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穴吊るし(あなつるし)

穴吊るし
画像:キリスト教殉教者記念研修会館HP

戦国時代末期から江戸時代中期の間は、キリシタンへの迫害が最も強かった時期で、キリスト教とキリシタンを弾圧するために多くの残◯な拷問が生み出されたのです(⊙_⊙')

そうしたキリシタン弾圧用の拷問のなかに『穴吊るし』というのがあり、これは江戸時代初期に長崎奉行所の曾我又左衛門(そがまたざえもん)が『逆さ吊り』を進化させて考案したという説が有力。

拷問にかけられる対象者は、体を縛◯上げられて井戸の鶴瓶や吊り下げ用の台で逆さまに吊るされ、そして棒で全身を滅○打ちにされるのですが...

ここまでは普通の逆さ吊りと変わりません👀

しか〜し!!!

『穴吊るし』にはまだ続きがあります!

散々、痛めつけられると、対象者の真下に掘られた穴に吊◯下げられたまま入れられ放置されるんです_:(´ཀ`」 ∠):

長時間、逆さの状態にされると人間は頭に血が下がり、顔が真っ赤に膨れ、最後には目・口・鼻から血◯滴◯落ちる...

さらに、『穴』という暗闇に長く閉じ込められることで、精神的苦痛も味わうことになり、これが『穴吊るし』ぼ最も残酷な部分と言えるんです。

また拷問と精神的ダメージを負うため、どんなに屈強な者でも3日程度で心が折れ、最悪の場合は発○することもあったようです。

『穴吊るし』にかけられた2人のキリシタン

左上の人物が中浦ジュリアン(Wikipedia)

『穴吊るし』にかけられた犠牲者の中で最も有名なのが1633年に拷問を受けた中浦ジュリアンとフェレイラという2人のキリシタン。

フェレイラはイエズス会の宣教師で、ジュリアンは欧州使節団としてローマ教皇へ謁見(えっけん)したことのある有名なキリスト教徒でした(⊙_⊙')

しかし、彼らも穴吊るしの苦痛には耐えれず、フェレイラは開始から数時間で泣き叫びながら棄教(ききょう)を宣言。

ジュリアンは棄教を拒み、数日後に死○。

犠牲者の中には10日以上耐え切った例もあるようですが、その場合でも最後は縄を切られて転落◯する結末に...

このようにキリシタンが一度『穴吊るし』にかけられると、キリスト教の教えを捨てるか死○かの選択肢しかなかったのです。

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試し切り

試し切りの様子

職人によって精魂込めて作られた刀であっても、実際の切れ味は使ってみるまで分からない。

そこで切れ味や耐久力を試すために行われたのが『試し切り』なんです(⊙_⊙')

現代でも一部の剣術道場では修行の一環として『試し切り』が行われていますが、対象物は青竹や巻藁(まきわら)が使用されています。

が!!!

江戸時代の『試し切り』で使われたものはなんと!?

人体

だったのです_:(´ཀ`」 ∠):

江戸時代には『試し切り』を専門とした役職『御様御用(おためし)』が大名や武士から依頼を受け、牢屋敷で用意された人体を使って切◯味をテストしていました。

ただし、人体といっても生きた人間ではなく、『斬首刑』になった罪人の死○を使っていたのですが、一部の地域では”ある人々”を生きたまま『試し切り』の対象としていたんです。

ある人々とは、当時迫害されていたキリシタンで秀吉に続いてキリスト教弾圧を決定した徳川家康は、1610年前後から全国各地でキリスト教徒と宣教師の迫害を奨励(しょうれい)していった...

日本人教徒『トマス喜右衛門』

そうした弾圧の中で、1613年にトマス喜右衛門という日本人教徒が捕まるんです。

トマスは数々の拷問を受けても棄教しなかったため、死罪を宣告され刑場へ連行されることに。

ところがトマスが連行されたのは首切り場ではなく、なぜか武家の屋敷で、なんと!?

