かつて日本では想像を絶するような拷問・処刑が行われており、特に平安時代が終わって公家社会から武家社会へと時代が移り変わると、様々な拷問・処刑が生まれました(⊙_⊙')
この記事では日本で行われていた拷問・処刑法をドド〜ンと紹介していきますが、内容が過激なため伏せ字が多くなるのでご了承くださいw
それでは残酷極まりない数々の拷問・処刑について見ていくとしましょう...
Contents
火炙りの刑(火刑)
人間を棒や十字架などに縛り付けて焼き殺○『火炙り(火刑)』は全世界で行われていたポピュラーな処刑法で、日本でも古くから罪人に対して火炙りが行われ、『日本書紀』には天皇の世話係であった女性が密通相手と共に火炙◯になったという記述があります。
戦国時代では大名が裏切り者に対して『火炙り』にすることがあり、江戸時代に入ってからも火炙りは公的な処刑の1つとされていたのです(⊙_⊙')
江戸時代の火炙りの手順
戦国時代では家屋に閉じ込め一族全員をまとめて焼◯殺○という乱暴な方法が取られていましたが、江戸時代になると『火炙り』に関する手順が定められます。
『火炙り』が決定された罪人はまず、市中を引◯ずり回された後に刑場で竹枠に縛り付けられるのですが、これは木の柱だと途中で焼け落ちてしまうので、それを防ぐための工夫だったようです(⊙_⊙')
次に罪人の周りへ薪や茅(かや)が積み上げられ、最後に役人が罪人の顔を確認すると、いよいよ風上から火がつ◯られる...
その後は手を加えることはなく、罪人が焼○するまで放置し、罪人が息を引き取ると男は股間、女性であれば○房に焼印を押されて、3日間も晒されてしまうのです。
火炙りは地獄の苦しみを味うことになる!
このように火炙り自体はシンプルな方法ですが、炎は最大級の激痛を生み出すため、罪人は地獄の苦しみを味わうことに...
しかも、炎で死◯には意外と時間がかかり、煙に巻かれて早めに窒息○できないと
- 体が焼◯れ
- ただれ
- 全◯が黒焦げ
でも生◯ていることが多いため、罪人は灰になる直前まで体を焼○れる苦痛に悶え苦しむことになるのです_:(´ཀ`」 ∠):
あまりにも残酷なため、役人が罪人を殺○てから火炙りにするケースも多かったようです。
また火炙りで処刑される罪人は、ほとんどが放火犯で、これは木造家屋が広がる江戸時代では1つの火事によって街全体が焼失する可能性があったため、放課は殺○以上の大罪だったのです。
このような理由から、放火犯の処刑は通常よりもさらに苦痛を伴う『火炙り』が選ばれたというわけです_φ( ̄ー ̄ )
牛裂きの刑
それは1572年のこと...
讃岐(現在の香川県)の大名であった三好長治が鷹狩りを楽しんでいると、鷹が地元武士・勇利権之助の家に迷い込んだ。
そして、偶然その場に居合わせた勇利の家来の少年はたかが突然侵入してきたことで驚き、棒で鷹を叩き殺○してしまう。
せっかくの鷹狩りを台無しにされて怒り狂った長治は、この少年をすぐに捕えて恐ろし過ぎる処刑を宣告した。
それは『牛裂きの刑』
『牛裂き』とは海外で言うところの『八つ裂きの刑』のことで鎌倉時代前後から始められたとされている処刑法です。
また数ある刑罰の中でも極めて残酷なことで知られていました。
牛裂きの刑が極めて残酷な理由
『牛裂き』の対象者は両足(もしくは両手両足)をそれぞれ縄で縛◯れるのですが、縄のもう一方の先は牛と繋がっていて、処刑人が松明を近づけると、牛は火から逃れようとして全力で駆け出す。
その結果、牛の動きで足が引っ張られて体が千切○てしまうわけです_:(´ཀ`」 ∠):
しか〜し、実は人間の手足の筋肉は非常に頑丈なため、牛の力でも簡単には分断されません。
ではどこから千切れるのか?
