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【日本人女性捕虜】終戦後もシベリアに抑留され、強制労働を強いられ、さらに...

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シベリア抑留は第二次世界大戦の終戦後、多くの日本人がシベリアをはじめとしたソ連各地やモンゴル人民共和国などのソ連の衛星国へ連行され、長期にわたる抑留生活、厳寒、飢え、感染症の蔓延る過酷な強制労働を強いられた歴史的な人的被害の総称です(⊙_⊙')

男性被害者の方が多いものの、実は1,000人近い女性捕虜が含まれており彼女たちの存在は近年に至るまで、完全に歴史の闇に葬り去られていたのだった...

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終戦間際にソ連が日本に宣戦布告!

舞鶴港から帰還する抑留からの帰還兵

1945年8月9日、終戦を数日後に控えたこの日にソ連は突如として日本へ宣戦布告。

その5日後に、日本は降伏の意思を示すものの、ソ連はそれを意に介さず、155万人もの大群で満州、樺太から北方領土までを占拠し、そこで暮らしていた日本人を軍人・民間人問わずに捕虜にしたのです(⊙_⊙')

当然、この行為はポツダム宣言に反したものでしたが、ドイツとの戦闘で疲弊し、労働不足に陥っていたソ連にとっては復興の手助けとなる捕虜は必要不可欠だったんです。

捕えられた日本人の数は最低でも約57万人、定説では65万人と言われていますが、資料によっては200万人と記載されているものもあることから、正確には把握できていません。

こうして違法に抑留された多くの日本人はシベリアを始めとするソ連勢力圏内70ヶ所の収容所に押し込められて、強制労働を強いられることになったわけです。

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過酷な労働環境で死者が続出した

日本人捕虜過酷な労働に従事させられた

捕虜たちは黒くて不味い固いパンや、わずかに塩味のついたお粥など...

まともな食事を与えられない中で、鉄道建設や炭鉱労働などのキツイ肉体労働を強制されたことで瞬く間に疲弊していきました。

さらに追い討ちをかけるようにシベリアの厳しい冬が襲いかかりますが、捕えられた人々の多くは冬の備えなどしていなかったため、飢えや寒さによって死者が続出したんです(⊙_⊙')

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捕虜たちの帰国

シベリア抑留者が白樺の皮に書いた日誌

日本政府が捕虜の存在を知ったのは1945年の11月と言われていますが、政府はアメリカを介してソ連と交渉を重ね、その結果、1947年から捕虜の帰国が開始され、1956年までに約47万人が祖国の土を踏むことができたのです。

またソ連が作成した名簿によるとシベリア抑留における死者は4万1千人となっていますが、アメリカの歴史研究家ウィリアム・ニンモの独自調査では

  • 死者(25万4千人)
  • 行方不明・推定死亡者(9万3千人)
 
 

で合計で

約34万人の捕虜が命を落とした

と考えられています。

夢にまで見た祖国の土を踏んだ帰国者たちでしたが

収容所でソ連の共産主義教育を施され、洗脳されて共産主義者になったのではないか?

という疑いの眼差しに晒されたことで多くを語ることはありませんでした(⊙_⊙')

その結果、男性だけでなく

女性も捕虜として抑留されていた

という事実が近年に至るまで闇に葬りされていたんです。

女性捕虜たちの多くは看護師

捕虜となった女性たちはこの地(満州・佳木斯)にあった病院で働いていた

捕虜となった日本人女性は

  • 芸者
  • 軍属
  • 日本語教師
  • 憲兵の妻

など、さまざまな職業に就いていましたが、もっとも多かったのは看護師でした(⊙_⊙')

満州・佳木斯(ジャムス)にあった第一軍病院で働いていた彼女たちは、ソ連兵からレ⚫︎プされないように男装や丸刈りにして、いざという時は自決する覚悟で終戦前後を過ごしていましたが、武装解除後にハバロフスクへと連行されます。

当初は薪拾いやジャガイモの運搬など、男性同様の肉体労働に従事させられていましたが、初めての冬が到来し、男性捕虜たちがバタバタ倒れた際には各収容所で看護業務に勤しんだのでした。

戦争によって運命を狂わされた女性捕虜たち

女性捕虜たちの集合写真

女性捕虜の数は佳木斯の看護師だけでも150人で全てを合わせると、ソ連側の資料では367人、あるいは千人近く居たとされています、が...

働き手である男性捕虜の帰国を求める声は日本国内で上がっていましたが、女性に関しての運動は皆無でした(⊙_⊙')

さらに日本政府がソ連に賠償金を要求する際にも女性捕虜の存在は抹消され、恩給は一切支払われていません。

彼女たちは2年半という比較的短い期間で帰国できましたが、男性と同じように『共産主義者ではないのか?』と疑われたり、『ソ連兵と寝たのではないか?』と噂され、抑留時よりも辛い思いをした者が多かったと言います。

なかには仲間を守るためにソ連兵に身を捧げた芸者もおり、彼女は『自分は故郷に帰る資格はない』と思ったのか、そのまま現地に残り、死に際にソ連の大地で『帰りたかった...』と涙したそうです。

このように終戦間際に無理矢理捕えられ、強制労働と風評被害に遭い、賠償さえもしてもらえなかった彼女たちは戦争によって運命を大きく狂わされた最たる人々と言っても過言ではないでしょう...

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