相模原障害者施設殺傷事件は2016年(平成28年)7月26日、神奈川県の知的障害者福祉施設『津久井やまゆり園』で発生した大量殺○事件。
犯人は元施設職員の植松聖(うえまつ さとし(当時26歳))で、植松は施設に侵入し、刃物で入所者19人を刺○、入居者・職員26人に重軽傷を負わせ、ニュースでも大々的に報道されたため、多くの人がこの事件のことを記憶していると思います(⊙_⊙')
しかし、この事件を大きな声で語ることは許されないような風潮があり、タブー視されていると思うんですよ。
なぜなら事件の被害者たちは『障害者』だからという理由で殺○れているからです。
”障害者”というワード自体が非常にデリケートで、ましてや障害者というだけで殺○れたのですから、タブー視されて当然でしょう。
しかし、今回の記事を書くために↑の本を読んで植松の考えや思想などを見ていく内に、彼のような優生思想は誰しもが少なからず心の奥底に持っているのでは?
と僕は感じたんですよ。
もちろん多くの人がそう思っていたとしても植松のように障害者を殺○するというの行動に及ぶことはないでしょうが、誰もが彼と似たような思想を持っていることは否定しきれないでしょう。
そういう意味でも非常に考えさせられる事件なので、ぜひ最後まで読んで貰えればと思います(⊙_⊙')
(記事内では非常に差別的な文言が頻繁に出てくるため、伏せ字を多用させてもらいます)
Contents
小学校時代の植松聖
植松聖は神奈川県相模原市緑区の千本良地区で育ち、その中心部には事件の舞台となった『津久井やまゆり園』があります。
父親は小学校の教員、母は漫画家で3人家族で育った植松は、幼少期に、発育や発達の遅れはなく、小学生の頃は『明るくて、目立ちたがり』(⊙_⊙')
(植松は父親の影響で『将来は小学校の先生になりたい』と思いを馳せていた)
また忘れ物が多く、物事へのこだわりが強かったものの、特に問題になることはなかったのです。
そんな小学校時代、植松の同級生と1学年下に1人ずつ障害を持つ生徒がおり、よく顔を合わせる機会があったわけですが、後に法廷で読み上げられた供述調書で、同級生らは
『被告から障害児に対する否定的な言葉を聞いたことはない』
と証言しているのですが、当時から障害者への偏○を持っていたことをうかがわせる事実があるのです...
植松が書いた作文『障○者はいらない』
2020年2月6日に行われた第11回公判で、遺族の代理弁護人から『小学校の時に”障○者はいらない”という作文を書きましたね?』
と問われた植松は事実であることを認めます。
(作文を書いたのは小学校の低学年)
後に取材のために面会した記者に対して植松は作文の内容を次のように説明(⊙_⊙')
また小学校4〜5年生の頃には、障害を持つ生徒の母親が送り迎えをする姿を見て
とも思っていたようです。
その後、植松は公立中学校に進み、バスケットボール部に所属。
また不良とも関わるようになり、学習塾でガラスを割ったり、親・教師に反抗して器物を壊したこともありましたが、植松の両親は『思春期特有のもの』と受け止め、その後、植松は次第に落ち着きを取り戻したのです。
高校時代、植松はクラスのリーダー的存在だった!?
植松は東京都八王子にある私立高校の調理科に進学したのですが、調理科を選んだ理由を聞かれた際に
と答えています。
高校時代の植松の人物像について、当時付き合っていた女性が
『クラスでリーダー的存在だった』
証言しており、クラスでダンスの練習をするのを面倒くさがる生徒に対して大声で
と呼びかけて、やる気にさせることもあったとのこと。
しかし、植松には怒りっぽい面もあり、教師にベルトの色を注意されたりするなど、気に入らないことがあれば教卓を投げたり、黒板消しを投げたりなどの騒ぎを起こしたそうで、1年生の時にはこのようなトラブルが10回近くあったそうですが、3年生になると暴れることがなくなったため、女性は植松の精神的成長を感じたとも述べています(⊙_⊙')
小学校の教師を目指して大学に進学
植松は小学校教諭を目指し、帝京大文学部教育学科に進学しました。
当初は講義に真面目に出席し単位を取っており、さらに教職の勉強のために学童保育でバイトも始めますが、結局、教育実習が忙しくなるということでその時期にバイトは辞めています(⊙_⊙')
大学時代は、障害に関するエピソードはそれほどなく、唯一あるのが友人との雑談で『自分の子供がもし障○者として生まれてきたらどうするか?』という話題になった時に
と語っていたそうです。
明るい性格で友達も多かった植松はこの頃は小学校教諭を目指して頑張っていたのですが、大学2年生頃から次第に変化が見られるように...
