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拷問好き貴族 ヘンリー・ホランド

バーネットの戦い。(Wikipedia)

ヘンリー・ホランドは王家の血を引く高貴なイングランド貴族でイングランドの南西部になるエクスター公領を支配していたことから、『エクスター公』とも呼ばれています(⊙_⊙')

本来ならヘンリー・ホランドは王位を継承にふさわしい血筋でしたが、残虐、野蛮、気まぐれな性格で周囲の支持が得られなかった。

ランカスター家とヨーク家が権力闘争を演じた『ばら戦争』ではランカスター派のリーダーだった。

ばら戦争』はランカスター家の紋章が赤薔薇でヨーク家の紋章が白薔薇だったことから

この名称がつけられています。


ヘンリー・ホランドはウェイクフィールドの戦い、セント・オールバーンの戦いで勝利するが

タウトンの戦い、バーネットの戦いで大敗してスコットランドへ逃げることに...

拷問器具『エクスター公の娘』

『エクスター公の娘』と呼ばれた『ラック(拷問器具)』の1つ:世界の拷問・処刑事典より

ヘンリー・ホランドは、ばら戦争が始まる前はロンドン塔の長官だった。

ロンドン塔は、もとは要塞だったが、王室を批判し逆らう身分の高い政治犯を幽閉する監獄として使用された。

やがて城内で処刑や拷問が行われるようになるんですよ👀

斬首刑に処せられる罪人は『反逆の門』と呼ばれる地下の門をくぐって入城し、民衆の見世物となって死ななければならなかった...

ホランドは体を引き伸ばす拷問器具『ラック』をロンドン塔へ持ち込んだ。 そのため、イギリスでは『ラック』のことを『エクスター公の娘』と呼んでいたのです(⊙_⊙')

『ラック』は拷問具の定番となり1640年までロンドン塔で使われ続けた。

バーネットの戦いの後、ヘンリーは敵であったヨーク派のエドワード4世のフランス遠征に志願。

だが、航海中に船から転落し溺死してしまう...

(エドワード4世の命令で処刑されたとの説もある)

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異端審問』で異教徒を弾圧!フェルナンド2世

フェルナンド2世(Wikipedia)

フェルナンド2世はスペイン東部にあったアラゴン王国の王子。

当時、スペインは統一されておらずカスティリア王国をはじめ、複数の王国に分かれており

それを統一することに成功しスペイン王国を築き上げた。

その頃から異教徒に対する弾圧が始まり『異端審問』で軍事力を用い異教徒を弾圧できる許可を

ローマ教皇から得たため、強制的に拘束し、拷問・処刑で反対勢力を粛清していった


そしてフェルナンド2世はユダヤ教徒の金融業者から多額の借金をしていたため、裕福なユダヤ教徒は狙われ財産を没収された💸

フェルナンド2世の拷問!

異端審問で行われた、油で受刑者を揚げる刑。:世界の拷問・処刑事典より

拷問はまず紐による締めつけから始まった。

腕や脚を紐で縛り、次第に強く締めつけていく。

しかしこれはまだまだ初級の拷問で、次に水責めが行われた。

顔の上に布を載せ、その上から水を注ぐ...

そうすると、布が張り付いて呼吸ができなくなる🥶

さらに犠牲者を縛って高々と吊下げ、落とす拷問もされたようです(⊙_⊙')

フェルナンド2世の好む拷問は犠牲者を火で炙るスペインの椅子だった。

スペインの椅子は金属製で重たかったため、のちに運びやすくする為に折りたたみみ式に改良したほどで 拷問で苦しむ者を眺めては満足していたのです。

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インカ帝国を滅ぼした男!フランシスコ・ピサロ

フランシスコ・ピサロ(Wikipedia)

スペイン人の探検家フランシスコ・ピサロは1498年からイタリア戦争に参加したあと、1502年にエスパニョーラ島へ渡る。

11年後にはスペイン探検家バルボアのパナマ遠征に同行し、太平洋に到着する。

その後、何度が南アメリカを探検している時にペルーのインカ帝国の存在を知ることに(⊙_⊙')

そこで1528年、スペインに戻り国王カルロス1世からペルー支配の許可を取り、兵士を募集。

翌年には168名の兵士と銃、1門の大砲と数十頭の馬を率いてインカ帝国に侵入、

そしてピサロは15世紀を代表する征服者となる...


ピサロたちの残虐行為!

