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武田信玄は同じ相手に2度負けている!?

武田信玄(Wikipedia)

人気の戦国武将の一人である武田信玄ですが、実は生涯で2度、同じ相手に大惨敗を喫しています_:(´ཀ`」 ∠):

その相手とは北信濃の豪族

村上義清

で、1度目は1548年、武田信玄が28歳の時。

信玄は信濃攻略を決意し、葛尾城に向けて出陣しますが、そこに義清が現れたことで信玄の制圧計画が狂わされてしまいます(⊙_⊙')

両者は小田原で激突し、その戦いは壮絶で両軍が入り乱れての戦闘になり、武田軍は何人もの重臣を失った上、

『信玄自身も傷を負った』

ことで完敗しました(*´Д`*)

信玄VS義清の第2ラウンド!

村上義清の肖像画
画像:戦国ガイド

完敗した戦いから2年後の夏、信玄は再び信州を制圧すべく、戸石城へ進む...

この時、信玄の出陣を知った義清は強大な武田軍を相手に力攻めではなく、籠城作戦を選ぶことに。

武田軍は戸石城近くに陣を張り、9月9日に総攻撃を仕掛ける!!

急勾配の崖を登って城を目指そうとするも、村上勢に石を落とされたりなどで阻まれ、武田軍は苦戦を強いられます。

それから戦果が上がらないまま時間が過ぎ、さらに季節が進むにつれ戦場に山頂から”逆さ霧”が舞い降りてきた。

義清は北信濃特有のこの現象を利用して、一気に武田軍を切り崩しにかかる!!

10月1日、ついに武田軍は退却を余儀なくされ、さらに村上軍の追撃で多くの兵を失うハメに...

しか〜し!!!

この敗戦を教訓に武田信玄は

『無理な戦いを避ける判断力』

を持った戦国最強とも言われる武将に成長したのでした_φ( ̄ー ̄ )

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合戦に化粧して臨んだ武将『今川義元』

今川義元
画像:れきし上の人物.COM

『筋骨隆々のたくまし〜い猛者たちが合戦で命の削り合いをする』

という印象がある戦国時代ですがなんと!?

合戦に化粧をした状態で臨んだ武将がいますw

そうです!!!

今川義元なんです!!!

今川義元は織田信長の奇襲で桶狭間の戦いで討死していますがこれは、進軍中の義元が桶狭間北方の田楽狭間という窪地で休憩を取っていた際に、奇襲を受けたわけです_:(´ཀ`」 ∠):

織田軍の服部小平太に一番槍をつけられた義元は果敢に応戦するものの、続いて毛利新介に首を狙われてしまいます。

義元は新介の指に噛みつき、食いちぎるなどして抵抗しますが、最後には首を取られてしまいます。

一説によると、この時に義元は

お歯黒

をつけていたというんです(⊙_⊙')

義元は『短足で太っていた』と伝えられていますが、そんな見た目のコンプレックスからか、身だしなみにはかなり気をつけていたようです(*´Д`*)

男性の化粧は珍しくなかった!?

邯鄲(かんたん)と呼ばれる男性の能面にはお歯黒が施されている

義元は、普段からお歯黒をつけ、剃り落とした眉の上に墨で丸く点を描く置眉をし、薄化粧も欠かさず施していたようです👀

このように男性がお歯黒や化粧をする習慣は珍しいことではなく、当時の京の公家の男性の間では一般的だったのです。

今川氏は代々伝統的に京好みであったため、義元もその影響を受けて京風の身だしなみを好んだようです(⊙_⊙')

しか〜し!!!

桶狭間で織田軍に奇襲を受けた時は暴風雨だったため今川義元は泥まみれで討伐されるハメに...

せっかくのメイクも台無しになったことは言うまでもありませんw


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合戦には犯罪者も参加していた!?