入れ墨を入れ、ド○ッグに手を出す
植松の幼少期からの同級生らが彼の変化について次のように証言しています(⊙_⊙')
- 『20歳頃から入れ墨を入れ”彫り師になりたい”と言っていた』
- 『服が派手になり、危険ドラ○○も吸い始めた』
というように大学2年頃より、植松は入れ墨を入れたり、危険なドラ○○に手を出すようになっていき、大学4年になると教育実習が始まるのですが、実習を終えてすぐに教師になるのを諦めています。
これについて植松は記者に対して
と説明。
植松は2012年に大学を卒業し、東京都教育委員会から小学校教諭1種の免許を授与されていますが、教職の就活はしておらず、植松が就職先に選んだのは運送会社だったのです。
やまゆり園で勤務するきっかけは!?
2012年4月に植松は運送会社に就職しますが、しばらくすると、友人に
とこぼすように...
そして同年の夏、植松は幼なじみに再会するんですが、その幼なじみは『津久井やまゆり園』で働いていたのです(⊙_⊙')
この幼なじみの男性は高校時代にやまゆり園でバイトをした際に、職員や利用者がいつも笑顔で、雰囲気が良く、ここで働きたいと思うようになり、大学卒業後に働き始めたばかりでした。
男性は『利用者と一緒に過ごすのが楽しい。生活していると可愛く思う』
と植松に話したところ
と興味を示したそうで、またこの時点では障害者への否定的な言葉はなく、純粋に興味を持っていると男性は感じたそうです。
その後の植松はすぐに行動し、同年8月28日にやまゆり園を運営する社会福祉法人『かながわ共同会』の就職説明会に出席し、9月10日に一次試験を受け、9月27日に最終面接を受けたのです。
面接の評価は『明るく意欲がある。やる気も感じられる』との判断で、植松は採用されることに...
(この時、不採用であれば悲劇は起きなかったかもしれない)
植松は11月に運送会社を辞め、園での正職員としての採用は2013年4月からでしたが、12月から非常勤職員として働き始めたのです。
やまゆり園で働き始めた植松は徐々に...
当初、植松は仕事にやりがいを感じていたようで、友人たちの調書によれば
と複数の友人に語っており、また後輩には
とまで言っています。
が!!!
2年目に入った頃から、植松の言動が変わり始める...
植松は友人にやまゆり園の利用者について
と話したり、別に友人に
と話すのを聞いたそうです(⊙_⊙')
また精神鑑定医が公判で、明らかにしたエピソードの1つに
利用者とすれ違う時に軽い暴○を振るう職員がおり、働き始めた当初、植松は『暴○はよくない』と同僚らに意見した。
すると、同僚らは『最初だから思うよね』『2、3年後にそれがいけないと言えるか楽しみ』と言われたというのがあります。
つまり、この時点では『利用者に対する暴力がいけない』と思っているので、事件を起こすようには見えなかったということになりますね👀
また、職員の暴○について、園長は取材の際に『職員の暴○は把握していない』と話しています。
『やまゆり園』についての植松聖の証言
2020年1月27日に行われた第9回の公判にて、検察官は植松に『やまゆり園で働いている時に驚いたことは?』と問いかけると
と答え、利用者の家族については
と。
(短期入所の家族は長期入所者家族と比べて、疲弊しているように見えた)
さらに職員については
と答え、職員が利用者に対して暴○を振るっていたのかを聞かれた際には
と。
また植松自身は利用者に暴○を振るったことがあるのか?
と問われると
と言った後、食事を食べようとしなかった利用者の鼻先を小突いたことがあると答えています
(⊙_⊙')
そして検察官が『障○者が裸で走り、食事を流し込まれ、職員が人として扱っていない。そのような経験を経て重度障○者はいらないと思ったのか?』
と問うと植松は
と迷うことなく言い切ったのです。
事件の1年前から植松の言動に変化が!?
植松は事件の約1年前、2015年6月頃から周囲に
と言い始め、さらに夏になると複数の友人に
と言うようになります(⊙_⊙')
なぜこの時期にこのように言動が変化したのか?
裁判でも明らかになっていませんが、同時期に高校時代の交際相手に電話で
と話していたようです。
植松はイルミナティカードに興味を持っていた!?
都市伝説や陰謀論が好きな人は知っていると思いますが、イルミナティカードは米国のカードゲームで、このカードの絵が災害や戦争などを予言しているというもの。
そして植松の言動が変化した時期、彼はこのイルミナティカードに強い関心を寄せており、ネット上で噂される予言を信じ込んでいったのです👀
また年末から年明けにかけて、植松の言動はさらに過激になり
と。
さらに、ある友人に
と言い、その手紙の内容は
というとんでもないものだったのです。
別の友人にスマホでイルミナティカードを見せながら植松は
と言ったのです。
イルミナティカードに興味を持ち、その中のカードが自分のことを予言していると信じ込んだことが少なからず、事件に影響していると言えるでしょう。
また植松にとっては”軽度の障○者か重度なのか?”
