陰謀論を深掘りしていくと必ずと言っていいほど、名前が出てくるロックフェラーとロスチャイルド。
もちろん全ての陰謀論が真実とは限りませんが、この2つの名家は実際に存在し、また世界を牛耳るだけの権力と財力があるのは事実です(⊙_⊙')
というわけで今回はロックフェラー家やロスチャイルド家をはじめ、世界の名家にまつわる逸話、黒い噂、ヤバい話などを紹介していきますよ〜🤩
それではやりすぎ都市伝...
じゃなくて名家にまつわる数々にヤバい話を見ていきましょうw
Contents
世界の石油を牛耳る一族『ロックフェラー家』
毎年、クリスマスシーズンになると、ニューヨークのロックフェラー・センターではクリスマスツリーの点灯式が行われ、アメリカの冬の風物詩となっているこのイベントには多くの著名人が駆けつけ、テレビ中継されます👀
この世界一有名なクリスマスツリーや、ツリーが飾られる小さなスケートリンク、超高層ビルが立ち並ぶロックフェラー・センターは、いずれもロックフェラー家の繁栄の象徴といえるでしょう。
またロックフェラー家は世界三大財閥のひとつで、金融業、保険業、自動車産業や軍事産業まで200以上の大手企業を傘下に収めた大財閥で合衆国副大統領も輩出し政治的な影響力もあるため『アメリカの影の支配者』とも言われています(⊙_⊙')
そしてこの大財閥の基盤はなんと!?わずか一代で築かれており、その偉業を成し遂げた人物こそロックフェラー1世ことジョン・D・ロックフェラーなのです!
果たして彼はどうやって一代で巨万の富を築き上げたのでしょうか?
オイル・ラッシュに目をつけた若き日のロックフェラー!
ロックフェラーは1839年に生まれ、幼少期をアメリカ東部のオハイオで過ごしており、薬の行商をしていた父は女癖が悪く、今では考えられないですがこの当時のロックフェラー家は裕福ではなかったのです(⊙_⊙')
そんな父親をロックフェラーは反面教師としていたのかもしれません。
やがてロックフェラーは地元の小さな商社に就職し、会計係としてキャリアをスタートさせる。
しかし、彼は小金を扱うだけのビジネスでは満足することはなく、すでに10代の頃から働いて給料をもらい、それを元手にして食品を扱う会社を立ち上げて利益を上げていました👀
そしてロックフェラーはまもなく訪れるいくつかのビジネスチャンスを見逃さなかった...
そのひとつが1859年にペンシルバニアで『原油が掘り出された』というニュースで鉄道員だったエドウィン・ドレークが世界初となる機械を使った原油の採掘に成功すると、アメリカで大量の原油が掘り出されるようになったのです。
オイル・ラッシュを目の当たりにした若き日のロックフェラーはすぐに動き出す。
彼は石油がこれからの時代の主要なエネルギーになると確信し、そのニュースのわずか4年後に、掘り出された原油を精製するための小さな精製所を設立。
この時のロックフェラーは23歳で、この若さで今でいうベンチャー企業の経営者となったのです。
また当時のアメリカは南北戦争の真っ只中で、北部を中心に産業の工業化が進んでいった時期でもあり、これが追い風となって石油の需要はさらに高まり、彼は石油の精製と輸出も手がけるようになっていきます。
ロックフェラーは成功のためには手段を選ばなかった!?
ロックフェラーは次第に会社の規模を拡大していきますが、彼のビジネススタイルは”どこにあるかわからない油田を一か八か掘り当てる”というものではなく『競争相手を次々に買収していく』という手法でした(⊙_⊙')
が!!!
競争が非常に激しかった石油業界ではそれだけで急成長するのは難しかったのです。
そこでロックフェラーは石油事業に乗り気ではなかった共同経営者に喧嘩をふっかけるフリをしてパートナーシップを解消したり、鉄道会社と秘密裏に交渉を行いリベートを受け取るなど、手段を選ばないしたたかさでのし上がっていきました。
また彼は倹約家を通り越して徹底したケチだったと言われていますw
(日頃からコストダウンを口酸っぱく指示して周囲を呆れさせたり、大富豪になってからも安いレストランで昼食を済ませていたなどのエピソードが残っています)
スタンダード・オイル社の設立と石油の独占!
