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祟りと恐れられた田中河内介惨殺事件の黒幕は意外な人物!?

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田中河内介惨殺事件は明治天皇の教育係だった学者の田中河内介(たなか かわちのすけ)息子の瑳磨介(さまのすけ)が殺○された事件です(⊙_⊙')

黒幕と噂されるのは意外な人物で、さらにはこの事件は時代を超えて”祟り”と恐れられています...

果たして黒幕は誰なのか?

そして祟りと恐れられる理由とは?

さっそく見ていきましょう_φ( ̄ー ̄ )

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武士たちの惨○死○が海岸に流れつく...

田中河内介
画像:wikipedia

1896年(文久2年)5月、瀬戸内海小豆島の福田海岸に2体の遺○が流れ着いたんですが、その遺◯は武士のもので、両手を後ろ手で縛られ、足枷をかけられた状態で斬○殺○されていたのです(*´Д`*)

中山忠能(なかやま ただやす)
画像:Wikipedia

2つの遺体は公家・中山忠能の家臣で、のちの明治天皇の教育係でもあった田中河内介と息子・瑳磨介と判明。

さらに同じ5月、日向灘に面した細島港(ほそしまこう)でも3体の惨○○体が流れつき、こちらも武士のもので

  • 海賀宮門
  • 中村主計
  • 千葉郁太郎

の3名と判明したのですが、田中親子とこの3名にはある共通点がありこの5人は、前月4月23日に起きた

寺田屋事件

に連座した者たちだった...

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田中河内介、討幕計画に参加

明治天皇

田中河内介は1815年(文化12年)但馬国(たじまのくに)の村医者の家で生まれ、文武両道で20代にして儒学の私塾を開き、その才を買われて、公家・中山忠能に仕えることになります(⊙_⊙')

忠能の娘・慶子が孝明天皇の子で、のちの明治天皇である祐宮(さちのみや)を出産すると教育係に抜擢されますが祐宮は河内介を河内介爺と呼び非常に懐いていたようです。

祐宮が皇居に入り、親王宣下を受けた後、田中河内介は職を辞して隠棲するのですが!?

その間に、河内介は勤皇の志士と関わる中で政情へ強い危機感を抱くようになり、そして1862年5月、薩摩藩の過激派による島津久光を擁立しての討幕計画に参加することになったのです。

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田中河内介の最後

島津久光
画像:Wikipedia

事態を知った久光が剣の腕が立つ8人の藩士に過激派の粛清を申しつけたため、過激派が集まる伏見の船宿・寺田屋にて過激派に対して説得を試みたのですが、交渉は決裂し、その場で斬り合いになったんです_:(´ཀ`」 ∠):

しかし『君命である、話は久光公に聞いていただきたい』という薩摩藩使者の言葉を信じて、その場を収めたのが河内介でした。

事件後、薩摩藩士たちは帰藩されて謹慎処分となり、各藩の藩士もそれぞれの藩に引き渡されることに。

田中親子他、見受け先がない者は薩摩藩へ護送されることになり、2隻の船に分乗りさせられて薩摩へと向かった一向でしたが、彼らがその足で薩摩の地を踏むことはなかった...

出航から数日後、親子は後ろ手に縛られ、足枷をつけられた状態で薩摩藩士に嬲り殺○にされ、海に投げ捨てられたのです。

同じ頃、河内介と別の船に乗っていた甥や浪人たちも、日向沖で惨○されて海に投げ捨てられています。


また

薩摩藩の意図を理解し、死を覚悟した河内介は

田中河内介
『ながらへてかわらぬ月を見るよりも、 死してはらわん世々の浮雲』

という句を残しています。

田中河内介惨殺事件の黒幕は大久保利通!?

事件の黒幕と噂される大久保利通
画像:wikipedia

この事件の真相は長らく不明となっていましたが、近年『船中ニて如何様二も可取申付遣候』という島津久光の手紙が発見されたのです(*´Д`*)

それによると、維新後、明治天皇の御所に明治政府の重鎮たちが集まった際に、天皇は幼い頃の教育係を懐かしみ

明治天皇
『河内介はいかがしたか?』

と臣下の者に尋ねたところ、その場に居合わせた薩摩出身の重鎮たちは目を逸らして黙っていた...

小河一敏
画像:Wikipedia

そんな中、河内介と親交が深かった小河一敏が薩摩のある人物を指差し

小河一敏
この者が田中河内介を殺○ように指示して、 護送の際に刺○されました

と答え、指差された者は顔を上げることができなかったそうですが、一説ではこの指差された人物は

大久保利通

であったとされているんです(*´Д`*)

田中河内介の祟りが噂されるようになる!?

しかし、それ以降、周辺では

河内介の祟り』

が噂されるように...

事件のあった垂水沖で薩摩藩の蒸気船・永平丸が座礁した際も『河内介の祟りに違いない』と噂されたり、その後も、薩摩藩の中で殺○に関わった者が、次々と発狂・自死を遂げたなどの噂も広まったのです(*´Д`*)

また事件の黒幕とされる大久保利通ものちに暗○されますが、これも河内介の祟りでは!?と噂されました。

それから時は経ち、大正元年。

東京の書画屋で小説家の泉鏡花(いずみ きょうか)や、歌舞伎役者・市川猿之助らが参加した怪談の会が行われた際に、そこに見知らぬ男が訪れて

『田中河内介の死の真相について語る』

と言った。

しかし、男の話は堂々巡りを続けたため、参加者たちは呆れて席を外し、外で煙草を吸って一服。

そして一同が数分後、再び戻ると

その男は絶命していた

というんです_:(´ཀ`」 ∠):

人々は『河内介の死について語ろうとしたからだ』と恐れ慄いたのは言うまでもない...

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