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異端審問と魔女狩りの違いとは!?異端審問とは...

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異端審問と魔女狩りは似ている部分はありますが基本的には別物なんです(⊙_⊙')

この記事では異端審問と魔女狩りの違いや異端審問の歴史、スペイン異端審問、異端審問の拷問などについて書いていきますᕙ(⇀‸↼‶)ᕗ

(参考文献:世界の拷問・処刑事典)

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異端審問と魔女狩りの違いとは?

ガリレオ裁判(Wikipedia)

異端審問の『異端』とは同じキリスト教徒でありながら、異端の説を唱える者を指しています👀

なのでユダヤ教徒やイスラム教徒はそもそもキリスト教徒ではない為、異端審問が行われることはありません👀

キリスト教徒内で正統か異端かを判定するのが『異端審問』なのです。

それに対して魔女は悪魔と契約して魔力を得て悪事をなす者と定義されているので

キリスト教徒ではない
訳です。

なので魔女は異端とはされないので『魔女に対して異端審問は行われないということになります〆(・∀・@)

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異端審問所が開設されて異端者の告発が始まる!

1841年に描かれた異端審問を表す版画:世界の拷問・処刑事典

4世記になって、キリスト教がアルメニア王国やローマ帝国に公認されてからも

教義についての解釈をめぐって、教会会議などで多くの論争がなされました(⊙_⊙')

キリスト教は常にヨーロッパの権力者と結びついていた為、複数の教義を認めると体制の崩壊に

繋がる可能性があると考えた


そこで『異端』を利用して権利者たちは1つの教義によって人心(じんしん)を統一しようとしました。

12世紀になると『異端審問所が開設』され、異端者を告発するようになるんですよ🥶

教区の監督を任されている、司教たちは、定期的に自分の教区を見回り、異端者がいないか調査するようになる...

教会には異端者を処罰する権限がなかったので、処罰は領主に任せるようになり

このシステムが確立すると、より厳密に異端審問が行われるようになっていきます〆(・∀・@)

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異端審問はキリスト教のカタリ派がきっかけとなった!?

異端審問で最も簡単な拷問として火に足を近づける方法がとられた世界の拷問・処刑事典

中世ヨーロッパにおいて異端審問が増えたのは、1022年に異端者の処刑が行われたことがきっかけと言われています👀

(フランスのオルレアンで、キリスト教カタリ派の信者が火刑に処された)

キリスト教カタリ派とは?

カタリ派は10世紀からイタリア北部とフランス南部で一種の民衆運動のような形で勢力を広げた一派で、もともとはカトリックの聖職者たちが腐敗していることに反発して生まれたと言われています。

その為、キリスト教の権力者たちには不都合な派閥だったんです(⊙_⊙')

そしてカタリ派は正当なキリスト教の教義と大きく異なっていました。

カトリックがキリストを神と人間の中間的な存在として扱うのに対して、カタリ派では神聖なる神が人間の汚れた肉体に入ることはないと否定。

このような考えがカトリックを刺激し、12世紀にはカタリ派は異端者の一派として弾圧されます。

その多くは火炙りとなり、結果カタリ派は消滅する...

異端審問の法律化!

De arte venandi cum avibusの挿絵に描かれたフリードリヒ2世(Wikipedia)

カタリ派の異端が発覚して以降、異端審問はシステムとしてローマ帝国などで法律として組み込まれることになります(⊙_⊙')

神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は異端審問を法律化し最高で死刑まで適用できるようにしました🥶

また1230年代になると、司教が教区を回って異端者を探していた探索方法から、教皇が任命した異端審問官が各地を回って異端審問を行うようにも変化していきました〆(・∀・@)

スペインの異端審問は他国とは違った!?

スペイン異端審問の様子を描いた絵(Wikipedia)

スペインの異端審問は、他国とは異なった形式で行われていました👀

通常、異端審問はローマ教皇の主導のもとで行われていましたが、スペインでは国王の主導で実施されていたのです(⊙_⊙')

この理由は、領内にキリスト教に改宗しているものの、改宗以前のイスラム教やユダヤ教を信仰している国民が多く住んでいたからなんです👀

そこでスペイン王フェルナンド2世は、教皇を強引に説得し異端審問を行う権利を許可させたのです。

教皇は難色を示していたのですが、当時、教皇領はオスマン・トルコの脅威に晒されており、それを守っていたのがフェルナンド2世だった為に断れなかったようですねw

フェルナンド2世は借金を踏み倒す為に異端審問を利用した!?

フェルナンド2世

異端審問の許可を得たフェルナンド2世は、政敵や自分が借金しているユダヤ人富裕層を捕えて激しい拷問を加えて処刑し始めるんですw

これには流石に教皇も黙ってはいられず、フェルナンド2世に何度も忠告したのですが

フェルナンド2世の暴走は止まらなかったのです🥶

フェルナンド2世が望んだ異端審問は王室の権威を示し、脅威となるユダヤ教を一掃することにありました(⊙_⊙')

刑罰は軽い警告から人前で異端者と分かるように晒される晒し刑、そして都市の広場で火刑による公開処刑まで様々でした。

特に火刑は公権力の存在を知らしめる道具として利用されていたのです🔥

異端者を告発する者は非公開とされていた為、フェルナンド2世自身が借金をしている富裕層のユダヤ人は王室自らが告発して刑に処していました(⊙_⊙')

これは当然、借金を踏み倒す為に行っていたのです💸

スペイン異端審問での犠牲者の数と異端審問の終わり!

スペインの異端審問を描いた版画(Wikipedia)

スペインでは12万5000人前後の人間が異端審問を受け、1200人〜2000人が処刑されています(⊙_⊙')

残酷なことで有名なスペインの異端審問ですが、実際に処刑まで至った例はそれほど多くはないんです👀

その後もスペインでは拷問を主体とした異端審問は引き継がれ、16世紀になるとその矛先はプロテスタントに向くことに...

しかし17世紀に入ると次第に告発件数は減少して行くことに。

(一説によると新大陸の発見で海外に人々の目が向いたことで告発者が減ったというのがあります)

そして18世紀になると異端審問はほとんど行われなくなります。

ナポレオンによって支配された1808年、スペイン異端審問はようやく事実上の廃止となったのです〆(・∀・@)

異端審問で行われてた拷問!

グレゴリオス9世(Wikipedia)

1223年、教皇グレゴリウス9世は独立機関として異端審問制度を設け、教皇直属の異端審問官が配属され、裁判の非公開・密告の推奨や拷問による自白の強要が規程されることになるのです(⊙_⊙')

この中でブッチギリで残酷だったのが拷問による自白の強要で、台に寝た者の四肢を引っ張り関節を外す『拷問台』、両肩が外れるほど強く両腕を縛って吊す『宙吊り』、口から喉まで差し込んだ漏斗(じょうご)に水を流し込む『水責め』などが行われていました🥶

マドリードのマヨール広場で行われたアウト・デ・フェの様子(Wikipedia

最も恐れられたのは、異端者を集団で一気に火刑に処す『アウト・デ・フェ(ポルトガル語ではアウト・ダ・フェ)』です。

アウトダフェは生きたまま火炙りにされるので、非常に恐れられました〆(・∀・@)

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