1870年に弟のウイリアムと共にロックフェラーは『スタンダード・オイル社』を設立し、全米で精製される石油の約1割を手がけるようになっていました。
その後もロックフェラーの勢いはとどまるところを知らず、全米の石油精製会社は次々と傘下に収まり、わずか10年でスタンダード・オイル社は全米の石油関連産業の9割を独占する巨大な企業の連合体となったのです👀
傘下に収めるというと聞こえは良いですが、実際は競争相手を倒産に追い込んだり、絶対的買収を仕掛けたりとかなり強引なものだったようで、当然、ロックフェラーの強引なスタイルを面白く思わない同業者からは不満の声が上がりました(⊙_⊙')
そしてロックフェラーは鉱業や銀行業、不動産業などと事業を拡大すると、本拠地をオハイオの片田舎から大都会ニューヨークへと移し、ロックフェラー一族は名実ともにアメリカの財政の中央に立ったのです。
ロックフェラー一族は政治の世界に進出する!
1897年、58歳になったロックフェラーは一線からの引退を決意し、事業のほとんどを長男のロックフェラー2世ことロックフェラー・ジュニアに譲ります👀
しかし彼はそのまま隠居生活を送ったわけではなく、その後、98歳でこの世を去るまでの間、マンハッタンに自らの名を冠した『ロックフェラー・センター』を建設したり、慈善事業団体のロックフェラー財団を設立するなど精力的に活動を続けました。
また、その後の一族は政界にも進出しており、ジュニアの次男でジョン・D・ロックフェラーの孫にあたるネルソンはニューヨーク州知事を経て、1974年からのフォード政権下で副大統領を経験した人物。
もうひとりの孫、ウィンスロップはアメリカ南部のアーカンソー州知事、さらにひ孫のロックフェラー4世は上院議員を務めています(⊙_⊙')
ロックフェラー1世は晩年、学問や医学、芸術など様々な分野に数億ドルにものぼる寄付を行ったことで、彼の子供たちは莫大な相続税を負担せずに済み、石油王ジョン・D・ロックフェラーのしたたかさは最後まで健在だったと言えます〆(・∀・@)
最強の金融ネットワークを築いた『ロスチャイルド家』
歴史に名を残す大富豪一族ロスチャイルド家、その名前がヨーロッパ史に登場するのは18世紀の中頃とそう古くはなく、ドイツ中心部のフランクフルトにあるユダヤ人街で生まれたマイヤー・アムシェルがロスチャイルド家の祖と言われています✅
彼の家は古銭商を営んでおり、その縁で領主であるヘッセン家の皇太子ヴィルヘルムに近づいていきます👀
古銭コレクターだった皇太子に珍しいコインを格安で譲っていたマイヤーには”ある計算”があった。
やがて、思惑通りに皇太子と親しくなったマイヤーは20代にして宮廷への出入りを許される『宮廷御用商人』という地位を得て、この肩書きによって彼は多くの顧客を獲得するようになり、ビジネスの基盤を急速に広げていきました(⊙_⊙')
皇太子はヘッセン家の当主(ヘッセン大公)になり、長い付き合いのマイヤーに金の管理を任せるように。
こうして、当時羽振りの良かったヘッセン家の銀行家としてロスチャイルド家は着実に財を成していき、また大公から信頼を得たマイヤーは大公の資金で株式投資を行い、利益を上げると同時に金融センスを磨いていったのです💡
(さらにマイヤーはさまざまな宮殿に出向いては権力者相手にマネーコンサルトのようなこともしていたようです。)
その後、妻との間に生まれた5人の息子たちに自らが学んできた”錬金術”のノウハウを叩きこんだというわけです。
1812年に初代ロスチャイルドはこの世を去りますが、父の教えと莫大な資金を元に子供たちは次々と独立し、ヨーロッパの主要都市に銀行を構えたことで、ロスチャイルド家の最強の金融ネットワークが誕生したのです✅
ロスチャイルド兄弟の中で、最もビジネスのセンスがあったと言われているのはロンドンを拠点としていた三男のネイサン。
当時のヨーロッパはナポレオンの登場で混乱していて、”戦争の天才”といわれたナポレオンはヨーロッパ全土を支配下に置くべく各国と戦争を繰り返していた。
そんな中で、ネイサンは政財界に築いた情報網を武器に、大きなビジネスを仕掛けるタイミングを待っていたのです。
英雄ナポレオンを利用して大儲け!?