それは『股』で、一度股に切れ目が入ってしまうと紙が裂けるように引き裂◯れていき、体は真っ二◯にされ、おびただしい量の血と内○を垂らしながら絶命する。
というのが残酷な理由で、鷹を殺○た勇利の家来の少年も無惨な最後を遂げたのは言うまでもありません。
斬首刑
現在の日本の死刑は『絞首刑』のみですが、江戸時代では『公事型御定書(くじがたおさめがき)』によって、軽重の差をつけ6種の方法で施行されていました(⊙_⊙')
具体的には
- 下手人(げしゅにん)
- 死罪
- 火炙り(火刑)
- 獄門
- 磔(磔刑)
- 鋸(ノコギリ)引き
なりますが赤文字はいずれも『斬首刑』となり、首を切○落とされてしまいます_:(´ཀ`」 ∠):
罪の軽重によって処刑の後の対応が変わる!?
斬首刑は首を切◯ため残酷な刑罰に思えますが一瞬で罪人の命を奪うため、当時は『温情のある刑』とみなされていたのです(⊙_⊙')
また罪の軽重によって処刑後の弔いが許される場合と許されない場合があり、『下手人』は庶民に対する死刑の中で最も軽いもので
- 利欲にかかわらない殺○
- 他人の妻との不義密通
- 10両以上の窃盗
- 喧嘩口論の末の事故による殺○
などが対象となり、○体は願う者がいる場合は下げ渡されて弔いも許されていました👀
しかし、これよりも1つ重いレベルの利欲にかかわる殺○に科せられた刑罰『死罪』の場合、斬首後の○体は新しく作られた刀の『試◯切り』に使用された挙句に弔いも許されなかったのです。
そして『獄門』の場合は晒し首に:(´ཀ`」 ∠):
斬◯の手順...
斬首の手順は、立会人の前で3人の助手が罪人の両手を縛り、ひざまずかせ、そして罪人が首を前に出すと、執行人が刀で首を一気に切◯捨てる。
というものです(⊙_⊙')
時代劇などでは1回でバッサリ切り落とされていますが、実際は1回ではなかなか切れないため、時には失敗を繰り返し、悲惨な状態になることも多かったようです。
これでは温情のある処刑とは呼べませんよね?
そこで、こうならないように『首切り浅右衛門』『人斬り浅右衛門』と呼ばれた首切り役人・山田浅右衛門によって罪人を苦しませることなく斬首刑が行われるようになったわけです_φ( ̄ー ̄ )
石抱き
時代劇で膝の上に石板を積まれて拷問をされるシーンがたまにありますが、これは実際に行われていた『※石抱き(いしだき)』という拷問です(⊙_⊙')
石抱きは江戸幕府が公認した拷問で笞打ち(むちうち)に耐えた対象者がかけれていました。
石抱きは、まず三角錐(さんかくすい)が並ぶ『十露盤板(そろばんいた)』という板の上へ対象者を正座させ、体を柱に縛りつけて動けなくさせます。
この時点でかなりの苦痛ですが、ここからさらに足へ石板が積み上げられていきます(*´Д`*)
この石板は
- 長さ約90cm
- 幅約30cm
- 厚さ約9cm
- 重さ約50kg
というものでした。
石板を足に乗せられると重みで三角錐へさらに食い込み、5枚を超えると対象者は苦痛のあまりに泡を吹◯、顔面は蒼白になり、さらに執行人が石板を上から押さえつけて、左右に揺すりながら『白状しろ!!』と迫るのです_:(´ཀ`」 ∠):
※石抱、算盤責(そろばんぜめ)、石責とも
石抱きには医師の立ち会いが必要だった!?
石抱きを続けらると骨が砕○てしまい、死の○険がありますが、実際には足が破◯される前に役人が拷問を中止していたようです(⊙_⊙')
拷問の場合は対象者から自白を引き出すことが目的なので死○せるわけにはいきませんでした。
そのため石抱きをする時は医師の立ち会いが必要で、医師が対象者を診察して続行不可能と判断した場合は一旦、牢屋へ戻されます。
しかし、これで拷問が終わるわけではなく、体力が回復すれば再び地獄の拷問は再開される...
水責め
日本では古くから『水火の責』と呼ばれ『水』は『火』と同じく処罰や拷問に使われていました(⊙_⊙')
特に江戸時代では拷問の定番として2パターンの『水責め』が行われており、1つは『窒息寸前まで大量に水を飲○せる』という方法。
これは対象者を半裸状態で横にして梯子(はしご)に縛◯つけた状態で何度も水を飲◯せるというもので、場合によっては無理矢理口をこじ開けて柄杓(ひしゃく)で直接水を流○込むことも...
