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幕末期に頻発した日本人による外国人襲撃事件!

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長きにわたり鎖国していた日本は、幕末維新期になって突如として国際社会へ放り出されることになりましたが、その結果、日本人による外国人襲撃事件が頻発したのです(*´Д`*)

一体、なぜ日本人は外国人を襲撃したのか!?

早速、見ていくとしましょう...

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武士の間で浸透していた尊王攘夷思想とは!?

外国人嫌いだった孝明天皇
画像:Wikipedia

幕末期に日本人による外国人襲撃事件が頻発した理由は

尊皇攘夷思想(そんのうじょういしそう)

が武士の間に浸透していたからです(⊙_⊙')

尊王攘夷思想の尊王とは天皇を敬い・尊敬する』、攘夷は『外国人を撃退・追い払うという意味で、この2つの言葉を組み合わせた思想のことを指します。

もう少し深掘りしていくと!?

尊王は江戸時代の中期から説かれていて

徳川将軍と幕府も天皇の臣下とする

という考えが前提にあります。

一方、攘夷は江戸時代後期頃に

  • アメリカ
  • ヨーロッパ諸国
  • ロシア

の強引なアプローチが続くにつれ説かれるようになった思想です。

このように元々は尊皇思想と攘夷思想は別々のものでしたが、幕末に融合し尊皇攘夷思想となったわけです。

そしてこの時の帝(みかど)・孝明天皇が大の外国人嫌いであったことが外国人襲撃事件が勃発した要因で、尊皇攘夷思想の志士たちは

異人を斬ることこそが天皇への最大の忠誠である

と考えたため、躊躇なく外国人を襲撃したのでした_φ( ̄ー ̄ )

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ヘンリー・ヒュースケン襲撃事件!

ヘンリー・ヒュースケンが襲撃される様子
画像:wikipedia

日本人による異人斬りで有名なのがアメリカ公使館の通訳官ヘンリー・ヒュースケン襲撃事件です(⊙_⊙')

ヒュースケンは万延(まんえん)元年(1860年)12月5日深夜に日本とプロシア(現在のドイツ)外交折衝にオブザーバーとして出席。

その深夜、アメリカ公使館となっている麻生の善福寺に戻る途中に薩摩藩浪士の伊牟田尚平(いむだ しょうへい)によって斬◯されました(*´Д`*)

事件の発生を受けてイギリスとフランスの公使は安全確保のために一時的に横浜に公使館を移しましたが、アメリカ公使のタウンゼント・ハリスは麻生でそのまま公務を続けています。

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ラザフォード・オールコック襲撃事件

ラザフォード・オールコック

文久元年(1861年)5月28日には、水戸脱藩浪士14人による、イギリス公使館襲撃事件が起こっており、ターゲットにされたのはイギリス公使ラザフォード・コックでした_:(´ཀ`」 ∠):

オールコックは『ロシア軍艦が対馬を占領した』という報告を受けて急遽長崎に出向き、実情を把握して帰還したばかりでしたが、浪士たちは

異人風情が日本を横断したのは許せない

と激怒し襲撃に及んだのです。

(理不尽すぎw)

浪士の襲撃シーン(『ロンドン・ニュース』の挿絵より)
画像:Wikipedia

浪士たちは闇夜に紛れて境内に侵入。

これに公使館警護の任務に当たっていた郡山・西尾・松本などの藩兵が気づいて阻止しようとするも、数人の浪士たちがこれを突破して建物内に侵入してしまいます(⊙_⊙')


これに対して公使館員2人がムチや拳銃で応戦し、負傷しつつもオールコックに害が及ぶのを防ぐことに成功

結局、水戸脱藩浪士の大半が斬り殺◯れたり、自害し、生存者は全員、捕縛されました。

また、公使館警護に当たっていた藩兵からも多くの死傷者が出てしまいます_:(´ཀ`」 ∠):



イギリス人の男女が犠牲になった『生麦事件』と薩英戦争の勃発!

事件当時の生麦村の様子。
画像:Wikipedia

文久2年(1862年)8月21日には『生麦事件』が起きています(⊙_⊙')

この事件は薩摩藩国・島津久光の一行が江戸から京都に向かう途中に神奈川県の生麦村で騎乗のイギリス人男女計4人に斬りかかり、2人が重傷、1人は死◯するというもの。

事件の発端は!?

生麦事件を描いた『生麦之発殺』
画像:Wikipedia

4人のイギリス人男女が、騎乗のまま薩摩藩の大名行列とすれ違おうとしたことが事件の発端となったんです(⊙_⊙')

日本では大名行列が見えたら武士は腰を折って頭を下げ、庶民なら平伏するのが決まりで、もしこれを行わなかった場合は

斬り捨て御免

になるほどだったんです👀

なので幕府は在留外国人たちに予め

『大名行列には気をつけるように』

と注意喚起していたのですが...

どうやら4人はこれを知らなかったようで、そのため、彼らは無礼討ちされてしまったのでした_:(´ཀ`」 ∠):

イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘の様子
画像:Wikipedia

この事件を受けたことで、各国の関係者は激怒し、幕府と薩摩藩に公式の謝罪と多額の賠償金を要求。

幕府は賠償金の支払いに応じましたが、薩摩藩はこれを拒否。

これにより、翌年に

薩英戦争』

が勃発しています(*´Д`*)

このように幕末期には尊皇攘夷思想の志士たちによって、外国人の襲撃事件が数多く行われており、またそれがきっかけで戦争にまで発展しています。

またオールコックのように理不尽な理由でターゲットにされた外国人もいますが、いずれにせよ幕末期の日本人は血の気が多かったと言えるでしょうw

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