくなった...』

と述べています。

この事件発生後の翌6日、線条痕から東京・京都の射○事件(108号事件)と同一人物と断定され、また函館の事件と名古屋の事件の手口が極めて似ていることから、弾丸の鑑定が進められた結果

線条痕が一致

したことで函館の事件も同一犯によるものと判明したのです。

永山則夫は逮捕され死刑に処される!

永山(真ん中)が逮捕された時の様子

名古屋の事件から約5ヶ月後の1969年4月7日の深夜1時頃、所持金が少なくなった永山は、渋谷区千駄ヶ谷にあった『一橋スクール・オブ・ビジネス』に侵入。

その際にガードマンが永山を発見し、永山はガード向けて発砲するも命中せず。

逃走した永山でしたが明治神宮北参道口で駆けつけた警察によってついに逮捕されました(⊙_⊙')

永山の逮捕はメディアでセンセーショナルに報じられ、また残虐的犯行から未成年でありながら

実名報道される

という異例の事態でした(*´Д`*)

逮捕後の永山は全ての犯行を自供し、79年の第一審では死刑判決、81年の第二審では反省が見られることから無期懲役となります。

が!!!

検察側はこれを不服として上告。

そして83年、東京最高裁は一転して、一審の

死刑判決を支持

さらに、90年4月には最高裁が永山の上告を棄却したことで

永山は死刑が確定

したんです。

この事件以降、殺◯事件の死刑判決を宣告する際は、この判例が参考にされるようになったそうです(⊙_⊙')

永山の死刑は1997年8月に執行されており、48年の人生に幕を下ろした...

永山則夫の本当の動機!

永山則夫

画像:断調亭落丁の日記

永山は逮捕直後の取り調べで、全ての事件の動機は

永山
『金が欲しかったから』

と供述しています(⊙_⊙')

しかし、最初の東京プリンスホテルと京都の事件では偶然、警備員に声をかけられた末に射◯したものの、お金を取っていないため、全ての事件の動機が金のためとは思えませんよね?

第一審で2回目の精神鑑定を鑑定した石川義博に対しても、その供述を公判で否定しなかった理由について質問された際に永山はこのように述べているんです(⊙_⊙')

永山
『プリンスホテルで最初の殺人を犯したので、 刑事から『なぜ(標的が)金持ちだったのか?』と訊かれたためだ』

永山
当時は突発的な犯行で、 別に被害者(中村さん)に恨みがあったわけではなかった

永山
『だが、刑事から『それだけでは動機と言えないだろう』と詰問され、 『自分が殺◯を犯したことに変わりはない』と思って

永山
『4事件すべて金目当てだった』と供述した

これに対して石川氏はさらに

石川氏
東京プリンスホテル事件は恐怖心や逃げたいという気持ちでやったのだろう。 しかし函館事件・名古屋事件は違うのだろう?

と質問し、それに対して永山は

永山
『京都事件後、北海道へ向かう途中 『網走に付いたら拳◯で自○しよう』と考えた』
永山
『が、殺◯に使った拳銃で自◯すると犯人が自分であることがばれ、 ”兄たちに迷惑が掛かる”と思ってやめた

永山
しかし(青函)連絡船に乗ってから『自分は何のために生きてきたのだろう』 と考えるうちに兄姉たちのことを考え、姉以外のすべての人々を憎んだ
永山
特に兄(次兄)から『どうせ死○なら熱海でいいじゃないか』と言われたことに憤慨し 『どうせ死◯ならいくら悪いことをやってもいいだろう』と思い始めた

と述べており、また函館事件の前の心境については

永山
母のことはもうどうでもいい。暴れるだけ暴れて死◯』と思い 最終的に函館(七飯町)で殺◯を犯した。

永山
北海道へ発つ前に兄(次兄)に兄への当てつけで『網走で死◯』と言ったが その兄に『俺は北海道に来たんだぞ』という当てつけ同然の感情もあった。

永山
最終的に兄姉たちのことも ”もうどうでもいい”と思うようになった。

永山のこれらの供述を理解するには彼の家庭環境や幼少期について知る必要があり、これを知ることで本当の動機が見えてくるでしょう↓

永山則夫の生い立ち


画像:TBS NEWS DIG

1949年(昭和24年)6月27日、永山則夫は北海道網走市呼人(よびと)番外地で生まれます(⊙_⊙')

(父はリンゴ栽培技師で母は行商人で永山は8人兄弟姉妹の第7子(4男))

しかし元々博打好きの父は次第に酒の量も増えていき、やがてほとんど家に帰らなくなり、それがキッカケで家庭崩壊してしまい、永山は今で言うところのネグレストの被害者だったんです。

そのため長姉(永山が生まれた時19歳だった)が家事や永山の面倒を見ていました。

が!!!

