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【終戦直後の日本】激動の時代を強く生き抜いた日本国民の姿や出来事を紹介!

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この記事では終戦直後の日本国民の姿や教科書には決して載らない終戦直後の日本で起きたさまざまな出来事を紹介していきたいと思います。

現在は世界中でコロナウイルスが蔓延しており、日本人だけではなく世界中の人々で激動の時代を生きていますが、終戦直後の日本人の姿や出来事を知ることで今を強く生きるための糧になればと思います。

それでは、76年前にタイムスリップしてみましょう〆(・∀・@)

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国民は玉音放送に涙した

玉音放送を聞いて涙する国民たち
画像:終戦直後の日本

1945年8月15日、天皇陛下による『終戦の詔勅(しょうちょく)』が発表され、それまで日本の勝利を信じていた日本国民はこの日、涙した。

当日は水曜日で国民は朝から『昼から天皇陛下から重大な発表がある』と知らされており、人々は街頭や駅、学校、ラジオのある場所に集まり耳を澄ませた。

この放送で『天皇陛下が話した内容が理解できなかった人が多くいた』と言われていますが、これは言葉が難解だったのではなく、受信状況が悪く、ノイズが多かったためです。

実際に天皇陛下の朗読のあと、アナウンサーが内容を何度も繰り返し、その意味についても解説したので電波が良好な状態で聴いた大人たちは日本が戦争に負けたことをすぐに理解したそうです(⊙_⊙')



国民は天皇の声に驚愕した!?

昭和天皇(Wikipedia)

この日、国民はもちろん日本が無条件降伏したことにも衝撃を受けましたがもう1つ驚愕したことがあるんです。

それは”天皇陛下の声”天皇が自分達と同じような声で話したことに驚いたのです👀

戦時中は天皇陛下は神のように崇められており、またそのように教育されていたので人間のような姿で人間の言葉を話すことが信じられなかったのです。

また沖縄でこの放送を聴いたアメリカ兵が日本人捕虜にこの肉声は本物の天皇か?』と尋ねられても誰ひとりとして答えられなかったというエピソードが残っている程です。

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玉音放送の後に特攻が行われた!?

爆撃機『彗星』の前に立つ宇垣司令官
画像:終戦直後の日本

実は玉音放送の後に特攻が行われたという話があるんです(⊙_⊙')

この日(1945年8月15日)の夕方、大分の海軍航空隊基地から11機の戦闘機が飛び立っており、出撃したのは宇垣纏(まとめ)司令官をはじめとする第五航空隊701空の23名の隊員

第五航空隊は九州地方の残存戦力を寄せ集めた部隊で、当初から特攻を目的としていました。

午後4時頃、攻撃の訓示を行うために隊員を招集した宇垣司令官は驚いた様子。

なぜなら彼が命じたのは5機だったのにも関わらず、そこには11機が準備を整えていたからです。

宇垣司令官はそんなに多くの者が行く必要はないと告げますが若い隊員たちは『全員で出撃すると譲らなかった。

そんな彼らに胸を打たれた宇垣司令官は11機で出撃することを決意。

それぞれの機に2人ずつ乗り込み、宇垣司令官の機だけは中津留(なかつる)大尉ともう一人の部下が乗り込んだのです。

一番最初に宇垣司令官が出発し、残る10機がそれに続き、沖縄を目指した...

宇垣司令官が特攻を決めた理由!

椅子の上に乗って最後の訓示を行う宇垣司令官
画像:終戦直後の日本

この特攻を決めたのは宇垣司令官でおそらくですが彼は玉音放送の内容を知っていたと考えられいます(⊙_⊙')

しかし戦争中に多くの仲間を屍を踏み越えてきた宇垣司令官にとって、降伏は受け入れ難く死に場所を求めての特攻だったのです。

一方で部下たちは玉音放送を聞いておらず”終戦したことを知らなかった者が多く居た”と言われています。

結局、この特攻では3機が機体の故障で不時着して5名が助かり、残りの18名は命を落としたと考えられます。(18名の消息は不明のまま)

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マッカーサーの刀狩り!

ダグラス・マッカーサー(Wikipedia)

終戦後、軍部だけでなく、一般国民に対しても所持している武器を引き渡すように命令が出ており、これはマッカーサーの刀狩りと呼ばれています(⊙_⊙')

刀剣が見つかると軍事裁判で処罰されるといった”デマ”が飛び交い、人々はパニックに陥った。

(家宝の日本刀・ヤリなどを差し出す者や、地中深くに埋めてしまうという者までいた)

自軍の船艇に武器を積み込むアメリカ兵の様子。
画像:終戦直後の日本

日本はGHQと交渉して、どうにか美術品に類する刀剣や狩猟に必要な猟銃は除外となり、その他の接収された刀剣の一部はアメリカ兵が個人的な戦利品として持ち帰っていますが大半は海に投棄されたり、農耕具に作り替えられました。


このようにマッカーサーの刀狩りは日本を丸腰にするために徹底的に行われたのでした。

日本兵とアメリカ兵捕虜の立場が大逆転!?

