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ザルカウィ逮捕に全てを賭ける男『アブー・ハイサム』

ザルカウィ(YouTubeより)

これはザルカウィがアル=ジャフル刑務所に入る前の話で

1994年3月29日、アブー・ハイサム(ヨルダンの情報機関、総合情報部(GID))の反テロ部門の幹部)は14人の重武装した 情報部員のチームの一員として、ザルカウィが滞在していたアパートを襲撃。

アブー・ハイサムはザルカウィと初めて対面した際に壮絶なバトルを繰り広げており、危うく死者が出そうになった

ザルカウィは自宅からアパートへ移り住み、国外脱出を画策していた

アブー・ハイサムと 同僚たちが建物の裏の路地に集まり襲撃に備えたのは、

その逃亡計画が最後の詰めに入ろうという時期のことでした(⊙_⊙')

情報部員らは終日アパートを監視してザルカウィの帰宅を待ち、さらに消灯後も何時間も待機し続けた。

そして午前1時頃、 家主から手に入れた鍵を使い、家に侵入。

忍び足で階段を上っていった...

奥の部屋で発見した時、ザルカウィは熟睡していた🛌

情報部員らがベッドの足元に忍び寄ってその時!!!

ザルカウィがいきなり起き上がるᕙ(⇀‸↼‶)ᕗ

ザルカウィは、 何かを取り出すかのように枕の下に手を突っ込んだ。

それは『銃』でした🔫

情報部員らはザルカウィの上にのしかかり、なんとかザルカウィの手から銃を奪い取ることが出来た👀

(この時に、銃を奪い取ることが出来なければ死人が出ていたことでしょう🥶)

こうしてザルカウィは拘束され投獄された。

恩赦によって保釈されたザルカウィはパキスタンへ向かう(⊙_⊙')



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訓練のときは終わった...

ザルカウィ(YouTubeより)

1999年12月30日、イスラム過激派の電話を盗聴していたヨルダン捜査当局は、

通話の書き起こしの中に不吉な一節を発見
します(⊙_⊙')

発信元はアフガニスタンの電話で、相手は暗号を使って何らかの指示を与えていると見られ

アラビア語で『訓練のときは終わったと。

これにより総合情報部は直ちに動き出すと、これがとてつもない大事件であることが判明します(⊙_⊙')

ヨルダン、捜査当局はわずか数日で16人を逮捕。

この中には『訓練のときは終わった』と電話を受けたハダル・アブー・ホシャルという男も含まれていた。

さらに容疑者の1人から 重大な事実も聞き出したのです。

それは攻撃予定日(1999年の大晦日)や、その 攻撃計画の合言葉『 まもなく時節到来。 痛い袋が山積みとなるだろう』というもの。

これらの計画は未然に防ぐことが出来ましたが

押収した書類、監視網の拡充(かくじゅう)によってこの計画の加担者と思われる人物たちが特定されていき、容疑者の数は28人にものぼった。

その中でも特にある人物の名前が当局者らを驚かせたのです(⊙_⊙')

ヨルダンのザルカ出身で、本名はアフマド・ファディル・ハライレー

ザルカウィだった...




パキスタンに着いてからのザルカウィの動きとは!?

拘束された韓国人男性(Wikipedia)

ヨルダンを出国したザルカウィはパキスタン西部までたどり着いたが、そこで立ち往生していた。

ザルカウィはペシャワールのアラビア語が通じるモスクで毎日の礼拝に参列するなど、この時点ではやましいことはしてないとされる。

しかし 数週間後、ヨルダンに対する何年ぶりかと言う大規模なテロ計画の相談役として

ザルカウィの名が上がってきた。

(CIAのロバート・リチャーはデスクに届いた報告書の中でザルカウィに注目し

のちに『ザルカウィという名前は初耳だった』と回想しています)

パキスタン入りして6ヶ月後、ザルカウィはビザの期限切れのため国外退去せよとパキスタン当局から告げられ選択を迫られた。

『ヨルダンへ戻るか、あるいは山岳地帯を越えてアフガニスタンへ入るか?』と。

(ヨルダンに戻った場合は、攻撃計画の加担の罪で間違いなく投獄され、アフガニスタンは1989年にザルカウィは戦闘に参加しているものの、この時はザルカウィにとってそれほど魅力的な土地ではなくなっていた)

結局、ザルカウィはアフガニスタンに行くことに決める。


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ザルカウィとウサマ・ビン・ラディン!

