1902年1月、青森歩兵第5連隊の210名の兵士たちは日露戦争に備えた寒冷地における戦闘の予行演習として、八甲田山で雪中行軍を行っていました(⊙_⊙')
しかし、演習開始2日目に記録的な寒波と猛吹雪に見舞われ、199名の兵士が凍死し、これは日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出したとともに、近代における山岳遭難史上、世界最大級の山岳遭難事故となっています。
なぜこれほど多くの兵士が命を落とさなければいけなかったのか?
歴史と共に八甲田山雪中行軍遭難事故について一緒に見ていきましょう(*´Д`*)
Contents
八甲田山雪中行軍遭難事故は人災だった!?
遭難事故の舞台となった青森県・八甲田山
1894年(明治27年)に勃発した日清戦争で日本軍は厳しい冬の寒さに苦戦し、その後に衝突するであろうロシアとの戦いを想定して、冬季軍事訓練を決行したのが悲劇の始まり...
軍事訓練の場所に選ばれたのは日本百名山のひとつに数えられる標高約1500mの青森県・八甲田山でした(⊙_⊙')
遭難の3ヶ月程前に撮影された歩兵第5連隊
1902年1月、2つの部隊がそれぞれ別ルートで入山し、先に出発した弘前歩兵第31連隊が雪中行軍の研究を目的とした38人(この中の1人は新聞記者だった)という小隊だったのに対して、青森歩兵第5連隊は210人の大人数のうえに第5連隊は物資の運搬について調査するのが目的であったため、ソリ14台の膨大な荷物を引いて歩かなければならなかったのです。
実は総移動距離で言えば
- 弘前第31部隊・・・224キロ
- 青森第5連隊・・・20キロ
というように弘前第31部隊の方が10倍以上歩いているのですが、悲劇が起きたのは移動距離の短かった第5連部隊の方だったのです...
( 弘前第31部隊は全員が無事に生還した)
ここで疑問なのがなぜほぼ同じタイミングで入山したのにも関わらず、片方は全員生還し、もう片方は悲劇に見舞われたのか?
実は八甲田山雪中行軍遭難事故は完全なる人災だったと言えるんです。
青森歩兵第5連隊は雪山を甘く見過ぎた!?
青森歩兵第5連隊の主任中隊長で部隊を指揮した陸軍歩兵大尉の神成文吉
悲劇が起きた最大の要因は青森歩兵第5連隊の準備不足が挙げられます(⊙_⊙')
全員が生還を果たした弘前第31連隊は3年かけて研究・演習を重ねてきたエキスパート集団だったうえ、大人数で訓練に参加するように上層部から命じられても拒否し、少数精鋭で厳しい冬の山に備えていたのです。
一方、青森歩兵第5連隊はというと、上層部の命令に従って210人という大人数で編成を組み、また兵士の大半が下士兵卒(一般兵士のこと)で、その多くが東北出身者でしたが平地育ちだったことから
雪山の恐ろしさを知らなかった
のです(*´Д`*)
また彼らを率いていた神成文吉(かんなり ぶんきち)は訓練の3週間前にその役目を引き継いだばかりで、事故の前に一度予行演習を行なった際は好天に恵まれて難なくミッション達成したため、天候の荒れた雪山の危険性に気づくことができず甘く見ていたわけです。
このような認識なので、上官も冬軍服に毛糸の外套(がいとう)1枚、軍手、長靴という軽装備で、下士兵卒に至っては毛糸の外套2枚のみが支給。
さらに前日は隊全体でかなりの深酒をしていて、そんな状態で出発してしまったのです。
八甲田山での演習初日
八甲田山雪中行軍遭難事故は映画化され(八甲田山)大ヒットとなった
訓練の初日から暴風雪の兆しがあったことから田茂木野村の地元住民たちは
と進言します、が...
第5連隊は聞く耳を持たず、さらには
という申し出も断り、地図と方位磁石のみを頼りに進むという無謀な選択をしてしまったのです(*´Д`*)
ちなみにですが、弘前第31連隊は地元民を案内役として同行させており、この選択の違いが大きく明暗を分けたと言えるでしょう。
出発してたら5〜6時間経った頃、案の定、天候が悪化。
しかし、それでも第5連隊は行軍を辞めることはなく、さらに1台約80キロもあるソリ隊が徐々に遅れ始め、途中からソリを捨てて荷物を背負ったことで、さらに行軍は遅れてしまうのです。
やがて第5連隊は猛吹雪に見舞われてしまい、行くことも戻ることもできなくなったため、雪濠(せつごう)を掘って露営することに。
食事に関しても雪の中では火をつけることもままならず、そのため生煮えの米と酒が配られたのみで、わずか6畳ほどのスペースの雪濠に40人が立ったまま入り、眠ることもできませんでした。
天候の回復を祈り、耐え忍んでいましたが、翌日、彼らは想像を絶するほどの地獄を味わうことに...
