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太平洋戦争中、戦勝ムードが漂う中、北海道下湧別海岸付近に2個の機雷が漂着したため、撤去活動が開始されたのですが、そこで悲劇が起きてしまう...

というわけで、この記事では太平洋戦争中に起きた湧別機雷事故(ゆうべつきらいじこ)を紹介していきます_φ( ̄ー ̄ )

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機雷が漂流してお祭り騒ぎに!?

漂流した機雷

画像:東百年史

1942年(昭和17年)4月中旬、前述した通り、北海道下湧別海岸付近に2個の機雷が発見され、1つはオホーツク海、もう1つはサマロ湖でひと回り小さいサイズでした(*´Д`*)

そして現地の警察署が警備団を指揮して、2つの機雷を湧別から3kmの距離にあるポント浜から引き上げます。

その後の会議の結果、5月26日正午にダイナマイトにて機雷の爆破作業を行うことが決定したのですが、当初は水中での爆破処理も検討されていたのです。

しか〜し、漁民たちから魚介に被害が及ぶというクレームがあったため、浜での爆破が選ばれたわけなんです( ;∀;)



ロシアの係維機雷

画像:wikiwand

この時期というのがちょうど太平洋戦争海戦から半年ごろで、日本中が戦勝ムードで熱狂的な空気だったんですが、この地では地方のへんぴな田舎であったことから、戦争の実感というか現実感が薄かったわけです( ;∀;)

そのため警察署はこの機雷漂流を戦意高揚のためのイベントにしようと考え、人々に撤去作業の通達を行ったのです。

また撤去作業を5月26日にしたのは、その翌日の27日が海軍の記念日で、それに合わせてのことでした_φ( ̄ー ̄ )



.

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爆破事故の2つの説!

機雷を敷設するロシア帝国の駆逐艦
『フィーン』

警察署の思惑通り、機雷撤去は多くの一般人が見物のためにやって来たのです。

機雷撤去の当日、5月26日は快晴で、1000人以上の見物客が浜に集まりました。

解体処理に当たったのは、近隣鉱山の火薬取扱班2人、処理にあたる警察官、補助作業用に別分団、など...

計150人

また一般の見物人は大人はもちろん、教師に引率された小学生も多数集まっており、子供たちは教師の指示に従い、礼儀正しく整列していたようです(*´Д`*)

機雷に不慣れな地域だったものの、その危険性を知らなかったわけではなく、解体予定地の半径1kmを危険地域として、赤旗を立てて危険エリアを示しており、さらに解体時間には。この区域から人を排除する予定でした。

機雷を引き上げる様子

画像:キャンピングカーで放浪の旅

2つの機雷は並べて配置されていたのですが、解体直前に

『せっかくの爆破を見物客に見せるのだから、別々に爆破した方が良い』

という意見が出たため、急遽機雷を移動させることになったわけですが『この移動中に爆発した』という説と『元の位置にあった機雷の座りが悪く、位置を直そうとして動かした時に爆発した』という2つの説があります。

機雷に対する初歩的な勘違いがあった!?

錆びついた小型の機雷

またこの事故が起きた1つの要因として初歩的な勘違いがあったと言われています。

というのも、爆発したのはオホーツク海から引き上げられた機雷なのですが、もう一方のサマロ湖の方の機雷には、火薬も信管もなく、これは爆発の心配はなかったわけですよ。

しか〜し、情報が混乱して

『両方とも爆発の恐れはない』

という認識が広まってしまい、これが大惨事を引き起こすことになったのです(*´Д`*)

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犠牲者を112人も出した凄惨な爆発事故!

ポント浜に建立された
殉難者慰霊碑


画像:北海道慰霊碑巡礼の旅
 ~モニュメントから見る郷土史探訪~

5月26日午前11時26分、多くの見物人に囲まれる中、ロープを機雷にくくりつけて17人の警防団が引っ張った過程でその爆発は起きた...

半径約50m四方を爆風が吹き飛ばし、即死者は

  • 警察6人
  • 消防団員43人
  • 見物人39人

計106人。

また重傷者のうち、搬送後に6人が亡くなったため、事故による死者数は合計112人に及んだのです( ;´Д`)

生存者の証言

爆風に巻き込まれながらも奇跡的に命を取り留めた生存者は

生存者
『爆風とともに体の上に様々なものが落ちてきた。よく見るとそれは散乱した人の体の一部だった。あたりには黒こげの肉片が一面に散らばっていた...』

と、凄惨な現場の様子を生々しく証言しています(⊙_⊙')

事件直後、浜には事故犠牲者の家族たちが多数駆けつけますが、原型を留めていない遺○が数多く、半狂乱で身内を探し回る人々で溢れかえったそうです。

責任は殉職した警察署所長にあるとされた!

爆破処分される係維機雷

画像:wikiwand

事故当日、浜に向かう途中で車が故障したことで命拾いをした警察官がいたのですが、その警察官は多くの遺族に取り囲まれ

遺族たち
『こんなことになったのは、警察のせいだ!!! 殺○てやる!!!』

と責められ、泣きながら謝ったという話が残っています(⊙_⊙')

当時、この機雷爆発事故は全国的に報道されて話題になりましたが、軍部の調査の結果、責任は全て

殉職した警察署署長にある

とされたのです。

また被害者遺族への補償もされず、多くの死○を出した警防団は、土地の家々の大黒柱であることも多く、その後、困窮する家が後を断たなかった...

その後、地域からの訴えでようやく遺族への補償がされることになったのは、戦後数十年、経った昭和51年(1976年)のことでした。

 

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