ピックアップ
第一次世界大戦が日本の未来を狂わせた!?今の日中関係に大きな影響を与えたこと、それは...

当サイトはプロモーションが含まれます。

スポンサーリンク

1914年にオーストリア皇太子夫妻が暗殺され、これをきっかけに第一次世界大戦が勃発

戦争はヨーロッパ諸国だけでなく、日本も巻き込んで長期化しますが、日本は大きな犠牲を出すことなく莫大な利益を得たため、国も民衆も好景気に狂ったのです。

が、最も狂ったのは日本の未来だった...

スポンサーリンク

第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件

暗殺されたオーストリア大公フランツ・フェルディナント(右)と妻のゾフィー・ホテク

サラエボ事件は1914年(大正3年)6月28日、日本から遠く離れたバルカン半島・ボスニアの州郡サラエボで、オーストリア=ハンガリー王国皇位継承者フランツ・フェルディナントとその妻、ゾフィー・ホテクがセルビア人の青年によって銃○された事件です(⊙_⊙')

当時、オーストリアはサラエボやセルビアを含むバルカン半島を支配しており、サラエボ事件はその支配に抗議するために起こりますが、事件から1ヶ月が経過した7月28日にオーストリアはセルビアに宣戦布告。



暗殺場面を描いた新聞挿絵

オーストリアの同盟国であったドイツとセルビアを支援していたロシアが参戦したことで、さらに他国を巻き込んで第一次世界大戦へと発展したのです。

スポンサーリンク

最初は他人事だった日本も参戦することに

加藤高明

当初、日本は『遥か遠くの国で勃発した戦争』と、どこか他人事のように思っており、宣戦布告後の7月30日の東京新聞には

  • 『宣戦布告は当然』
  • 『開戦驚くに足らず』

という見出しと共に戦争を客観視する記事が並んでいました(⊙_⊙')

また開戦当初は日本政府内で

  • 原敬
  • 高橋是清
  • 尾崎行雄
  • 山形有朋

などが『参戦に反対の立場をとっていました。

しかし、ドイツと対立関係にあったイギリスが参戦するとなると、日本も他人事ではいられなくなります。

というのも日本とイギリスは1902年(明治35年)に日英同盟を結んでおり、援軍要請を受けた場合は参戦せざるを得なかったわけです。

8月7日にはイギリスが

『極東におけるドイツ武装商船を攻撃する』

ことを要求してきたため、その夜、閣僚たちは大隈邸に集まります。

ここで現代ではあり得ない(将来的にはあり得るかも?)ことが起こり、大隈重信の私邸に集まった閣僚たちは臨時閣議で

『参戦』

を決定し、御前会議を開くことなく、反対派につけ入る隙を与えなかったのです。

これを主導したのは外務大臣の加藤高明と言われており、参戦賛成派には当初から”ある大きな目的”があったとされています。

それが


中国山東省・青島(チンタオ)の利権

でした。

スポンサーリンク

日本の宣戦布告

青島要塞を砲撃する四五式二十糎榴弾砲

1897年(明治30年)にドイツ人宣教師2人が青島で殺○される事件が発生し、これを機としてドイツは青島の租借地を獲得していました。

(膠州湾(こうしゅうわん)に面した青島にはドイツ軍の基地が作られ、軍艦や武装商船が多く停泊していた)

そのため、イギリスが日本に対して要求した『ドイツの武装商船を攻撃すること』は拡大解釈すると

『青島を攻撃せよ』

とも取れるのです(⊙_⊙')

8月15日、日本は

『膠州湾を中国へ返還するために日本へ引き渡すこと』

という一項を含む最後通牒(さいごつうちょう)を突きつけますが、ドイツからの返答がなかったため、8月28日に

宣戦布告

したのです。

日本政府が犯した大きな間違い

初代中華民国大統領・袁世凱(えんせいがい)

9月11日、日本は神尾光臣(かみお みつおみ)率いる約2万9千人の第18師団が青島を包囲しますが、対するドイツ軍はわずか5千人足らずでした。

この時、新聞紙上では『神尾の慎重作戦』と揶揄されますが、じっくり時間をかけて約2ヶ月後の11月7日にドイツ軍を降伏させます。

このように日本は青島獲得の目的を果たしたわけですが!?