死者が続出した地獄の2日目
極限の中で身を寄せ合う隊員たちの様子
その後も青森歩兵第5連隊は次から次へと判断ミスを犯し、その結果不運に見舞われてしまうんです(⊙_⊙')
まずは
と名乗り出た佐藤特務長に案内を任せたものの、全く違う場所へと迷い込み完全なる遭難状態へと陥ります。
仕方なく崖をよじ登ることになったものの重い荷物を背負うものから落伍し、死者・行方不明者が続出します。
2日目もすぐに日が暮れ、前日露営した場所からわずか700mの場所にこの日は留まることになりますが、露営に必要な道具を担いでいた者は皆死亡、もしくは行方不明になっていたうえ、食料や缶詰もカチカチに凍っていたため、飲まず食わずの状態で猛吹雪の中、身を寄せ合って耐えることしかできなかったのです(*´Д`*)
当然、死亡する隊員が続出し、その結果、本来であれば世が明けてから出発するハズだったところを、午前3時に行軍を開始したこともさらなる悲劇を招く大きな判断ミスとなったのです、
というのも方位磁石は凍りついて使い物にならない状態で猛吹雪の中、感を頼りに行軍すればますます迷うのは当然だからです。
極限状態で発狂する隊員が続出!
遭難し、直立したまま仮死状態で発見された後藤 房之助伍長の銅像
ここの証言は分かれるのですが、神成大尉を始めとする上官たちは生き残った隊員たちに対して
と宣言したとされていますが、ギリギリの精神状態でここまで何とか食らいついて来た隊員たちは、自分たちを見捨てるかのようなこの宣言に対して落胆し、発狂する者も続出したのです(*´Д`*)
例えばある者は
と叫びながら極寒の川に飛び込んだり、またある者は極寒で凍傷になった指のせいでズボンを脱ぐことができず、そのまま放尿したところから凍って凍死...
また映画『八甲田山』で描かれたことで当時、大流行した
に近い言い回しの言葉を神成大尉はこの時、つぶやいたとされています。
奇跡的に生還した者たち
事件当時の陸軍大臣・寺内正毅による後藤伍長像の碑文
それ以降、1人、また1人と死亡し、青森第5連隊は八甲田山の山中で散り散りに...
この時、雪の中で救援隊の姿だと思い必死に
と叫びますが、それは樹木の並んだ影を見間違っただけという隊員もいました。
青森歩兵第5連隊の11人の生存者の集合写真
引用:さすらいの武士
- 倉石一大尉
- 伊藤格明中尉
- 長谷川貞三特務曹長
- 後藤房之助伍長
- 小原忠三郎伍長
- 及川平助伍長
- 村松文哉伍長
- 阿部卯吉一等卒
- 後藤惣助一等卒
- 山本徳次郎一等卒
- 阿部寿松一等卒
その後も天候はなかなか回復せず、救援隊が最初の生存者である後藤伍長を発見した5日目まで、厳しい寒さと飢え、疲労に耐えなければならなかったのです(⊙_⊙')
後藤伍長は発見時、目を開けたまま仮死状態になりながらも仁王立ちしており、この時の様子が後の銅像となり、現在も八甲田山の山中に立ち続けているのです。
また最後の生存者・村松文哉伍長が発見されたのは出発から11日目で、彼は運良く山小屋を見つけて避難することに成功していたとは言え、生還できたのは奇跡と言えるでしょう。
無傷では済まなかった生還者たち
馬立場に立てられた雪中行軍遭難記念像
210人中199人が帰らぬ人となった八甲田山雪中行軍遭難事故において奇跡的に生還を果たした11人もまた無傷では済まず、彼らのほとんどが凍傷により手足の一部や、なかには症状が酷く四肢全ての切断を余儀なくされた者もいたのです(*´Д`*)
また死亡者の中には神成大尉も含まれていますが、発見時に帽子も手袋も着けずに首までスッポリと雪に埋もれ、体は完全に凍った状態で発見されたことから、彼も錯乱・錯覚に陥った可能性が考えられます。
そのほかの隊員らの遺体に関しても同様に凍った状態で発見されたため、回収の際は砕けないように細心の注意を払いながら運ばれ、火で溶かしてから棺に納められたそうです。
発狂して川に飛び込んだ隊員の遺体の捜索は困難を極め、最後の遺体が回収されたのは事故から4ヶ月後の5月28日のことでした。
八甲田山雪中行軍遭難事故の教訓は日露戦争に生かされたのか?