略奪を行う足軽
画像:weblio辞書

歴史的な有名な合戦では戦国大名は何千、何万という大舞台を編成して戦うわけですが、どの軍構成員の大半は

村々から駆り出されきた百姓たち

でした(⊙_⊙')

戦国時代、大名の居城の周りには城下町があり、武家屋敷がありました。

そこに侍が暮らし、周辺の農村に百姓が暮らしており、いざ出陣!!!

となると、城の周辺に居を構える侍に伝えられ、侍は農村に伝令を出して人員をかき集めることで巨大な部隊が編成されていたのです。

避難民を襲う野盗(大坂夏の陣図屏風)
画像:クラバートの樹

当時の農村は貧しく、農業だけではなかなか食べていけないという状況で、そのため、合戦には百姓だけでなく村のゴロツキ・山賊・海賊も殺到したわけです(*´Д`*)

彼らは戦に出て敵を倒せば食べ物や家財だけでなく、人までも奪うことができたようですが、襲われた村はまさに地獄を味わうことに..

しかし、襲う側はこれが給料代わりになるため、悪党たちにとって戦は願ったり叶ったりの仕事だったのです_φ( ̄ー ̄ )

水軍を率いた16歳の少女がいた!?

鶴姫の像(Wikipedia)

愛媛県今治市に属する大三島では毎年、三島水軍鶴姫まつりが開催され、大勢の観光客で賑わいを見せますが、この祭りの主役こそが、わずか16歳で三島水軍を率いて戦った少女

鶴姫

です♪( ´θ`)ノ

大三島にある大山祇神社(おおやまづみ)は三島大明神とも呼ばれ、古くから瀬戸内の海に暮らす人々の守り神とされてきました。

その神社の大宮司の娘として生まれたのが鶴姫で、武装した軍船が海を行き交う戦国時代に鶴姫の一族も三島水軍の一員として戦っていたのです。

彼女は幼い頃から武芸を叩き込まれ、さらに女性に生まれたことを父から惜しまれるほど

怪力の持ち主💪🤩

だったそうです。

鶴姫が『瀬戸内のジャンヌダルクと呼ばれる理由とは!?

大三島の鶴姫公園に立つ鶴姫(左)
画像:Wikipedia

そんな彼女の力は思わぬところで試されることに(*´Д`*)

中国・九州地方を支配した大名の大内氏の大船団が大三島に襲いかかってきたんですよ。

三島水軍を指揮して戦った兄の討ち死にを知った16歳の鶴姫は、怒り狂って大薙刀を手に敵に立ち向かい、そんな彼女の奮闘で味方の士気は爆上がりし、その結果、三島水軍は見事に敵を追い払うことに成功しちゃいます!

その時の鶴姫は、戦場で自ら

『三嶋明神の生まれ変わりだ!!!』

と叫んで敵を退けたそうです。

その後も鶴姫は活躍を見せましたが、戦いの最中に最愛の人を失い、最後は海に身を投げたと伝わっています(⊙_⊙')

その悲劇的な生涯から鶴姫はいつしか

『瀬戸内のジャンヌダルク』

と呼ばれるようになったのです_φ( ̄ー ̄ )

鎧って何キロぐらいあるの?

室町時代の後期から用いられた鎧は当世具足(とうせいぐそく)と呼ばれるもので、それまでの鎧と比べるとかなり軽量化されましたがそれでも...

30kg

はあったそうです(*´Д`*)

アイスホッケーの選手が身につける

  • ヘルメット
  • プロテクター
  • 脛当て(すねあて)

を全て合わせても10kgほどなので、鎧はかなり重いと言えるでしょう👀

重い鎧を着たまま戦える剣術『介者剣術(介者剣法) 』

画像:谷神館official web site

そんな重〜い甲冑を着た状態で戦う為に戦国時代に生まれ広まったのが

介者剣術(介者剣法)

という剣技でした(⊙_⊙')

これは身を低く構え、腰を落としてジリジリと動く独特のスタイルで、首・脇・股など...