という部分が非常に大きな意味を持っていたのです...
ドナルド・トランプ元大統領に関心を持っていた!?
植松は世界情勢にも強い関心を持っており、被告人質問の際に自身が注目する政治家としてトランプ元大統領やフィリピンのドゥテルテ元大統領の名前を挙げています(⊙_⊙')
植松は特に、トランプ元大統領の不法移民対策『メキシコ国境に壁をつくる』という発言に関心を持っていたようです。
2020年1月24日に行われた第8回公判で、植松はトランプ元大統領の発言について
と語っていますが、彼の言う”真実”とは
『重度障○者は殺○した方がいい』
ということでした。
2016年2月には高校時代の交際相手の女性にLINEで
とメッセージを送っています。
それに対して女性は『私の息子が障○者でも生きて欲しい。そう思う人もいるんじゃないの?』
と返信したところ、植松は
とさらに返信。
女性は植松とのやりとりが嫌になりLINEをブロックしたのです。
そしてこの後、植松の行動・言動はさらにエスカレートし、トランプ元大統領の発言を聞いた2週間後の2016年2月14日、植松はスーツを着て衆院議長公邸を訪ねる...
目的は大島理森議長宛ての手紙を渡すこと。
しかし、公邸職員が受け取りを拒否したため、植松は諦めて帰宅。
次の日、またしても公邸を訪れた植松は土下座をして受け取りを求め、2時間後に上司の指示を受けた職員が手紙を受け取ったのですが...
という、犯罪予告だったため、警視庁が神奈川県警に連絡し、同月19日に、植松の自宅・やまゆり園を管轄する津久井署員がやまゆり園で植松と会ったのです。
その時に、植松が
と話したため、彼を保護。
結局、植松は精神保健指定医の診断を経て、緊急措置入院となり、この時にやまゆり園を自主退職したのです。
植松が彼女と見た映画『テッド2』
植松には2015年の冬頃〜事件発生までの間に交際している女性がおり、2人で料理をしたりDVDを見たりなどの時間を過ごしていました(⊙_⊙')
後にこの女性は裁判に証人として出廷するのですが、その時に2016年4月に植松の家で見た映画のDVDについて証言をしているんです。
その映画は『テッド2』で、テディベアのテッドを人間として認められるか?という内容。
話の中で登場人物がテッドに対して”名前は?”と問い、答えさせるシーンがあります。
そして自分の名前を答えるテッドは意思疎通ができるから人権があるというものなのですが、このテッド2を見た植松は
と興奮していたそうなんです。
さらに植松は
と言って、意思疎通の定義として
- 名前
- 年齢
- 住所
が言えることだと説明したそうです。
また植松はこの女性と交際している時に、事件を起こす計画を話していたのです。
女性は『やまゆり園で一生懸命、利用者に接していても報われない上に、給料も安く、さらにお礼(利用者から)もないので、燃え尽き症候群に陥っていたのでは』
と考えていたのです。
が...
植松は友人たちに過激な言動を続けており、大○仲間の男性に
持ちかけたんです。
この男性は『妄想の延長だろう』と思い、植松に合わせてネットで一緒に包○やネクタイを調べたのですが、植松は本気でした。
6月の下旬になるとこの男性に対して
と迫られた為、男性は怖くなり断ると、植松は不機嫌になったそうです。
襲撃が前倒しになった理由とは!?
事件の2日前(2016年7月24日)植松は友人らと河原でポケモンGOをした後、ボーリングに行き、その後にラーメンを食べて、ジムに行き、午後11時頃に解散。
解散後、別の友人から『大○が手に入ったから一緒に吸わないか?』と誘われたため、相模原の河川敷で友人と落合、日付が変わる頃から一緒に吸っていたわけですが、この時に友人が『僕は鬼です』と言うとなぜか!?
植松は『殺○れる』『や○ざに追われている』と思い込み、怖くなった植松は車に戻り、その場を去ったのです。
植松は友人たちに
話していました。
しかし、弁護人はこの日の出来事(殺○れる、や○ざに追われるという思い込み)で『殺○れる前にやろう』と考え襲撃を前倒ししたと説明しています。
また植松は27日(事件発生の次の日)に実は大学の後輩の女性とデートをする予定があったのですが、25日午前5時20分ごろ、女性に
というメッセージを送っています。
午後5時前に植松はホームセンターでハンマーを購入し、車で東京・南青山に向かい、パーキングに車を止めて、タクシーで代々木に向かい、女性と代々木駅で落合い、午後9時過ぎに歌舞伎町の焼肉店に入った。
女性はこの日”植松から告白されるかも”と思っていましたが、植松の口から出た言葉は
で、別れ際には
と言い残して別れています。
その後、植松は歌舞伎町のホテルに入り、デ○ヘルを呼び女性1時間ほど過ごし、26日午前0時25分にホテルをチェックアウト。
南青山の駐車場までタクシーを使った植松は、タクシーの運転手と雑談し
と。
植松、やまゆり園を襲撃!