ナポレオンは一度は失脚しますが再び王位に返り咲き、イギリスとプロセインの連合軍とベルギーで戦火を交えます。(ワーテルローの戦い)
フランス軍が勝つのか?それとも連合軍が返り討ちにするのか?
実はこの天下分け目の戦いの結果が届くのをイギリスの金融業界は心待ちにしていたのです👀
理由はもしもイギリスが負ければ『イギリスの国債は紙クズ同然』になってしまい、イギリスが勝利すれば『国債が急騰する』ことが目に見えていたからです。
”売り”かそれとも買いか...
市場関係者は悶々としながら戦地の一報を待ち続けた。
ここでいち早く動いたのがネイサンでロンドンの証券取引所にやってきた彼はワーテルローからの便りが届く前に突如としてイギリス国債を売り始めたのです!!!
キレ者で有名だった彼が売りに転じた...『だったら売りじゃ〜』と大量の国債が売られました。
人々はネイサンの行動を見て、イギリス軍が敗れたことを確信したのです
が!!!
ネイサンは一転して『ドン底まで値を下げた国債を密かに買い占める』という行動に出たのです...
ネイサンはいち早く情報を手に入れていた!
やがて戦いの結果が報じられた...
イギリスとプロセインの連合軍はナポレオン軍を完膚なきまでに叩きのめしたと_:(´ཀ`」 ∠):
国債を手放した人々の顔がみるみる青ざめていく中、ネイサン一人がほくそ笑んでいた。
つまり彼はイギリス勝利の情報をいち早く入手していたものの口を閉ざし、国債の値を下げさせるための芝居を打ったということです(⊙_⊙')
この巧みな情報操作によってロスチャイルド家は莫大な金を独り占めしました。
ではネイサンはなぜ情報を手に入れることができたのでしょう?
実はネイサンは戦費がかさみ財政難に陥っていたイギリスに多額の融資を行い、イギリス軍を率いるウェリントン将軍とのパイプを築いていたため、公になる前に情報を得ることができたというわけです✅
ロスチャイルド家は質の高い情報を誰よりも早く先に手に入れることに長けていて、電話やネットがない時代に5人の兄弟は郵便馬車や伝書鳩を使ってお互いが手に入れた情報を頻繁にやり取りしていました。
しかも!!!
そのメッセージはロスチャイルド家以外の人間には解読不能な暗号で記されていたのです!
彼らは戦乱に乗じてヨーロッパの列強に多額の資金を貸し付け、また各国の国債を売却する窓口を引き受けると利益ばかりか政財界における地位も手に入れ、その総資産はわずか10年で30倍に膨れ上がったといわれています(⊙_⊙')
ロスチャイルド家の血の掟!