姉は婚約破棄や堕胎によって心を病んでしまい、永山が4歳の頃に地元の精神病院に入院。

そしてこの頃に母は永山を含む4人の子供を網走に残したまま青森の実家に帰ってしまうんです(*´Д`*)

残された子供たちはクズ拾いやゴミ箱漁りをするなど極貧生活を強いられ、また当時、永山は次兄からよく殴◯れたと証言しています。

しかし1954年の春、福祉事務所からの通報で、4人は青森の母の元に引き取られることになって一件落着。

とはいかなかったんです...

小学校時代の永山

その後、母は再び行商で生計を立てるようになりますが、多忙だった母は永山を構うことがほとんどなかったんです(⊙_⊙')

学校では津軽弁が話せないことからイジメを受けるようになった永山は次第に無口な少年になり、家では次兄の暴◯が以前にも増してエスカレート

さらに兄に殴◯れて泣いている永山に対して追い討ちをかけるように母も殴っ◯。

このようなことがあり、永山は小学2年生頃から列車に乗って頻繁に家出をするようになるんですが、その度に母は永山を引き取りに行かなければならず、仕事に支障が出るようになったため、母が次兄を注意してようやく虐◯が止まったわけです(*´Д`*)

永山が小学5年生になると、長姉の症状が回復したため、一緒に住むことになり、この時期だけは永山は学校を休むことなく通っていた。

が!!!

ある日、永山が家に帰ると長姉が近所の男と寝ている場面を目撃し、さらに姉は再び堕胎したことで精神に異常をきたし入院したことで、長姉に嫌悪感を抱くように...

母は永山が家を出ることを望んでいた!?

永山則夫

永山は中学生になると就職で家を出た兄の代わりに新聞配達を始め、学校にはほとんど行かなくなり、また中1の冬には父の死◯が伝えられるんです(⊙_⊙')

そして葬儀の時に永山は次兄から

『かつて母は自分達を捨てた』

という話を聞き、さらに後日、父の死に顔の写真を見た時に永山はそれまで父に抱いていた敬意を失い

自◯願望を抱くように

なり、この頃から妹や同居中の姪に暴◯を振るうように(*´Д`*)

永山が中学2年の時、母は子供たちに告げずに約1ヶ月の間、北海道へと出稼ぎに行き、中学3年の頃に脳卒中で入院


母が入院すると、永山の暴◯を恐れた妹や姪は病院で寝泊まりするようになったため、約5ヶ月、永山は自宅で一人になった。

この間に永山は不良たちと連むようになり、彼らが盗んだ物は永山の自宅に隠されるようになり、また万引きや博打にも手を染めるように...

そして、中学卒業間近の2月、永山は不良たちと万引きに向かう途中で母と遭遇し、母への当てつけとして衣類を堂々と盗む。

永山が不良と連み悪事を働いていることを知った母は永山が家を出ることを強く望むようになった...

上京後の永山則夫

小学生の頃の永山則夫
右の麦わら帽子をかぶっているのは3兄


画像:Twitter

1965年3月に永山は東京に集団就職し、就職先は渋谷の高級果物店でした(⊙_⊙')

(女優の岩下志麻もココの常連だった)

永山は目が大きく、また身長160cmと小柄で可愛らしかったため、男女関係なく可愛がられており、接客もそつなくこなしており、後に先輩と共に新店舗を任されるほどになったんです。

順調に出世していた永山でしたが、ある日のこと。

青森時代に起こした窃盗の話が上司の耳に入り、また別の上司が永山にそのことをほのめかすような発言をしたため

永山
『解雇されるかもしれない...』

と思い込み、結局この果物店を半年で辞めてしまうんです(*´Д`*)

果物店を退職した後、三番目の兄を頼って1泊しますが、兄からそれ以上居ることは許されずに永山は絶望。

その後、栃木県小山市に住んでいた長兄に引き取られた永山は宇都宮市の自動車の板金工場で働きますが、長兄は永山を見下すような態度を取っており、それに恨みを抱いた永山は当てつけとして

『市内の肉屋で窃盗を働き捕った』

わけです。

永山は宇都宮少年鑑別所に収容されますが、その後、宇都宮家庭裁判所の少年審判で不起訴処分になり、1966年早々に長兄の元から飛び出し、ヒッチハイクで大阪へと移動したんです。

大阪でも仕事は長続きせず...