沖に現れたアメリカの軍艦に国旗を振る捕虜たち
画像:終戦直後の日本

終戦を境に日本兵と捕虜の立場は完全に逆転してしまいます。

それまでは横柄な態度をとっていた日本兵でしたが、敗戦後はビクビクしながら過ごさなければならなくなったのです(⊙_⊙')

帰国までの期間、捕虜たちはしばらく収容所暮らしが続きましたが、もう捕われの身ではなくなったため、収容所を自由に出入りできるようになりました。

また街に繰り出した捕虜の中には消防車を奪ったり、日本兵から軍刀を取り上げたりなどの横暴な態度に出るものも多かった。

しかし、多くの日本人はそれらを見て見ぬフリをするしかなかったのです。



松下幸之助は追放を免れた!?

松下幸之助(Wikipedia)

終戦後、GHQによって政治家、有力企業、新聞社が次々と公職追放となるのですが松下電気の社長・松下幸之助も公職追放の指定を受けた1人でした。

なぜ松下幸之助が公職追放の危機に立たされたのか?

それは戦時中に軍からの命令を受けて飛行機を作っていたことで戦争協力者とされたのです(⊙_⊙')

しかし、社長を失ったら会社が再建不可能と労働組合や代理店が協力して嘆願(たんがん)を行い、彼らの行動に心を動かされたGHQは追放の解除という異例の措置に踏み切っています。

これは松下幸之助の人柄によって多くの人々を動かされた結果だと言えるでしょう〆(・∀・@)

路頭に迷う人々で上野駅が凄いことに!

駅で寝泊まりする人々
画像:終戦直後の日本

敗戦国日本に残されたのは焼け野原と化した土地と、全てを失い路頭に迷う人々の姿でした。

  • 食べ物を求めて奔走する人
  • はぐれた身内を探し回る人
  • 親兄弟を失い行くあてもなくさまよう子供たち

その多くが寝泊まりする場所すらなかったのです(⊙_⊙')

東京も空襲で焼け野原となりましたが、浅草神社や上野駅などのいくつかの大きな建物が残っていました。

特に上野駅は地方に買い出しに向かう人たちでごった返していて、さらに駅そのものを住に屋にしていた人たちが相当いた

駅に住めば雨風をしのぐことができ、また人通りが多いので食べ物を恵んでもらうことができるからで、当時の上野駅では常時1000人以上の人が寝泊まりしていたそうです。

警察が取り締まれる状態でなく、シラミをうつされることも恐れたため、警察もあまり近づきたがらなかった。

そのため、駅は無法地帯と化していた可能性があります。

また栄養失調で息絶えた子供を駅員がリアカーで運び出す光景も珍しくはなかったのです..,

服を脱いで食べ物を手に入れる『タケノコ生活』

運河に浮かべたバラックで生活している人も多くいた
画像:終戦直後の日本

寝場所の次に人々が欲したのはやはり食糧で、この時期、人々の暮らしを支えていたのはヤミ物資だった。

ヤミの取引は違法でしたが、そんなのはお構いなく取引は行われ、国からの配給だけでは全く足りずに手持ちのものを食糧に換えていくしかなかったわけです。

そして自分が今着ている服と食糧を交換することもあり、この様がまるでタケノコの皮を剥ぐようなことから『タケノコ生活』という言葉が生まれました(⊙_⊙')

このようなことが終戦直後では当たり前のように行われていたんです👀

大繁盛するヤミ市!

大勢の人で賑わうヤミ市
画像:終戦直後の日本

戦争が終わってから日本は絶望的に食糧が不足

国から配給される食糧はわずかで、その量は成人が1日に必要なカロリーの半分にも満たず、腹を空かせた人々はガリガリに痩せ細り、常に栄養失調状態でした。

しかも1945年、この年は凶作に見舞われていた為、米の生産高が過去最悪で、当時の大蔵大臣が『このままでは翌年には飢餓や病気で1000万人が死ぬだろう』と語ったほど。


困窮した人々は生きるためにとにかく食べ物を探し求めた...

特に食糧不足が深刻だった都市部の人々は着物などのお金になりそうなものをかき集めては超満員の”買い出し列車”に乗り、 農村で金目の物と食料を交換してもらったのです(⊙_⊙')

また、焼け野原になった市街地では焼け残った鍋や釜などの生活用品を見つけては道端に並べて売り始め、こうして終戦から1ヶ月も経たないうちに日本各地の主要都市の空き地に”ヤミ市”が立ち始めたのです。

ヤミ市にはなんでもあった!?