ロスチャイルド家の家系図では5人の兄弟が残した系統のうち、フランクフルトとナポリの一族は20世紀初頭までになぜか消滅しているんですよ👀
どうやらこれには”かつて一族を縛っていた血の掟”が関係しているようで、当時のロスチャイルド家は徹底した父系制で男子が生まれなければ血は途絶えるしかなかったのです。
さらに一族に外部の血が入ることを嫌い『血縁の人間以外との結婚を固く禁じていた』。
そのため一族のほとんどが姪や従兄弟を妻に迎えており、これによって彼らはますます結束を強めていったようです(⊙_⊙')
しかし、近親婚は遺伝子異常によって病気がちな子供が生まれる傾向があり、男子が生まれずに死に絶えた家系が出た理由の一因になっていると考えられますよね✅
この血の掟は現在では引き継がれてはいないようですが、これからもロスチャイルド家はこれからも地球上の多くの富を独占していくことでしょう💰
ウォール街の最高神!?『モルガン家』
かつて莫大な金を動かしてアメリカ産業界の仕組みを一変させてしまった大資本家がいます。
現在も世界経済に大きな影響を及ぼすモルガン財閥の創始者であるジョン・ピアポント・モルガン(J・Pモルガン)。
17世紀にイギリスからアメリカに移り住んだモルガン家は農業で成功を収めて大地主になっており、その当時からかなり裕福な家でした(⊙_⊙')
1854年、ジョンの父にあたるジューニアス・スペンサー・モルガンは莫大な資本を持った銀行の共同経営者になり、家族とともにロンドンに移り住んでいます。
彼はイギリスで株券の売買や鉄道レールなどの商品の仲介取引を行い、また多くの犠牲者を出した南北戦争でも北軍の債券を扱って巨額の利益をあげている。
パートナーのピーボディが引退すると、ジューニアスは銀行名を『J・Sモルガン商会』と改名、この銀行からモルガン財閥の歴史が始まる。
そして彼は大国を相手に債券の発行を引き受け大成功を収め『ロンドンで最も有名なアメリカ人』となったのです。
父親の資金を元に融資を行うJ・Pモルガン!
ロンドンで育ったジョンは成人するとニューヨークに渡りウォール街の投資会社で働き始めます。
幼き頃から父ジューニアスの成功を目の当たりにしてきたジョンが父と同じ金融業界で働くことは当然の話でしょう👀
しかし彼はせっかちで向こう見ずで、慎重な父とは真逆の性格でしたが父譲りの判断力やひらめきで成功を掴んでいきます。
その後、独立してフィラデルフィアの銀行家『ドレクセル・モルガン商会』を設立したジョンはしだいにウォール街で名前を知られるように。
そして彼は父の莫大な資金を元に新興企業への融資を積極的に行うようになります(⊙_⊙')
ジョンの会社はこの当時としてはまだ珍しかった電灯が取り付けられており、これは発明王エジソンが直々に出向いて点灯式を行ったそうです💡
ロンドンとニューヨークで30年以上にわたり支え合いながら商売を続けたモルガン親子でしたが、1890年に父ジューニアスが他界。
その死因は『乗っていた馬車が暴走して壁に叩きつけられてしまう』というものでした。
こうして父の遺産を相続したジョンは、ついに父を超える世界有数の銀行家となったのです。
大統領でさえ恐れる男!?
彼は莫大な資金を惜しげもなくつぎ込み、モルガン流の錬金術を繰り返すように。
海運業や鉄道業をはじめ、さまざまな企業に資金提供し、それらをまとめ上げて業界屈指の巨大企業を誕生させます🔥
そしてその株を高値で売却して資金調達、さらに他の企業の株を買い占めていきました。
この結果、アメリカの金融界と産業界では有力企業のほとんどがモルガン財閥の支配下になったといわれ、そのトップに君臨するジョンは『ジュピター(最高神)・モルガン』『大統領でさえ恐れる男』と呼ばれるようになったのです(⊙_⊙')
2000年にJ・Pモルガン社はチェース・マンハッタン社と合併して『JPモルガン・チェース&カンパニー』となり日本を含む世界60カ国以上に拠点を置く大企業になり、その総資産額は日本の国家予算の約2倍の2兆ドルを超えるといわれています〆(・∀・@)
あのテロリストを生んだ名家『ビン・ラディン家』
ウサマ・ビン・ラディン(オサマ・ビン・ラディンとも)はアルカイダの中心人物として有名ですが実は彼の家は超大金持ちの名家なんです👀
1957年、ウサマはサウジアラビアで建設業を営むムハマド・ビン・ラディンの子供として生まれ、このビン・ラディン家はサウジアラビアでも指折りの名家として知られていました(⊙_⊙')
ムハマドはサウジアラビアの王族・サウード家と太いパイプがあり、国の建設事業を一手に引き受けており、彼はサウジアラビア初の幹線道路を手がけたり、国が財政難に陥った際に全公務員の給料を肩代わりしたことがあるなど...