歴史的に長い目で見た場合、このあとの日本政府の対応は大きな間違いを犯したと言えるんです...

青島で勝利した翌年の1915年(大正4年)に日本政府は中国・袁世凱政府に対して

日本の要求
  1. 青島を含む山東省におけるドイツの権利を日本が継承すること
  2. 南満州・蒙古(もうこ)における日本の利益を強化すること
  3. 中国最大の製鉄会社・漢冶萍公司(かんやひょうこんす)を日中合同で経営すること
  4. 中国の港湾・島嶼(とうしょ)を他国に譲渡しないこと
  5. 中国の中央政府に日本人の政治・財産・軍事顧問を雇用すること
 
 

という5項目21箇条からなる要求を提示したのですが、この中の5番目の『日本人雇用』に関する項目



事実上の日本による支配

を意味しており中国のプライドを大きく傷つけたのです。

こうした日本の動きは、欧州各国がヨーロッパにおける戦いで忙しく、アジアにかまけている暇がない間の言ってみれば『火事場泥棒』的な行動と言えるでしょう。

(日本政府は特に問題の5番目の項目を同盟国イギリスにさえ伝えていなかった)

対華21箇条によって生まれた中国の反日感情

若き日の袁世凱

当然のようにこの要求を拒否した中国に対して日本は

『在日中国人に引き上げ準備を指示』

するという圧力をかけ、同年5月9日に5番目を除く4項目を袁世凱政府に認めさせます。

この結果に大隈首相も大満足し、詰めかけた記者に対して

大隈重信
『祝杯でもあげよう』
   

と述べたのです。

しかし、要求を飲む前の袁世凱は国内メディアを使って

反日感情を煽り

その一方で、日本が第5項目を隠していたことを諸外国に対して非常に上手くアピールをしていたため、イギリスやアメリカは日本に対してしこりを残す形となりました。

中国では日本の要求を受け入れた5月9日を

国恥記念日

とし、その反日感情は令和の世にも尾を引いているんです(⊙_⊙')


第一次世界大戦で使用された悪魔の化学兵器

第一次世界大戦中、催涙剤にさらされたイギリス兵。
目を傷めたため、前の者につかまって移動している。

当初、欧州の戦争はすぐに決着がつくものと思われていましたが、様々な新兵器(化学兵器)が投入されたことで第一次世界大戦は4年も続くことになります(⊙_⊙')

『物理の戦争』と言われる第二次世界大戦に対して第一次世界大戦は『化学の戦争』と呼ばれますが、開戦当初から

  • クロロアセトン
  • ヨード酢酸エチル

などの催涙剤が使用され、翌年にはベルギー・イーベルにてドイツ軍が塩素ガスを散布したのを皮切りに、各国で悪魔の化学兵器をばら撒ようになります。

このような高濃度の塩素ガスを吸い込んだ場合

確実に死に至り

仮に低濃度であっても呼吸障害が長きに渡って残ったのです。

ロバにもガスマスクがつけられている...

それらの攻撃から身を守るためにガスマスク(M2ガスマスク)が使われるようになると、呼吸機器→皮膚へダメージを与えることができる毒ガスの使用へと変化していきます、

その中でも

マスタードガス

史上最も人命を奪ったガスとして

『化学兵器の王様』

と称されています。


SHIN
『ちなみに若き日のヒトラーもマスタードガスの被害を受けたんだって👀』
   

ドイツの無制限潜水艦作戦

ドイツのUボート(U9)

第一次世界大戦が長引いたのは化学兵器だけではなく、ドイツのUボートに代表される高機能潜水艦も原因の1つとなっています(⊙_⊙')

