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【マイヤーリンク事件】オーストリア皇太子の不可解な情死事件!

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1889年1月30日、オーストリアのルドルフ皇太子(当時30歳)が17歳のマリー・ベツェラ(ヴェッツェラとも)と心中した

『マイヤーリンク事件』

は当時、皇室の一大スキャンダルとして世間に広く知られ、後に多くの小説や映画の題材となりますが!?

2人が心中した理由については未だに謎に包まれているんです(⊙_⊙')

この記事ではルドルフ皇太子の生い立ちから心中、そして事件で囁かれる幾つかの説を紹介していきます_φ( ̄ー ̄ )

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ルドルフ皇太子の生い立ち〜マリーとの出会いまで

幼少期のルドルフ

1858年、ルドルフはオーストリア=ハンガリー帝国を統治していたハプスブルグ家の君主である、フランツ・ヨーゼフ1世の長男として生を享けます(⊙_⊙')

ルドルフの母・エリーザベト

母・エリーザベトは自由主義思考であったため、ルドルフを奔放に育て、彼は成人後も母の思想を受け継ぐことになりますが!?

父・ヨーゼフ1世は妻とは真逆の保守主義派であったため、これに憤ったわけです(*´Д`*)

しかし、ルドルフは

『そんな考えは時代遅れだ』

と反発し、さらに父の絶対君主ぶりを激しく非難したんです。

ルドルフ皇太子(死の2年前)



しかし、ルドルフは世継ぎとしての立場を避けることはできず、1881年に、ベルギー王の次女ステファニーと政略結婚するハメに...

その2年後に娘が誕生(娘の名前もエリーザベト)する頃には性格の不一致で次第に夫婦仲は冷めていくんです(⊙_⊙')

それからのルドルフは酒に溺れ、女遊びも派手になり、貴族専門の娼◯や女優たちと関係を持つように。

これは結婚生活の憂さ晴らしというより、ルドルフは独身時代からこのような自堕落な暮らしをしていたんです。

このような素行の悪さから父・ヨーゼフ1世から疎んじられたルドルフに皇太子としての公務は与えられず、暇を持て余していたこともあり

貴族批判の雑誌に匿名で投稿する

日々を送っていました。

この様子を見た周囲は失望していましたが、そんな矢先にルドルフは従姉妹の紹介で運命の女性

マリーに出会う

妻とは容姿・性格が異なるマリーに惚れ込んだルドルフは教皇に妻との離婚を望む文書まで送っています。

しか〜し!!!

当時、皇族の離婚は認められておらず、これがきっかけで父との関係はさらに悪化していくことに...

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狩猟館『マイヤーリンク』に向かう2人

マリー・フォン・・べツェラ

1889年1月28日にルドルフはマリーを連れて馬車で事件の舞台となる

ウィーンの狩猟館『マイヤーリンク』

へと向かいますが、そこで2人がどのような時を過ごしたのかは分かっていません(⊙_⊙')

その2日後の30日午前6時10分、2人の部屋から銃声が聞こえたことで慌てて館の執事が部屋へと向かう。

執事は施錠されていたドアを斧で破壊して中に入る。

すると

2人はベッドの上で血◯みれで倒れていた

そして側には拳◯が落ちていた...

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マイヤーリンク事件の謎!

事件後に公開されたルドルフ皇太子の遺◯

検死の結果、マリーはルドルフよりも数時間前に亡くなっていたことが明らかになったことから、結ばれない恋を苦にして、ルドルフがマリーを銃◯した後に、自身も拳◯自◯を図った心中と考えるのが自然でしょう。

ところが!?

後にルドルフの狩猟仲間が語った内容によれば

『事件が起きた時点で2人の中は完全に冷め切っていた』

というんです!!!

さらに、事件の直前に

『2人の言い争う声が部屋から漏れていた』

という証言もあり、これが事実であれば言い争いをしている内に

『ルドルフが突発的にマリーを撃ち殺◯、罪の意識に苛まれ自らも自◯した』

とも推測できるのではないでしょうか!?

ツィタ皇后の衝撃告白『ルドルフ皇太子は暗殺された』

ツィタ皇后

ルドルフ皇太子の死から94年後の1983年、オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇帝カール1世の妻・ツィタ皇后

ツィタ皇后
『事件は情死ではなく暗◯だった』

と告白し、さらに

ツィタ皇后
『事件の直後、かんこう令が敷かれたのは、 暗◯と知りながらも事件に政府の要人が関係していたから』

と話しています。

また事件の2日後に室内の片付けを命じられた人間の目撃情報によると

証言内容
 
  • 家具がひっくり返されており、激しく争った形跡がある
 
  • 壁にも弾痕・血痕が著しくあった
 
  • 銃声は2発ではなかった
   

そうですが真相は未だに解明されていません(*´Д`*)

ルドルフ皇太子は違う女性と心中するつもりだった!?

ミッツィ・カスパル

暗殺とは別に、ルドルフが本当に心中したかったのはミッツィ・パスカルという女性で、彼女に心中を持ちかけるも相手にされなかったため、仕方なくマリーを選んだという説があります(⊙_⊙')

実際にルドルフは1988年の夏に教会の前で

ルドルフ
『拳◯でお互いを撃ち合って一緒に死◯う』

と持ちかけています。

が!!!

これに驚いたミッツィはウィーンの警察長官クラウスに通報し、ルドルフは刑事たちの監視下に置かれることになっています(*´Д`*)

前述したようにルドルフが娼◯と関係を持っていたわけですが、このミッツィも娼◯だったんです。

史実によると、事件の2日前にルドルフはミッツィを訪ねており、夜中の3事まで2人で酒を酌み交わしており、別れ際に彼女の額に十字を切った後にマイヤーリンクに向かったとされていることから

ルドルフの本命がミッツィだったことは明らかで、皇室内で孤立したルドルフ皇太子は、徐々に自◯を考えるようになり、一緒に死◯で欲しかった女性がミッツィだったが断られたためマリーを選んだ...

という可能性も大いにあります。

が!!!

今となってはそれを証明する術はないでしょう_φ( ̄ー ̄ )

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