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【メアリー・サラット】リンカーン大統領の暗殺の共謀罪で逮捕され、アメリカ初の女性死刑囚の悲しき物語。

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2012年に公開された映画『声をかくす人』はアメリカ初の女性死刑囚となったメアリー・サラットの実話を描いています(⊙_⊙')

記事のタイトルにはリンカーン大統領暗殺の共謀罪で逮捕となっていますが、実際は自分が営んでいた下宿宿を犯人グループのアジトとして提供しただけで死刑となっていることから、もはや不運としか言いようがありません。

果たしてメアリーはどのように捕まり、そして極刑に処されたのか?

その悲しき物語を見ていくとしましょう_φ( ̄ー ̄ )

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メアリー・サラットの逮捕

メアリー・サラット

メアリー・サラットは1820年にメリーランド州ウォータールーで裕福な農夫の娘としてこの世に生を受けます。

1840年にジョン・ハリソン・スラットと結婚し、3人の子供をもうけたサラットは南北戦争中、南軍の支持者だったこともあり、ワシントンD.Cで経営していた下宿を南軍の兵士や将校に食事と宿の提供をしたのでした。



(事件の3年前の1862年にサラットは夫を脳卒中で亡くし3人の子供と共にワシントンDCに移住した)


1865年4月14日、ジョン・ウィルクス・ブースとその共謀者たちがリンカーン大統領を暗殺。

陸軍は暗殺事件は計画的で他に共犯者がいるとして8人を逮捕・拘束したのですが、その中にサラットも含まれていたのです(*´Д`*)

『サラットは南軍の支持者であり、大統領暗殺計画を知ったうえで犯人グループにアジトを提供した共謀罪にあたる』

これが彼女が逮捕された理由となっています_φ( ̄ー ̄ )

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ジョン・ウィルクス・ブースとリンカーン大統領暗殺

リンカーン大統領を暗殺したジョン・ウィルクス・ブース

サラットの裁判・処刑の前にジョン・ウィルクス・ブースとリンカーン大統領暗殺事件の概要を見ていきましょう(⊙_⊙')

ジョン・ウィルクス・ブースは1838年にメリーランド州ベルエアで演劇一家に生まれ、幼少期から演技を初めのちにニューヨークとワシントンD.C .の舞台にも出演しています。

そんなブースもまた、南北戦争中に南軍を支持していたわけですが、南軍が戦争に負けた際に彼は

ブース
『南軍の敗北はリンカーン大統領に責任がある』
   

と考え、さらにリンカーンがアメリカ南部の奴隷制度廃止を提唱していたことに不満を持ち暗殺を決意したのです。



エイブラハム・リンカーン

1865年4月14日フォード劇場で『われらアメリカのいとこ』を観劇していたリンカーンに向けてブースは1.2mの至近距離からデリンジャー(ピ○トル)で後頭部左耳後5cmに1発撃◯込み、これによりリンカーンは死亡。

大統領の暗殺に成功したブースは

ブース
『これで南部の報復は果たされた』
   

叫んだと言われています。

その後、ブースはバルコニーから舞台へと飛び降りて、予め劇場の裏に用意していた馬に乗って海軍基地の橋まで逃走。

この橋は夜9時以降通行禁止だったため、守衛に通行を留められるもなんとか言いくるめて橋を渡り、この後ブースは協力者たちの協力によってなんとかポトマック川を渡ることに成功。

そこから10日間にわたり逃走、潜伏した後、4月24日にブースはリチャード・ギャレットという男の農場にたどり着くも25日の夜に小屋の中で寝ていたところをギャレットの家族に閉じ込められ、追ってきた29名の騎兵隊に包囲される。

騎兵隊がブースに投稿するように説得するも、彼は応じない。

そこでエヴァートン・コンガー大佐は小屋に火をつけるように指示し、火によって照らされたブースをボストン・コーベット軍曹が後方から狙撃

これがブースの首に命中し、この傷が致命傷となり彼は翌日26日朝に死亡したのです_φ( ̄ー ̄ )



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サラット&犯人グループの裁判

リンカーン大統領の暗殺にも用いられたデリンジャー

サラット&犯人グループの裁判は事件から22日後の1865年5月9日から始まり、上院議員で弁護士のリヴァーディ・ジョンソンが弁護を引き受けます(⊙_⊙')