こうして腹がパンパンになったところで、頭を下にして梯子を立てて、腹を叩くなどして、胃に溜まった水を吐かせ、これを延々と繰り返すのです。
この拷問を受けた者は急速に体力を奪われ、やがて水ではなく血を吐○、場合によっては途中で死○場合もあったようです_:(´ཀ`」 ∠):
そしてもう1つは『腰の高さまで水が入った密室に長時間漬ける』という方法でこれは所謂、『水牢』
呼吸ができるので苦痛が少ないのでは?
と思ってはいけませんw
なぜなら横になって休むことができないので眠ることができずに体力が尋常じゃないほど奪われてしまいます。
さらに、長時間水に浸けられるので体がふやけ、皮膚は腐◯して破れるのです_:(´ཀ`」 ∠):
入れ墨(額)
刑罰の中には体に入れ墨を彫られる『入墨刑』というのがあります。
額に入れ墨を彫られると生涯『私は犯○者です』というレッテルを背負って生きていくことになるため、入れられた者のほとんどがひっそりと隠れるように生きるしかなかった。
そういう点ではかなり酷な刑罰と言えるでしょう(⊙_⊙')
江戸時代になると額への入れ墨は『窃盗犯』への処罰や『島流し』にされた罪人への『※付加刑』としてなされ、なんと!?
子供や女性に対しても容赦なく行われていたのです。
3回罪を犯すと『犬』と彫られる!?
『入れ墨』の形や文字は各藩で異なっていましたが、多かったのは『悪』や十文字でした👀
変わったものだと丹波では眉の上に『大』、長門(山口県)では『◯』、肥後(熊本県)では『〆』や『又』、高野山では『●』が施されたそうです。
中でも一番屈辱的なのは筑前(福岡県)や芸州(広島県)の入れ墨なんですw
初犯の場合は『一』でそこから1回罪を犯す度に『入れ墨』が書き加えられ、3回罪を犯すと額に
『犬』
という字が完成_:(´ཀ`」 ∠):
これは『悪』や『〆』よりも屈辱だったため、犬の入れ墨を入れられた者の中には焼いて消そうとしたり、上から別の模様を入れて誤魔化していたようですw
鋸挽きの刑
1544年、畿内(きない)の大名・三好長慶と敵対していた細川晴元は三好家の家臣・和田新五郎の捕縛(ほばく)に成功。
常日頃から三好家に対して恨みを抱いていた晴元は、みせしめに和田を一条戻橋へ連行すると、鋸で首を切○落としてしまった_:(´ཀ`」 ∠):
これが公的記録に残された初の『鋸挽き』だとされています。
その後も鋸挽きは処刑で用いられましたが、刀による斬◯より残酷なものだったのです...
刀の場合は熟練の首切り役人によって一瞬で首が切○落とされるので一瞬で絶◯が可能。
しかし、ノコギリの場合は刃が粗いため、切断に時間がかかり、対象者はすぐに絶◯することができないからです。
また、時には両手両足を先に切○たり、首の代わりに腹・股を切○たりすることもあったそうです(⊙_⊙')
徳川家康が執行した『鋸挽き』
徳川家康が執行した鋸挽きはなんと!?
普通の町人を処刑執行人に仕立て上げたのです(*´Д`*)
家康の家臣・大賀弥四郎は優れた経済能力を買われ重宝されましたが、家康から信頼されていることを快く思わない家臣から恨みを買い次第に孤立していきます。
やがて不満を募らせた弥四郎は家康さえも疑い、1574年に武田家の引き抜きに応じてしまった...
これに家康は激怒し、すぐさま弥四郎を捕らえると、頭だけを出した状態で体を埋め、そして弥四郎の首の傍らに
『自由に首を切○てよい』
と書かれた立札と鋸が置かれたのです_:(´ཀ`」 ∠):
町人たちは弥四郎の裏切りを知っていたので『恩知らず』『卑怯者』と罵りながら鋸を引くも、少しずつだったため、弥四郎が絶◯したのは処刑開始から1週間後とされています。
また江戸時代になっても『鋸挽き』は幕府の正式な処刑方法として採用されて、家康と同じやり方で何度か行われていました。
しかし、町人が鋸を引くことはまずなかったとされており、見せしめとして晒し者にされた後に最終的に刀で斬◯されることが多かったようです_φ( ̄ー ̄ )
釣責め
古代ヨーロッパでは処刑や拷問に『吊るし刑』が採用されていましたが、日本でも江戸幕府が『釣責め(つりぜめ・つるしぜめ)』という名で公認の拷問の1つに加えていたんです(⊙_⊙')
『釣責め』の対象者は拷問用の蔵に連れて行かれると服を剥ぎ取られ、後ろ手にされたうえに、腕を縄でがんじがらめに縛り上げられる。
このように完全に腕が固められた状態で胸と二の腕を緊縛され、縄の先端を天井の吊るし輪に通して引っ張られると...