警官とMP(ミリタリーポリス)にヤミ物資の摘発を受ける青年
画像:終戦直後の日本

ヤミ市の”ヤミ”とは政府が統制する『公定価格』の対語のこと👀

戦時中はヤミ物資を売買したことが発覚すると厳しく罰せられたので、人々は秘密裏に物を売買していた。

しかし、敗戦によってタガが外れ、政府によって決められていた物の値段を無視した商売があちこちに現れるようになったのです。

売り手は普通の商人ではなく、都市と農村を行き来して食糧を仕入れて売る復員兵旧日本軍から放出された物資をトタン板に並べて店を開く者もいた。

全てを失った人々はヤミ市のどんな物にも飛びついた。

ふかしたイモ、芋アメ、お湯に醤油をたらしただけの汁、アルコールを水で割って色を付けただけの酒、軍から払い下げられた鉄兜を造り替えた鍋など...

ありとあらゆる物がトタン板の上に並べられたのです。

シラミ退治のために殺虫剤を頭から吹きかけられていた!?

DDTを吹きかけられる浮浪者親子
画像:終戦直後の日本

画像では白衣を着た大人たちが親子に白い粉を吹きかけていますが、実はこれ『DDT』と言われる殺虫剤なんです(⊙_⊙')

(当時、DDTは万能殺虫剤とされ、除草やハエ退治にも使用されていた)

そしてこれはシラミ退治の目的で頭に吹きかけられていたというのです💦

コロモジラミが媒介する発疹チフスが戦前に何度か流行していたのですが、終戦の翌年には東京と大阪でかつてないほどの感染者が発生。

まだ特効薬やワクチンもない時代で、疫病の流行を恐れたGHQが対策として用いたのがDDTでした。

DDTを吹きかけられることで屈辱に感じる人も多かったようですが、その効果は絶大で発疹チフスの流行はピタリとおさまったのです。

新聞掲載禁止を命じられた昭和天皇とマッカーサーの写真!

マッカーサー元帥(左)と昭和天皇(右)
画像:終戦直後の日本

マッカーサーと昭和天皇のツーショット。

1945年9月27日に昭和天皇が初めてアメリカ大使館のマッカーサーのもとを訪れた時に撮影された有名な写真なのですが、この写真が9月29日の新聞各紙に掲載されると国民は二重の衝撃を受けたのです(⊙_⊙')

1つはそれまで神とされてきた天皇陛下の生々しい姿を目にしたこと。

そして2つ目はリラックスした様子のマッカーサーと正装した天皇陛下との対照的な姿に改めて敗戦や占領の現実を突きつけられたことです。

1945年9月29日の朝日新聞
画像:終戦直後の日本

当初、内務省情報局はこの写真を新聞に掲載することは不敬だとして禁止していたのですが、新聞社はアメリカ人記者グループから流出した写真を掲載。

そのため、新聞が発行されると内務情報局は発行禁止するように命じます。

しかしGHQは日本政府が行なってきた情報規制を撤廃せよと指令を出したため、2人の写真を掲載した新聞は全国で発売されることになったのです。

犯罪者となった戦災孤児が多くいた!

タバコを吸う戦災孤児
画像:Yahoo!ニュース

戦争で親や家族を失った戦災孤児は約12万人といわれており、そのうちの3万5千人は引き取り手がなく、住む場所、食べるものもない、ただあてもなく街をさまよう浮浪児となったのです(⊙_⊙')

そしてこの浮浪児の存在は戦後の社会問題の1つで、ヤミ市があった東京・上野には特に多くの浮浪児が溜まっていました。

最初の頃はゴミを漁ったりしていた程度でしたが、やがてスリやかっぱらい、万引きや置き引きなどをはたらくようになり、素行の悪さが問題視されるように...

これらの浮浪児は戦争被害者ですが、行き場を失ったことで今度は加害者となり、彼らが犯罪集団になると世間は危惧した

このような視線を世間が向ければ向けるほど、浮浪児たちは生き死にの瀬戸際に追い込まれ、その結果、不良化が加速していきました。

浮浪児たちに行われた『刈り込み』

上野の地下道で刈り込みを受けた少年たち
画像:終戦直後の日本

やがて浮浪児たちは米軍の食糧庫などにも忍び込むようになり、業を煮やしたGHQは彼らの一掃に着手

GHQの指示を受けた日本の警察は一度に数十人の浮浪児を捕らえる『刈り込み』と呼ばれる作戦を決行したのです。(刈り込みは月に数回行われた)

捕まった浮浪児たちは施設に保護されるも、すぐに脱走する者も多く、施設によっては浮浪児たちに厳しい仕打ちを行うところもありました(⊙_⊙')

1947年に児童福祉法が制定されたため、刈り込みは終息しましたが戦災孤児となって混乱期に翻弄された子供たちが多くいたのは事実でしょう。

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