ウサマ・ビン・ラディン(Wikipedia)

ザルカウィは2人の友人と共にカンダハールへと進み、 さて彼らを歓迎してくれそうなアラブ人の指令本部へとたどり着いた。

アフガン戦争にも従軍したその人物、それはウサマ・ビン・ラディンだった。

しかしザルカウィはこのかつての聖戦の戦士(ムジャヒディーン)の同志から 歓迎を受けるどころか、無礼にも体よくあしらわれたのでした(⊙_⊙')

アル=カイダの創設者であるビン・ラディンはザルカウィと会おうとせず、 側近の1人をよこしてザルカウィらヨルダン人の3人組を品定めさせた。

(どんな相手が訪問したとしても決して油断しないというビン・ラディンの慎重さが伺える)



ザルカウィを品定めする、サイフ・アル=アデル!

インタビューを受ける、ビン・ラディン(Wikipedia)

ザルカウィは2週間もの間、ゲストハウスに留め置かれて悶々とさせられていた。

そしてようやく、ビン・ラディンは 承久の副官、元エジプト軍将校のサイフ・アル=アデルを会いに寄こしたのです👀

のちにアデルはこの時のことを次のように回想している。

ザルカウィはがっしりした体格の男で、正直のところしゃべるのは下手だった。言いたいことが言葉少なにそのまま口をついて出る。自分の信念については決して妥協しようとしない』と。

ザルカウィがこだわっていた壮大な構想は『再びイスラム社会を打ち立てること』だったようで、そうした社会について独自の頑なイメージを抱いていたのだとアベルは言う。

アデルのザルカウィへの第一印象は決して良く思っていなかったのです👀

そこでアデルはある提案をすることに...

アデルの提案とザルカウィの決断!

ビン・ラーディンとアイマンザワヒリー(Wikipedia)

アデルはこのヨルダン人に独自の訓練キャンプを運営させてみてはどうか?と提案(⊙_⊙')

これは ヨルダンとレバント地域の諸国、さらにイラクとトルコからのイスラム主義の戦闘員志願者に特化したキャンプでアルカイダは立ち上げ資金を提供し、後は一定の距離をとってザルカウィのお手並み拝見という算段でした👀

そしてザルカウィはビン・ラディンに忠誠を誓う必要ことは強要されず、アルカイダのイデオロギーの全てを受け入れる必要もない。

さらに裕福な湾岸諸国のパトロンたちから潤沢な資金が入り、アルカイダ側は『 共通の目的を達成するための全面的なコーディネーションと協力態勢』も提供するというものでした💡

ザルカウィは この提案を2日間検討した末に受け入れることにしたのです〆(・∀・@)

ザルカウィ、キャンプで名司令官となる!?

ザルカウィが関与した自爆テロで崩壊した国連イラク本部

画像:ブラック・フラッグス

ザルカウィが任されたはじめての訓練キャンプには、当初はヨルダンから呼び寄せた一握りの友人たちとその家族しかいなかった(⊙_⊙')

しかしザルカウィは かつての戦友たちや監獄時代のつてをたどって勧誘し、まもなく新たな連中もアフガニスタン西部を目指してやって来た。

ザルカウィの仕事ぶりをチェックしにアデルが立ち寄ったときには、成人男女と子供たちで合計18人

それから2ヶ月、訓練キャンプの人口はシリア人やヨーロッパ人も含め、42人に膨れ上がっていたのですᕙ(⇀‸↼‶)ᕗ

ザルカウィはシーア派のムスリムを嫌悪し、イランの首脳らを背教者だと見ていた👀

それでも隠れ家の持ち主や、人や物資をアフガニスタンとの国境へ密かに運んでくれる何人かのイラン人協力者と手を結ぶことに成功。

また、訓練キャンプのリーダーであるザルカウィは情熱的な司令官に変貌していました。

空き時間には本を読み、コンピューターの基本的な使い方を覚え、喋り方に磨きをかけ、使い慣れたザルカの俗語を止めてコーランの古典的なアラビア語に変えた(⊙_⊙')

入所者の指導については、武器の使い手からイスラム教の歴史や信仰の事まで全てを監督したのです〆(・∀・@)

ザルカウィの粗暴な性格は『アフガン戦争』『投獄』『アフガニスタンでキャンプのリーダーを務めた』ことにより鍛えられていったのです。

そして自信をつけたザルカウィは『自分はリーダーであり、かつ運命の男だと』感じるようになっていったのでした...

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ISISの台頭を防げたかもしれない分岐点に焦点を当て、当時を経験した米国の政策立案者、将官、情報機関職員の視点から、8年にも及ぶイラク戦争をたどる。斬首を正当化するISIS戦闘員との特別インタビューでは、カリフの支配下で送る人生について聞く。

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