大統領暗殺を企てた犯人グループを擁護するものは皆無でしたが

  • 一般市民の被告を裁くこの審理は通常の裁判ではなく軍法会議だった
  • 陸軍長官のスタントンが裁判長
  • 裁判官の10人に配下の北軍将校を任命した

など、被告たちがあまりに不利な状況な立場にあったことがジョンソンが弁護を引き受けた理由です。


無罪を主張するメアリー・サラット

サラットの次男ジョン(左)と長女アンナ(右)

ジョンソンはサラットの弁護を部下のフレデリック・エイキンに担当させますが、エイキンは元新聞記者で南北戦争では北軍の大佐として従軍し、南軍を倒した英雄として讃えられた人物でした(⊙_⊙')

彼は当初、大統領暗殺の共犯者を弁護することに疑問を抱いていましたが、ジョンソンには

『裁判は平等に行われるべき』

という信念があったため、渋々、弁護を引き受けることにしたのです。

公判でサラットは

メアリー・サラット
『私が犯人グループに部屋を貸したのは、夫が残した莫大な借金を返すために金を稼ぐ必要があったからで、暗殺の諜議には全く関わっていない』
   

と無罪を主張します。

しかし...

検察側は彼女が事前に計画を知っていたことを供述する証人を次々に法廷に立たせ、彼女の有罪を主張。


またサラットにとって決定的に不利な点があり、それは主犯のブースを尊敬し、暗殺の諜議に参加していた疑いのある次男ジョンが暗殺事件後に行方をくらましていたことです(*´Д`*)

エイキンはジョンを法廷で証言させればサラットの無罪を証明できると考えました。

が!!!

子が裁かれることを恐れたサラットはその提案を拒否。

エイキンは最終弁論で

  • サラットが犯行グループに部屋を貸していたこと
  • 主犯ブースと知り合いだったこと

を認めたうえで検察側の証人のうち2人が実は犯行に加担していたにもかかわらず、罪を逃れるために偽証したと主張し、さらにブースを下宿屋に招き入れたのはジョンであり、彼こそが裁かれるべきでサラットが有罪になる理由は何1つとしてないと訴えたのです。


サラットに無情なる判決が下される

フレデリック・エイキン

7月5日、エイキンの懸命の訴えも虚しく、被告8人全員に有罪判決が下りサラットを含む4人が死刑、3人が終身刑、1人に懲役6年が宣告されます_:(´ཀ`」 ∠):


翌6日、明日処刑が執行されることを知らされたサラットはカトリック司祭と面会に訪れた長女・アンナの前で大号泣しながら無罪を訴えました。

アンナは母のその姿を目にして、藁をもすがる思いでホワイトハウスに直接出向き恩赦を求めるも、その願いが聞き入れられることはありませんでした。

メアリー・サラットの死刑執行

死刑執行の実際の写真。
一番左がメアリー・サラット

1865年7月7日、ワシントンD.C.のアーセナル刑務所の中庭に高さ3.7mの絞首台に頭部を白い布で隠し全身黒ずくめで手首と足を縛られたサラットら4人が誘導されます。

絞首台の前には政府や軍の関係者、被告人の家族や友人、新聞記者など約1000人が集まり、その中にはサラットを弁護したエイキンの姿もありました。

そして13時20分に死刑執行となり、4人は20分にわたり吊るされ続け、全員の絶命が確認されてから絞首台から降ろされたのでした。

サラットと共に処刑された3人、左からルイス・パウエル(21歳)、デビッド・ヘロルド(23歳)、ジョージ・アツェロット(30歳)

その後、エイキンは『ワシントン・ポスト』紙の編集者として活躍し、1878年12月に戦争で負った傷が原因で心臓病を発病し、46歳という若さでこの世を去っています。

また事件後に行方をくらませていたサラットの次男ジョンはカナダ、ヨーロッパに逃亡に逃亡し、1866年11月に逮捕されますが、12人の陪審員のうち8人が無罪評決を出したことで釈放となっています。

サラットの裁判後、アメリカでは民間人が軍法会議で裁かれることが禁止になった)

釈放後、ジョンは牧師となり7人の子供に恵まれ、1916年に肺炎により72歳で亡くなっており、姉のアンナは大学教授と結婚しますが母の死によって長年、精神を病み、1904年に61歳で死亡。


メアリー・サラットは現在、ワシントンD.C.のマウントオリヴェリット墓地で眠っていますが、彼女がリンカーン大統領暗殺に関与しておらず、死刑判決は不当なものだったことは今や明白となっています_φ( ̄ー ̄ )

 
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