イギリスが日本に『ドイツの武装商船を攻撃してくれ』と要求したことからも分かる通り、イギリス海軍はドイツの行動を封鎖しており、それを打開するためにドイツは

無制限潜水艦作戦を決行

1917年春、地中海でイギリスの貨物船に砲撃するドイツの潜水艦U-35。

イギリスの商戦のみならず、日本の

  • 靖国丸
  • 平野丸
  • 常陸丸

などを始めとした33隻がドイツ軍によって撃沈させられています。

さらにこの無制限潜水艦作戦によって英国商戦に乗っていたアメリカ人2人が死亡し、その結果、1917年(大正6年)にはアメリカも第一次世界大戦に参戦を表明し、戦況はますます混沌をきたします。


第一次世界大戦の終結

1918年11月11日、停戦を祝うアメリカ第7歩兵師団第64連隊の兵士たち

1918年(大正7年)

  • ロシア
  • フランス
  • イギリス
  • 日本

の連合軍が勝利し、第一次世界大戦は終結を見ることになります。

この4年間で戦闘に投入された軍人は7千万人以上で1600万人以上が死亡(戦闘員900万人、非戦闘員700万人)し、また戦争が思いのほか長期化したことで各国で革命が相次ぎ

  • ドイツ帝国
  • オーストリア=ハンガリー帝国
  • オスマン帝国
  • ロシア帝国

が崩壊し、勝利国・敗戦国ともに大きな被害を受けます。

そんな中、対華21箇条を中国に呑ませた日本だけは大戦の恩恵にあずかっていたのです...

日本の大戦景気

第一次世界大戦後、日本は好景気に沸いた

大戦景気は大正バブルとも言われますが、第一次世界大戦の影響で参戦国でありながら本土が戦地圏外にあった日本の商品輸出が急増したことで発生した空前の好景気のことで、物資不足に陥ったヨーロッパ各国に軍需品、欧州からの輸入が途絶えたアジア各国に綿製品を輸出し、莫大な利益を得たのです(⊙_⊙')

日本のGDP(国民総生産)は5年間で約3倍、工業生産高は5倍となり、また日露戦争後は20億円にのぼる債務を抱えていましたが、1920年(大正7年)には27億円超えの債務国になっていました。

この時、最も羽振りが良かった貿易業に携わる人々は儲けた金を投資に回し、その甲斐もあって、1917年(大正6年)の郵便貯金総額は4億円以上、民間銀行の貯蓄総額も3億円を超えます。

(ただし、物価高騰によって、一般の労働者の多くの生活はかえって厳しいものになった)



大戦景気で国も国民も怠慢になり過ぎた日本

井上馨(いのうえ かおる)

急激に儲けた成金たちは芸者遊びに興じ、池の庭を牛乳で満たし、朝鮮半島に虎狩りツアーに出かけるなど、常軌を逸した遊びに明け暮れました(*´Д`*)

また数々の大臣を歴任した井上馨は開戦時

井上馨
『これ(第一次世界大戦)は日本にとっての天佑だ』
   

と述べています。

確かに日本は前代未聞の好景気によって国家も民衆も豊かになりましたが、予想外の富を手に入れた日本は国も民衆も傲慢になり過ぎたと言えます。

また第一次世界大戦の成功がその後の太平洋戦争での日本の運命を決め、今も続く日中関係の不和に影響を与えていることを考えると、大正期における一時的な好景気が皮肉なものに思えます。

日本がかつて中国に提示した対華21箇条の第5項目『中国の中央政府に日本人の政治・財産・軍事顧問を雇用すること』は現在、逆転して日本の政府内に中国の息のかかった政治家が数多く存在しており

このままでは

『そう遠くない未来、日本は中国のモノになる』

という可能性も0ではありません。

もしそんな未来になるとしたら第一次世界大戦が日本の未来を狂わせたと言えるのではないでしょうか...


あわせて読んじゃう?
 
 
新着記事
レビュー
人物
事件/事故/戦争
コロナ関連記事
コロナ対策グッズ
ウイルス/細菌
拷問/処刑/歴史/
スポンサーリンク

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事