甲冑の繋ぎ目を狙って斬りつけるというものです。

また腰を落とすことで、防御が上半身に集まりがちだった鎧で、下半身もカバーができるというメリットがあるようです👀

また草履を履くようになったのは戦国時代になってからで、それ以前の鎧がさらに重かった時代は裸足で出陣する者も多かったようですw



祈祷で相手を呪う戦があった!?

毛利元就の依頼でかつて呪術を行ったとされる厳島神社
画像:Wikipedia

中国地方の覇権を賭けた毛利元就と尼子晴久・義久親子の戦いでは

呪いの念を送り合う

戦があったという資料が残されていますw

元就は信仰していた厳島神社に依頼して、呪いのワラ人形を作らせて

『尼子氏を呪い殺○祈祷を1週間行わせた』

そうです(*´Д`*)


一方の尼子氏も、元就を呪うべく出雲大社をはじめとした、かなりの数の寺社に

『怨敵退散の祈祷』

を依頼したそうですw

この呪術合戦で効果があったのかは定かではありませんが、最終的に尼子氏が降伏し、元就が中国地方一帯を支配することになりました_φ( ̄ー ̄ )

クリスマス休戦があった!?

ルイス・フロイス像
画像:年表で見る戦国時代

すでにキリスト教の布教が始まっていた戦国時代ですが『クリスマスのために刀を鞘に収めた武士たちがいた』という話が残っています(*´Д`*)

そのエピソードは織田信長とも親交が深かったポルトガル人宣教師ルイス・フロイスによって記された『日本史』に書かれています。

それによると、1566年に松永久秀と三好三人衆は覇権争いの真っ只中で、堺の町には両軍の軍勢が集結していた。

ところが!?

両軍とも

『多数のキリシタンがいた』

ため、彼らはクリスマスになると町中の集会所を借りてミサを行ったというんです(⊙_⊙')

さらにフロイスによると、集まった男たちは両軍合わせて70人以上で、彼らは祝いのために料理を持ち寄り

『敵味方関係なく説教を聞き神聖なミサを執り行った』

とのこと。

両軍ともに位の高い武将に熱心なキリシタンがいたことで、このクリスマス休戦が実現したのです。

が!!!

クリスマスが終わった瞬間に、彼らは再び睨み合ったのは言うまでもありませんw

上杉謙信の強さの秘密とは!?

上杉謙信(Wikipedia)

”越後の龍”と称され、戦国時代きっての名将とされた上杉謙信

謙信は信仰心が篤く、『義』の心を重んじており、天下取りには執着しませんでした👀

また彼の戦は常に秩序を守り、平和を維持するために行われてようですが、謙信の強さは武力だけでなく類いまれな

『軍略的センス』

にもあったのです♪( ´θ`)ノ

それがいかんなく発揮されたのが1561年9月の八幡原の戦い

約12年間に及んだ武田信玄との川中島の戦いの中でも、最も厳しかったこの戦いで、まず策を仕掛けたのは信玄の方でした(⊙_⊙')

山本勘助(Wikipedia)

信玄は軍師・山本勘助の進言によって、上杉軍の裏をかく『啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)』を実行。

この戦法は妻女山に陣取った上杉軍に対して『密かに別働隊(べつどうたい)を向かわせて山から追い落とし、本体が待ち構えて挟み撃ちにする』

というものでした。

が!!!

謙信はこの策略を見抜きます(*´Д`*)

信玄の本陣であった海津城から頻繁に飯を炊く煙が上がるのを山の上から見た謙信は

『夜襲の可能性に気づいた』

のです。

そして夜のうちに上杉軍は密かに下山し、武田軍が待ち構える八幡原に向かい、翌朝に猛攻撃をかけたわけです。

戦略的には謙信に軍配が上がりましたが、武田軍は多くの武将を失いながらも別働隊の到着まで持ちこたえ、その後、形勢逆転し、上杉軍は撤退することになり、結局は勝負がつかなかったんです。

 
しかし、もし謙信が夜襲に気づかなければ、この戦いで上杉軍が大敗していたかも知れませんね_φ( ̄ー ̄ )

<参考文献:戦国の合戦99の謎>

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