永山が勤めていた『米福屋

画像:Twitter

永山が大阪で最初に勤めたには米屋でしたが、雇用主からの命で戸籍標本を取り寄せた際、本籍の欄に『北海道網走市呼人無番地』との記載があったわけです(⊙_⊙')

それを見た永山は当時、有名で人気だった映画『網走番外地』シリーズから

永山
『俺は網走刑務所生まれ..』

と勘違いし、また周囲がそれをネタに冷やかしたり、自分をやめさせようとしていると思い込んだんです(*´Д`*)

これ以外にも

 
  • 雇用主の子息が東京の大学で受験の下見をすると自分の身辺調査に向かったに違いないと思い込む
 
  • 店に来た公認会計士を自分を調査しにきた弁護士だと思い込む
   

など、勝手な思い込みの連鎖によって結局、永山は退職。

その後、池袋の喫茶店→東京国際空港(羽田空港)の喫茶店へと移ります。

が!!!

いずれも『周囲の状況から自分が不利になった』

と思い込んで、またまた退職。

また永山は手首を切◯て自◯を図るも死に切◯ず...

その数日後の1966年9月6日に米海軍横須賀基地にに侵入して窃盗を働いているところを憲兵に見つかり、横須賀警察署に逮捕され、その後は横浜少年鑑別所へ身柄を移されますが、この時に同室者から永山はリ◯チを受けています_:(´ཀ`」 ∠):

次兄と母に刺激され定時制高校入学を決意する!

永山の実家の中の様子
画像:Twitter

逮捕から1ヶ月半後の10月21日に横浜家庭裁判所横須賀支部で審判が開かれ、永山は保護観察処分となります(⊙_⊙')

審判には母と次兄は同席したものの長兄は『関わりたくない』とこの場に来ることはありませんでした。

永山は次兄から

次兄
『困ったらいつでも来い』

と言ってもらったこと、そして母が上京してくれたことを嬉しく思い、定時制高校に入学することを決意

永山は牛乳配達をしながら勉強に励み、1967年4月に明治大学附属中野高等学校の夜間部へ入学し、入学後も学業と仕事を両立して頑張ったことで、最初の中間試験では79人中13位の好成績を残しています(⊙_⊙')

しかし、睡眠時間を削っての生活や保護観察官が勤務先に訪れると

永山
『前科者を露見する..』

と再び被害妄想をしてしまい、6月下旬に仕事を辞めてしまい、さらに!!!

高校は

『保証人と連絡が付かない』

という理由で8月に除籍処分になったんです_:(´ཀ`」 ∠):

その後の永山則夫は...

永山の実家の玄関
画像:Twitter

この後、横浜港で沖仲仕の仕事に3ヶ月就き、その後はいくつかの職を転々とします(⊙_⊙')

また自衛隊に応募をしていますが、基地侵入の犯罪歴があったことで受験はできず...

この頃、永山は

永山
『また定時制高校に通いたい...』

と思うようになり、1967年10月下旬から再び牛乳配達店で働くことになります。

が!!!

1968年の正月明けに電気ポットのスイッチを切り忘れて店の畳を焦がしてしまい

永山
『もう店にはいられない...』

と考え、さらに

永山
『横浜では顔を知られているから 日本から逃げよう....』

という理由で神戸港からフランス籍の船に乗り込んで密航を企てますが、失敗に終わり船内で手首を切◯て自◯を再び図るも、これまた死にき◯ず...

で結局、横浜へと戻されてしまいます(*´Д`*)

(横浜と東京の少年鑑別所での収容を経て、2月に再度の保護観察処分となった)

優しい言葉をかけてくれた次兄はこの時、引き取りには出向かなかったため、代わりに三兄が引き取りに来ることに。

兄(三番目)が永山を励ましたこともあり、それから杉並区の牛乳店で働きながら、同年4月に明大付属中野高校に再入学を果たし、クラス委員長にも選ばれました。

が!!!