スペインによるアメリカ植民地化(Wikipedia)

ピサロたちの残虐行為は、一人のスペイン人の神父・ラス・カサスによって国王へ告発されている。

スペイン人は先住民を捕らえると、誰が1番うまく体を真っぷたつに斬れるか、あるいは誰がうまく首を斬り落とせるかを賭けて楽しんでいたという。

乳飲み子がいると母親から無理やり奪って、足を振り回し、岩に叩きつけて殺したり

幼児を川へ突き落として『さあ泳いでみな』と笑ったとも言われています
🥶

幼児と母親を一緒に突き殺すなどその残虐性は底知れず...

残酷な征服を行ったピサロは。1537年から始まった内戦で仲間の探検家アルマグロと対立し処刑する。

しかしピサロ自身も、自分が処刑したアルマグロの遺児たち一派によって、暗殺されることになるのです(⊙_⊙')

プロテスタントを虐殺!フェリペ2世

フェリペ2世(Wikipedia)

フェリペ2世は1556年、父の退位より28歳でスペイン王となった。

ポルトガルを併合し、オランダや南イタリアを支配し、他にも南アメリカの太平洋側、中央アメリカや今の合衆国の一部、フィリピンなど、広大な海外領土を持ち、イングランド同様に『太陽の沈まない国』と呼ばれたのです🌞

『フィリピン』という名前はフェリペに由来する)

フェリペ2世はポルトガル王女、イングランド女王メアリー1世、フランス王の娘、ハプスブルク家の娘と4度結婚しています。

息子のカルロスは父親に反逆したため捕らえられ、幽閉先で23歳の若さで死亡する。

夫婦でプロテスタント弾圧!

『ブラッディ・メアリー』ことメアリー1世(Wikipedia)

フェリペ2世は熱心なカトリック教徒で、16世記の初めにマルティン・ルターらによってプロテスタントが誕生するが、彼は異常なほどプロテスタントを憎んだ。

妻のメアリーも同様で女、子供を含むプロテスタント300人を処刑したため『ブラッディ・メアリー』と呼ばれた。

(『ブラッディ・メアリー』はカクテルにその名を残している)

フェリペ2世もプロテスタントを捕まえると拷問し、火炙りや生き埋めなどの残虐な処刑をしたのです(⊙_⊙')

彼によって殺されたプロテスタントは1万8000人にもなったようです💦

フェリペ2世が好んだ拷問は『苦悩の梨』という拷問具で声帯が破壊された犠牲者は無実を叫ぶこともできなかった...

処◯の生き血を浴びる女!エリザベート・バートリー

エリザベート・バートリー(Wikipedia)

エリザベート・バートリーはトランシルヴァニア公国の名門貴族の娘として生まれた

(幼い頃から感情の起伏が激しかったようですw)

ハンガリーの貴族と結婚したが、夫が留守の間は愛人たちと過ごした。

44歳の時、姑と夫が相次いで他界すると、エリザベートは自分の美貌をいかにして保つかに異常な執着を燃やすようになる🔥

ある日、女中が誤って薬草の薬ビンを割ってしまった。

カッとなったエリザベートはヘアピンで女中の顔を刺した。

すると鮮血がエリザベートの手に降りかかり、自分の手が若々しく見えることに気づく...

血のシャワーを浴びる エリザベート・バートリー!

25歳頃のエリザベート・バートリー(Wikipedia)

それからエリザベートは、下男に命じて農村を回らせ村の処◯たちを、城に奉公させてやると騙して連れてこさせた。

エリザベートは娘を鋭い針が無数についた鉄製の籠(カゴ)の中に裸にして閉じ込め、高く吊り上げた。

下男に命じて下から娘を熱せられた鉄棒で突く。

鉄棒から逃げようとすると、針が体を引き裂き、シャワーのように鮮血をほとばしらせる。

エリザベートは籠の下で血のシャワーを浴びる。

さらにその血は溝を伝わって浴槽に流れる仕組みとなっていて、エリザベートは処◯の鮮血に満足するまで、浸ることができた。

体調の悪い時には、捕らえた娘たちの肌に噛みつき、腕や乳◯、顔の肉を飲み下していたという🥶

しかし、1610年、この狂気も終わる。

1人の娘が脱走したことで事件が発覚したのです👀

彼女の猟奇的殺人を手伝わされた召使や女中たちは、全て火炙りの刑に処せられた。

エリザベートは裁判で有罪になるが、身分の高さ故に死刑は免れることができたが

城の一室に監禁され、
光も入ってこない幽閉生活を3年過ごしたのちに死亡。

エリザベートが殺した娘は600人以上と言われています(⊙_⊙')

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ストーリー

シングルファーザーのデレクは、失踪した幼い娘が変わり果てた姿で発見され、絶望の淵に突き落とされた。

警察が捜索を続けるなか、デレクは独自に犯人を探し出し、自宅の地下室に監禁。

復讐の鬼と化したデレクは、娘と同じ痛みを与え始める。

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