ビン・ラディン一族はガチでアラブの大富豪なのですw
ウサマは大学では経営学を学んでおり『いずれは親族の会社に入ってビン・ラディン家を担っていく』と一族の誰もが彼の将来に期待していました。
しかしその後、ウサマはイスラム原理主義に傾倒するようになってしまうのです...
ウサマ・ビン・ラディンは祖国から追放される!
ウサマは1970年代の激動の中東で20代を過ごし、73年にはビン・ラディン家が聖地メッカのモスク改築を担当し、75年にはファイサル国王がアメリカ育ちの甥に暗殺され、また79年にはイスラム原理主義者ホメニイ師によるイスラム革命...
これら全てがウサマを敬虔なイスラム教信者へと導き、同時に彼は西欧社会を拒むようになります(⊙_⊙')
そして78年のソ連によるアフガニスタン侵攻が引き金となり、彼は侵略者に立ち向かう『聖戦(ジハード)』に加わることを決意。
もともとの財力に加えて、建設業者としての技術やビジネスで金を生み出す術を身につけていたことでウサマはただの武闘派ではない『史上最悪のテロリスト』になっていきます...
1991年、彼は湾岸戦争で米軍を駐留させた王室を非難したことがきっかけでサウジアラビアから追放され、その後、国籍も剥奪。
スーダンに移ったウサマはイスラム原理主義のテロ集団と関わるようになり、そこにアフガニスタンで共に戦った兵が集まり、アルカイダは誕生したといわれています。
彼らの目的は『中東からアメリカを追い出してイスラム教を台頭させること』で金とモノ、人のネットワークを活用してイスラム過激派の中心人物になったウサマ・ビン・ラディンはやがて9・11のテロ事件の首謀者として※54歳で米軍に殺害されました。
※殺害されたとされるウサマ・ビン・ラディンは別人である説や彼の生存説がありますが今回の記事ではスルーしますw
ビン・ラディン家とブッシュ家の関係!
ウサマ・ビン・ラディンに関するさまざまな噂(生存説やCIAのエージェント説など)がされる理由の1つとしてビン・ラディン家とブッシュ家に繋がりがあることが挙げられます(⊙_⊙')
もともとブッシュ家は石油ビジネスで財を成していたことから、サウジアラビアの企業とも取引があり、その縁でブッシュ家とビン・ラディン家は古くからあるのです。
またブッシュジュニアことジョージ・W・ブッシュが立ち上げた石油関連会社にビン・ラディン家の長男であるサレムが出資しているという話もあります。
彼はウサマの兄で、奇しくも飛行機事故で死亡しています。
陰謀論的に言えば9・11はブッシュ家とビン・ラディン家によって引き起こされたなどの話がありますが、真相は闇の中...
一族内で抗争を繰り返した『グッチ家』
画像:本当は恐ろしい世界の名家
世界中で愛されているイタリアの老舗ファッションブランド『グッチ』は”ブランド商品の元祖”ともいわれていて、日本でもファンが多いと思います。
が!!!
この名門ブランドを立ち上げたグッチ家は経営をめぐって一族内で抗争を繰り返しているのです(⊙_⊙')
グッチ帝国の創始者グッチオ・グッチは1881年にフィレンツェでガブリエロ・グッチの三男として生まれます。
父ガブリエロは麦わら帽子の工場を営んでいましたが多額の借金を抱えたまま工場は倒産、まだあどけさの残る少年だったグッチオも働き手として家族を支えなければなりませんでした。
やがて彼は成功を求めて単身で海を渡り、ロンドンの高級ホテルで皿洗いの仕事を始めます。
重労働に耐えながら来る日も来る日も地下の炊事場で皿洗いを続けたグッチオでしたがウェイターへと昇格。
この時、彼がホテルを訪れる客と言葉を交わし、荷物を運ぶようになったことがグッチ・ブランドに影響を与えたといえます✅
ホテルには金持ちが多く集まり、グッチオはそんな彼らの洗練された文化や美意識に触れ、洒落た衣装やバッグをとにかく観察してセンスを磨くようになり、理想のデザインのイメージを膨らませていった彼は、いつしか自分の店を持ちたいという野望を抱くようになったというわけです👀
革製品の店で成功した!?