トマスの処刑方法は『打ち首』ではなく、生○たまま武士に『試◯切り』の材料にされるというのです!!

体を台に乗せられ、両手両足を竹に縛りつけられたトマスに、武士は新品の刀を容赦なく振○下ろし、体を寸刻◯にして殺○たんです_:(´ཀ`」 ∠):

その後も、キリシタンが『試し切り』の対象となることはありましたが、江戸中期に拷問や処刑法が制限されてからは公的に生◯た人間を『試し切り』することはなくなりました。

しかし、個人の私刑や武士の辻斬り手段としては明治初期まで行われていたようです_φ( ̄ー ̄ )

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獄門(晒し首)

獄門に処された平将門(Wikipedia)

時代劇で『打ち首獄門!!』というセリフを耳にすることがありますが『獄門』とは斬首後に生首を晒◯れるという恥辱刑で『晒し首』とも呼ばれます(⊙_⊙')

日本で最初にこの刑を受けたのは平将門と言われており、将門は関東の地を平定して『新皇』を名乗るが、京都から来た討伐軍に討ち取られてしまう。

その首は平安京に運ばれ都大路に晒された際に『首が舞い上がった』

という伝説があり、首が落下した場所が、現在の東京大手町だったと言われ、ここは今も『将門塚(首塚)』が祀られています。

そんな獄門は敗者への威圧・見せしめとして効果的だったことから、その後、武士の間で一気に広まって行くことになり、江戸時代には正式に『獄門』が採用され主に

  • 関所破り
  • 偽金作り
  • 強盗殺○
  • 地主・家主の殺○
  • 偽の秤や升の製造

などの罪を犯した者に課せられました👀

また付加刑として財産は没収され、○体の埋葬や弔いも許されなかったのです。

獄門の手順

首が晒されている様子

獄門の手順は、まず、斬首後に首◯けを洗って俵に詰め、指定の刑場に運ぶ

そして『獄門台』と呼ばれる五寸釘が打たれた台に首を差○込み、両側を粘土で固めて固定する。

この状態で3日間も晒され、野犬などに荒らされないように桶を被せて見張り役がつく。

というもので、獄門台の横には名前・罪状が書かれた立て札が立てられ、首は3日経つと捨◯られましたが、立て札は1ヶ月残されました。

また幕末には、夜間は首を空の醤油樽や味噌樽の中に納め、昼だけ晒すというような『獄門法』もあったようで、その後、獄門は『梟示(きょうじ)』と改名し、明治時代初期まで行われました_φ( ̄ー ̄ )

手鎖(てぐさり)

手鎖(Wikipedia)

逮捕された容疑者が逃亡しないようにするために使用される『手錠』は警察署や拘置所などへの護送が終われば外されます。

しかし、江戸時代には手錠を嵌めたままの生活を強いられる刑罰があったのです(*´Д`*)

それが『手鎖』

手鎖には

  • 30日
  • 50日
  • 100日

の3種類があり、30日と50日の場合は5日ごと、100日の場合は1日おきに係の役人が手錠を外した形跡がないかを確認し、もし外したことが発覚すれば1つ重い刑罰が科せられることになります。

そして、手錠をつけるのは牢屋内ではないんです!

この刑を受けている間は自宅謹慎を余儀なくされ、自宅に居ながら両手が使えないという状態になるんですよw

しかも、手鎖の手錠は現在のように鎖でつながれたものではなく、瓢箪(ひょうたん)のような形をしていたため、両手首がほぼ密着状態になり、寝起きや座ることもままならなかったのです_:(´ཀ`」 ∠):

しかし、ここまで紹介してきた拷問に比べると『手鎖』は相当楽な刑罰と言えるでしょう。

実際にこの刑は軽犯罪を犯した者が対象で、過料に処された際に金が払えない者が『手鎖』を受けたとされています_φ( ̄ー ̄ )


釜茹で(かまゆで)

釜茹でに処された石川五右衛門(Wikipedia)

『釜茹で』は巨大な釜の中で煮えたぎる熱湯というイメージがあるのではないでしょうか!?