ここでも永山の被害妄想が爆発...

永山
『辞めさせて貶めるために わざと委員長に選んだ...』

と。

これに関しての相談を三兄に相談しようとした永山でしたが、その時、兄は不在。

そして5月7日に配達中の牛乳を放置して売上金を持ったまま失踪し、青森の実家へと戻ったんです。

このような行動の繰り返しに関して、永山の精神鑑定を行った石川氏は

努力には保護者的存在からの愛情や賞賛、尊重などが伴わなければ永続しないと指摘し、永山の場合はそうした裏付けのないまま「自分を変えたい」という無理な努力であり、心身の疲労の蓄積と対人関係の障害が攻撃衝動を高め、「弱みを突かれる等の強い情動刺激」に接すると自己が否定されたと感じて逃避し、事件を起こすという悪循環に陥った

と述べています👀

戻った永山に対して母は厳しく接し、毎日叱責を繰り返すようになり、また地元の定時制高校への進学を希望したものの、中学3年の頃の担任に断られてしまう...

その後、しばらく引きこもる生活が続いた後に、永山は母からお金を借りて上京し、6月からは横浜港で再び沖仲仕として働きます。

稼いだ金の多くは次兄を通して『入院費用が必要』な長兄への仕送りに回していました。

が!!!


長兄は実際には詐欺を働いており、仕送りは逃走資金に回されていたんです_:(´ཀ`」 ∠):


8月になると永山は体調不良から仕事を無断欠勤するようになり、それ以降は日雇いの仕事しかしなくなります。

またこの頃は次兄の家に寝泊まりしていたんですが、次兄から

次兄
『もう来るな』

と言われ、永山はホームレス同然の路上生活をするように...

事件を起こす前にこのような背景があったわけですが、石川氏は鑑定書で

石川氏
則夫は何かに対し強い恨みを 抱くようになった

と述べており、また石川氏が精神鑑定で永山を尋問した際に録音した肉声テープの内容を基に、ジャーナリストの堀川恵子さんは

『永山は北海道へ向かう途中、幼少期に自分を捨てた母親や長兄・次兄・三兄に対する恨みを募らせ、特により過ごしていた期間の長かった次兄・三兄には強い憎しみを抱くようになった 『最後の相談相手として選ばれた次男から『どうせ死◯なら熱海でいいじゃないか』『手間を掛けさせずに死◯』と自身の気持ちを逆撫でするような言葉を吐かれたことへの憎しみ・当てつけとして『どうせ死ぬなら大暴れして手間を掛けさせて死◯う』と企て、さらなる犯行(函館事件・名古屋事件)を重ねた

と述べています(⊙_⊙')

また堀川氏は

『永山は警察からの取り調べの際、 自らの心に秘めていた三兄(憎悪の対象)の存在を隠すことで、自身の殺人の動機(=兄への憎しみ)を隠し通した

個人的には永山則夫は家庭環境に恵まれなかったことは確かですが、それ以上に彼自身の被害妄想によるものが事件の引き金になった気がします(⊙_⊙')

記事内で紹介したように永山は被害妄想により退職を繰り返しており、よく言えば繊細ですが、おそらく

妄想性パーソナリティ障害

だったんじゃないかと思うんですよ(⊙_⊙')

妄想性パーソナリティ障害は,他者の動機を悪意のあるものと解釈する, 他者に対する根拠のない不信および疑念の広汎なパターンを特徴とする

家族内で有病率が高いことを示す若干のエビデンスがある。一部のエビデンスから, この障害と小児期の情緒的および/または身体的虐待や犯罪被害との関連性が示唆されている。

永山は少年時代に兄や母から暴◯を振るわれ虐◯されていた時期があり、この障害を発症した可能性があり、また母からは捨てられた経験もあります。

そして深層心理の中で常に家族への憎しみ・恨みがあったものの、それが事件の動機とは悟られたくなかったため『お金のため』だと言い続けたのかもしれません(⊙_⊙')

つまり家庭環境によって妄想性パーソナリティ障害を発症したことこそが、この永山則夫連続射◯事件が起きた原因なのではないか!?

そう思うわけです。

もちろん、罪のない4人を殺◯したのは事実で許されることではありませんが、もしこの推測通りならば死刑となった永山則夫もこの事件の5人目の被害者と言えるのかもしれない...

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