画像:本当は恐ろしい世界の名家
ロンドンで3年ほど働いたグッチオは、必死に貯めた金を手に故郷のフィレンツェに戻り、念願だった自分の店をついにオープンさせます。
そして1922年に彼はロンドンで磨いたセンスを武器にイギリスからバッグなど革製品を取り寄せて販売。
やがて、店には輸入品だけではなく地元の職人が作ったハンドメイドのバッグも並ぶようになった。
高級感あふれる品々が並ぶグッチオの店はフィレンツェを訪れる人々の間に口コミで広まっていき、こうしてグッチ家は成功への道を歩みだしたのです👀
ブランドをめぐって家族間で骨肉の争いが!?
結婚して6人の子供に恵まれたグッチオは子供たちにも店を手伝わせ、家族経営でやりくりしていたのです。
しかし、この子供たちが後にグッチ家に数々の波乱を起こすことに...
子供たちは事業の拡大を望み、グッチオの反対を押し切って新店をオープンさせようと企んだ。
父から後継者として選ばれたのは三男のアルドでしたが、彼は経営方針をめぐって父と衝突を繰り返すようになり、1938年に父の反対を押し切る形でローマに出店。
ローマ店にはエリザベス女王やハリウッド女優など世界中から有名人が押しかけるようになり、結果としてこの出店は大成功を収めたのです(⊙_⊙')
(現在も使われているGマークはこの頃に考案された)
これに気を良くしたアルドは五男のロドルフォと共に今度はニューヨークに出店。
事業の拡大に反対していた父グッチオは1953年の夏、ニューヨーク店がオープンする数ヶ月前に72歳で他界。
こうして次々と出店を成功させたグッチは1960年代〜70年代にかけて一流ブランドとして不動の地位を築いたのです。
ところがアルドとロドルフォは次第に経営権をめぐって争うようになり、80年代に入ってロドルフォが急死すると、その争いは3代目となる彼らの子供たちに受け継がれていきます。
結局、1984年にロドルフォの息子マウリツィオが叔父であるアルドを追い出す形でグッチの社長の座についたのですが...
彼には世界的大企業を率いる器がなかったのかグッチは経営不振に陥り、中東の投資会社に買収されてしまいます。
マウリツィオはグッチの株をすべて手放し、ついに創業者一族がグッチの経営陣からいなくなるという異様な状況を招いてしまいます(⊙_⊙')
しかし、グッチ家の悪夢はこれでは終わらなかった...
身内同士の暗殺事件が起きてしまう!!
画像:Fashion Archive.com
1995年3月、仕事に向かうマウリツィオは待ち伏せていた男にいきなり銃撃され、血を流し倒れたグッチの元社長に歩み寄った男は、こめかみにとどめの銃弾を撃ち込み、マウリツィオは即死。
プロの殺し屋によるこの暗殺劇はさまざまな憶測を呼び、また決定的な証拠が見つからずに迷宮入りするかもと囁かれていたのです。
しかし、事件から2年後に黒幕として逮捕されたのはなんと!?
彼の妻パトリツィアだった!!!
自分の思うように動かず、またグッチを手放してしまった夫への憎しみが動機だったようで、グッチ家の抗争はついに身内同士での殺○合いまで引き起こしてしまったのです(⊙_⊙')
フィレンツェ郊外には店舗と同じデザインの文字が記されたグッチ家の墓があり、かつていがみあった一族はここで静かに眠っています。