0時39分に駐車場から出庫する際に植松は出入り口で車をぶつけるが、そのまま車を運転して中央自動車道へと入り、1時33分に相模湖東出口に到着。
料金所の現金専用レーンに入り、係員に通行券を渡すと、植松は車を降りて車両後部にしゃがみ込んで、バンパーを触る。
その後、車に戻り、お釣りを受け取って再び走り出す。
1時37分、やまゆり園の前に車を止め、わずか1時間余りで19人の重度障○者の尊い命が奪われ、24人が負傷、職員2人がケガを負った...
2020年2月19日に行われた第16回公判では
と言った植松は死刑判決が下ったあと、控訴はせずに死刑が確定した。
と思っていたのですが、つい最近にこのようなニュースが報じらています↓
2016年に相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が殺害された事件で、殺人罪などで死刑が確定した植松聖(さとし)死刑囚(32)が横浜地裁に再審を請求したことが判明した。請求は4月1日付で、翌日受理されたという。地裁は今後、再審開始決定の可否について判断する。
植松は
と、どんな判決でも控訴はしないと強調していたのに、どのような心境の変化があったのか?
これについてはハッキリとしたことはわかっていませんが、恐らく再審請求は却下されるでしょう。
また仮に再審請求が認められたとしても死刑が覆ることはないでしょうね(⊙_⊙')
やまゆり園職員の供述調書の内容
事件の際、植松に連れ回された職員の供述調書で、植松が
と、確認して話せない人を狙って襲った様子が明らかにされました。
植松は職員の腕を掴んで
と脅して、両手を結束バンドで縛った。
そして美帆さん(被害者)の部屋に連れていかれて、
と聞いてきたため、職員は『喋れません』と答えると...
植松は布団をはがし、数回包○を振り下ろした。
美帆さんは苦しそうな声を漏らした...
その後も植松は職員を連れまわし、他の部屋でも
と聞いた。
職員が『喋れます』と答えると、植松は何もせずに次の部屋に向かった。
そして職員に対して
と吐き捨てるように言った。
また
と、植松が面識のあった利用者の場所を聞かれたそうです。
また別の職員は植松が”喋れる利用者”には手を出さないことに気づき、本当は喋れない利用者でも『喋れる』と答えたのですが、それらの利用者の様子を見て植松は
と言って襲ったのです。
ここで思い出して欲しいのが映画『テッド』で、意思疎通ができる=人権がある。
つまり意思疎通がある程度できる軽度の障害者は襲わない、逆に意思疎通ができない利用者は襲われてしまったということなんです。
また植松は記者との面会でナチスがユダヤ人と障○者を惨○したことにどう思うか?
と問われた際に
と答えており、彼にとって障害が軽度であるか重度であるかがとても重要であることが窺い知れます(⊙_⊙')
①記者と植松のやり取り
それでは最後に相模原障害者殺○事件(朝日文庫)の中から記者・弁護人・検察官・裁判長と植松のやり取りをそれぞれ抜粋して紹介したいと思います。
②弁護人とのやり取り
③検察官とのやり取り
④裁判長とのやり取り
最後に
植松聖は独自の考え(意思疎通が取れない人を殺○ても良い)のもと、実際に行動に移してしまったわけですが、彼は心底”悪いことをした”と思っていません。
そんな感覚は持ち合わせていないんです。
植松に命を奪われた19人がもし、健常者であれば殺◯れることはなかったでしょう。
今回の記事ではできるだけ、植松聖の人物像や思考がイメージできるように書いたつもりですが、より詳しく知りたい方はぜひ相模原障害者殺○事件(朝日文庫)を読んでみてください。
冒頭にも書いたように、植松のような偏見・差○意識は、誰の心の中にも潜むものだと思っています。
例えば『自分は健常者として生まれてきて良かった』『自分の子供は健常者で良かった』
と思ったことがあるのではないでしょうか?
もちろん、心の中でそう思っていたとしても犯罪ではありません。
しかし、相模原の事件はこのような人間の優生思想によって引き起こされたのも事実だと思います。
そして最後に!
犠牲になったKさん(当時41歳・男性)の遺族代理人が裁判で『あなたが重度障○者になって、他の人が殺○うとしてきたら、あなたは甘んじで受け入れますか?』
と植松に質問したところ...
と即答したそうです。
<参考文献:相模原障害者殺○事件(朝日文庫)