しか〜し!!!

実際は、熱湯ではなく『油』が使用されるケースもあったのです(*´Д`*)

そのため、『釜茹で』は『釜煎り(かまいり)』や『釜揚げ』とも呼ばれています。

油が使用される場合は対象者は『茹でられる』のではなく100度以上の高温で『揚げられる』ため、あっという間に絶命したと考えられています。

そして、この『釜茹で』に処された人物として有名なのが『天下の大盗賊』と謳われた

石川五右衛門

です。

1594年8月、天下一の香炉『千鳥』を盗むために伏見城に忍びこんで失敗し、捕縛されて釜茹での刑に処されることが決定し、さらに手下の他、母親と息子・五郎市も五右衛門と共に処刑○れることに...

まずは手下と母親が木靴を履かされて釜に落◯される。

そして五右衛門の番が来ると、彼は覚悟を決め、五郎市を抱きかかえて、一気に釜の中に飛び込んだ...

釜に入った後の五右衛門については諸説あり

  • 自分が息絶◯るまで五郎市を持ち上げていた
  • 苦痛が一瞬で終わるように五郎市を一気に沈◯た
  • 熱さに耐えかねて五郎市を下敷◯にして、我が身を守ろうとした

などで、『五右衛門風呂』の名称は五右衛門が五郎市を下敷◯にした説が由来となっています。

また五右衛門の『釜茹で』は熱湯で煮られたのか、油で揚げられたのかは今なお謎のままです_φ( ̄ー ̄ )

水磔(すいたく)

水磔の様子
画像:日本刑罰風俗図史

水磔は磔刑と水を用いた拷問『水責め』をミックスさせたような処刑法で、この『水磔』にかけられたのは罪人だけではなく、キリシタンも対象となりました(⊙_⊙')

徳川幕府によって弾圧されたキリシタンの中でも特に信仰心の厚い信徒たちが『水磔』にかけられたようです。

江戸時代中期の兵法家・村井昌宏が記した『耶蘇天誅記(やそてんちゅうき)』によれば、1640年に幕府はどうしても転宗しない信徒70余名を捕らえ、見せしめにこの『水磔』にかけたと記録されています。

『水磔』は磔柱に逆立ち状態で縛◯つけられて、そのまま放置されるというもの。

逆さに吊るされ続けるだけでも、頭に血が下がるため、体へのダメージはかなりのものですが、それが満潮時になると容赦なく波が押し寄せて、鼻や口に海水が流れ込み、やがて首から肩までどっぷりと浸◯ってしまうんです_:(´ཀ`」 ∠):

仮にもがいたとしても体の自由は利かず、咳き込むしかできない。

早く絶◯できればまだ楽ですが、引き潮になると再び呼吸可能になるので、すぐには窒息ができず、かといって叫ぶ力も水を吐き出す力もない...

このように繰り返し海水に浸かった顔は時が経つと、塩を吹いたように真っ白になります。

『水磔』で絶◯した者の顔面は凄まじく腫◯上がり、見るに堪えないほど無◯な状態に変わり果てていたそうです...

海老責め(えびぜめ)

海老責めの様子

江戸時代に行われていた数ある拷問の中でもひときわ恐れられていたのが『海老責め』

海老責めは体を固定する拷問で対象者は、まずあぐらをかかされ両腕を後ろ手に縛られ、そのまま両足を重ねて縛られて、さらに縄を肩や腕にかけられた状態で引き絞られます_:(´ཀ`」 ∠):

こうすることで体が強制的にかがめられ、最後は顎と膝が密着状態で放置されます。

(背中の曲がる姿勢がエビに似ていることが『海老責め』の名前の由来)

このように無理な体勢のまま、長時間、体を固定されると、筋肉や関節部に痛みが生じるだけでなく、血行の悪化によって全身が鬱◯し、1時間も放置すれば苦痛で脂汗が流れ始める。

胸部の圧迫で呼吸すら満足にできないため、血が凝固し始めることで体の各部が紫色に変色していき、半日放置されるだけでも極度の血流悪化で死◯至◯可能性が高かったんです(⊙_⊙')

さらに!!!