黒溝台に於ける臨時立見軍司令部
引用:坂の上の雲
八甲田山雪中行軍遭難事故は悪天候のマイナス20度以下の過酷な環境下で訓練が行われたこと、そして自然の脅威を見くびった人災によって発生したわけですが!?
前述したようにロシア戦を想定して行われたこの訓練は2年後に勃発した日露戦争において、この凄惨で悲劇的な遭難事故の教訓は生かされたのか?
ココが気になるところですが、その答えは評価が分かれています(⊙_⊙')
八甲田山の事故後、防寒対策への意識は高まり、1905年1月25日から始まった満州・黒溝台会議に臨んだ際の兵士たちの装備は、極寒の環境下に適したものが支給されていることから、遭難事故の教訓はしっかり反映されているように思えます。
が!!!
この戦いは4日間という短期戦だったのにも関わらず、凍傷にかかる兵士が続出しているんです(*´Д`*)
また黒溝台会議には八甲田山の生還者も参加しており、彼らは凍傷の恐ろしさを身をもって知っていたわけですが、それが下士兵には周知されていなかったんです。
その結果、冷たいままの手足を放置し続けたり、火で炙って温めたことにより凍傷を悪化させるものが後を絶たなかったそうです。
この時、もっと八甲田山雪中行軍遭難事故の教訓を生かすことができていれば、黒溝台で苦しむ若者の数を大幅に減らすことができたことを思うと非常に悔やまれます_φ( ̄ー ̄ )
全員が生還を果たした弘前歩兵第31連隊の疑惑
弘前歩兵第31連隊の中隊長・福島 泰蔵(ふくしま たいぞう)
最後に全員が生還を果たした弘前歩兵第31連隊の疑惑について触れておきましょう(⊙_⊙')
公式には福島 泰蔵大尉率いる弘前歩兵隊が青森隊の遭難を知ったのは田茂木野に着いてからとされていますが、実は『途中で凍死者および銃を見た』という記述が従軍記者や隊員の日記、案内人の証言記録などにあるんですよ。
遭難者の顔を見ようと軍帽を外そうとしたところ、顔の皮膚まで剥がれて軍帽に付着したとの記述もあり、また弘前隊が田茂木野に着いた際、第5連隊遭難者を目撃した旨を福島大尉自身が報告したという資料が2002年に見つかっています。
しか〜し、福島大尉の
という命令や、その後の軍の※緘口令(かんこうれい)により、現地で見たこと、その他軍の不利になるようなことは全て封じられたのです。
もちろん弘前歩兵第31連隊も遭難しかけた状況下で第5連隊の救出は不可能でしたが、目撃の事実を隠蔽した理由は遭難を発見しながら救助活動をしなかったことが推測されています(*´Д`*)
その後の第5連隊の後藤惣助の体験談で
という旨の資料が見つかっています。
31連隊の案内人の証言と被害
歩兵第31連隊歴代連隊長
引用:ぶらり重兵衛の歴史探訪2
31連隊と共に田代への道案内に駆り出された地元の一般市民は凍傷などの後遺症を負ったのにも関わらず遭難した兵士たちとは異なり、地元民にはわずかな案内料しか支払われませんでした_:(´ཀ`」 ∠):
後に明らかになった当時の案内人の証言によると
とのことです。
また、31連隊の福島隊は八甲田山の最難関を通過後、小峠付近で疲労困憊の案内人たちを置いて田茂木野へと進軍し、これらの案内人は重度の凍傷を負い、そのうち1人は16年後に死亡するまで回復せず、もう1人は凍傷による頬の穴が残り、水を飲むのにさえ苦労したそうで、これらの出来事は1930年に初めて明るみに出され、地元では“七勇士”として彼らの功績をたたえる石碑が翌年に建てられました
陸上自衛隊幹部候補生学校に寄贈された福島大尉の遺品には、大深内村の村長からの手紙が含まれており、「連隊長と福島大尉の要請により提供した案内人が重度の凍傷を負い、村議会が全会一致で陸軍に治療費の補助を要請した」と述べられています。
このような記録・証言によって弘前歩兵第31連隊では口止めをしたり、案内人を人質にするなどの非道な行為を行なっていたことが明るみになりましたが、結局、天に見放されたのは彼らではなく青森歩兵第5連隊だったことは何とも皮肉なことだと言えるでしょう_φ( ̄ー ̄ )