対象者の体は徐々に引き上げられていき、約10cm上がったところで、蔵の柱に打ち込まれた鉄輪に縄を通して結び、宙吊りの状態で放置されます_:(´ཀ`」 ∠):
『釣責め』が腕だけでなく胸まで縛るのは、負担を分散させ、対象者に障◯が残りにくくするための工夫。
(自白を引き出すことが目的のため)
とはいえ『釣責め』は苦痛がないわけではありません。
宙吊りのまま長くいると、腕や胸全体に全体重がかかり次第に縄が体に食い込み、肌が◯血。
そのまま1時間も放置されると我慢できないほどの激痛に襲われ、時には縄が食い込み過ぎて肉が裂◯て、体が血で真◯赤に染まることもあったのです。
磔刑(たっけい)
磔はゴルゴダの丘で処刑されたキリストが有名ですが日本の『磔刑』も見た目はキリストの場合とほぼ同じで、地面に直角に立てた磔柱に罪人の両手を開く形ではりつけて、槍で肋骨の間を貫◯というものでした_:(´ཀ`」 ∠):
磔刑は江戸時代では公刑の1つとして庶民を対象に行われており、手順は次のようなものでした。
磔柱の形状は男性用が『キ』の字、女性用が『十』の字となり、男性は両手両足を大きく大の字に開き、女性は両足だけを閉じる形で縛られる。
そして槍で突き上げる際に邪魔にならないように両○房から脇腹の衣類だけ剥ぎ取られ、多くの見物客が集まる中、死○瞬間を待つ。
処刑執行の合図が出ると、磔柱の左右で待機していた2人の執行人が、まず対象者の目の前で槍を交叉(こうさ)させ『見せ槍』行う。
それから執行人は槍で対象者を刺◯わけですが、2〜3回目で絶命○るにもかかわらず、執拗に20〜30回槍を突◯刺◯続けるのが通常だったようです(*´Д`*)
そして『止めの槍』と言われる最後の一突きで執行人は対象者の喉に槍を突◯刺○のです...
これだけ槍を突き刺すので、全てが終わる頃には◯体はボロボロで鮮○が吹き出て飛び散り、内○が体のあちこちからはみ出て、目を覆いたくなるような状態に。
しかも、遺○はその後3日間も放置されたというので絶対に磔刑に処されたくないですね_φ( ̄ー ̄ )
火頂責め(かちょうぜめ)
『火頂責め』は頭部を熱で責める拷問で、具体的には鉄鍋や冠、兜を火で灼熱状態にして、それを対象者の頭に乗せます_:(´ཀ`」 ∠):
戦国時代に織田信長は安土領内を訪れた僧・無辺を城内に呼び、超能力を持つという彼の話を聞くことにした。
ところが、無辺は出身地を尋ねられても『無辺』と答えるだけ。
その態度にブチ切れた信長は赤く焼いた鉄板を無辺の顔に近づけた。
すると無辺は態度を変え、自分が出羽の出身であることをペラペラと喋り出したそうですw
日親の伝説
しかし、無辺とは違って『火頂責め』を受けても信仰を棄てなかったのが室町時代の僧侶・日親で彼は鉄鍋を頭に被されても説法を続けたため
『鉄冠上人』
と呼ばれることになったという伝説があります(⊙_⊙')
しかし、これはあくまで伝説上の話で、実際に灼熱の鉄鍋を被ったら、頭○骨が高熱に耐えれずに割れてしまい即○してしまいます。
日親が開創した京都本法寺の僧・日匠が江戸時代に著した『日親上人徳行記』には、日親の頭に帽子のように鉄鍋を被せ、その鍋を両サイドにいる執行人が松明(たいまつ)の火で炙っている挿絵が描かれています。
つまり、焼いた鍋を日親の頭に被せたのではなく、冷えた鍋を被せてから熱したと考えられています_φ( ̄ー ̄ )