この体勢のまま『ムチ打ち』や『石抱き』にかけることもあったので、対象者は並大抵の苦痛ではなかったでしょう。

『海老責め』は幕府公認の拷問の1つでしたが、罪人が死○でしまう可能性があるため、他の拷問に耐え抜いた屈強な者にのみ行われる最後の手段とされていました_φ( ̄ー ̄ )

刻み責め

中国では清の時代まで陵遅刑という体を削◯処刑が行われていた(Wikipedia)

かつて日本には、人◯を少しずつ解○していくという恐ろしい拷問が存在しており、757年に密謀容疑で捕らえられた橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の関係者が『耳削◯』や『鼻削○』の拷問を受け、1185年にも平家の平時忠が後白河法皇の従者・花形の鼻を削○取ったという逸話が残されています(⊙_⊙')

このように人の体を切○刻む拷問は江戸時代になっても『刻み責め』という名で残されることに。

刻み責めは、ハサミやヤットコで体の一◯を切○取っていくというもので、切◯されるのは




  • 腹や背中の肉

など、体のあらゆる箇所に及びました_:(´ཀ`」 ∠):

体の一部を切○することは対象者へ最大級の恐怖・苦痛を与えることが可能で、さらに見せしめにもなる。

このような理由から『刻み責め』は江戸時代に諸藩で実行されていました。

そしてこんな話があります👀

1614年に有馬(現在の福岡県久留米市)でアデリヤノ木戸半右衛門というキリシタンが捕らえられた

アデリヤノは奉行所へ連行されて棄教を迫られたが応じなかったため、奉行の松治郎が部下に『刻み責め』を命じ、決行した。

アデリヤノは拷問◯屋に連◯されて、まずはノコギリで両手の指を1本○つ切◯取られ、次に鼻を削○落とされた。

そしてそのまま、服を剥ぎ取られたアデリヤノは全裸のまま処刑場へと連行された。

その途中、傷つき、体力が低下した状態だった彼は何度か転んでしまう

すると役人たちは、倒れたアデリヤノに対して

『信仰が足りないから転ぶのだ』

と罵り笑い、その後、アデリヤノは処刑場で首◯切○れて処刑された...

虫責め

江戸時代には『ヤブ蚊責め』という拷問も存在した(Wikipedia

『虫責め』は対象者を全裸にさせて全身に酒や蜂蜜を塗って縛り戸外に放置させ、虫に襲わせるという拷問です_:(´ཀ`」 ∠):

また江戸時代には、蚊柱が立つほどヤブ蚊が大量発生する戸外に縛り上げ、体中に酒を塗りたくった対象者を裸で放置する『ヤブ蚊責め』も存在していました。

吉原遊廓では遊女と若い衆が深◯中になった際に『虫責め』がよく行われていたようですw

吉原で若い衆と遊女が恋仲になると、遊女は他の男に抱◯れるのを嫌がるようになり、仕事をしなくなることがあったようで、その場合は若い衆をクビにすれば良いんですが、遊女は金を生み出す大事な商品なので手放すわけにはいかないので折○を加えて戒めるわけです(*´Д`*)

冬は遊女に冷水を浴びさせて凍えさせ、夏は手足を縛ったうえで大量の蚊を閉じ込めた部屋に遊女を放り込んで『蚊責め』にしたのです。

しかし、こうした『虫責め』は虫を集めたり、季節が限定されることから徐々に衰退していきました_φ( ̄ー ̄ )

<参考文献:日本で行われていた 恐るべき拷問と処刑の歴史>

拷問男
ストーリー
シングルファーザーのデレクは、失踪した幼い娘が変わり果てた姿で発見され、絶望の淵に突き落とされた。警察が捜索を続けるなか、デレクは独自に犯人を探し出し、自宅の地下室に監禁。復讐の鬼と化したデレクは、娘と同じ痛みを与え始める。

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