現在の神奈川県川崎市多摩区東三田にかつて日本陸軍が統轄した『登戸研究所(のぼりとけんきゅうじょ)』という研究所が存在していました(⊙_⊙')
この研究所は太平洋戦争を通じて日本における秘密戦の最前線となっており、偽札、風船爆弾、殺○光線などを製造していたとされています。
また同研究所の全貌は今もなお解明されておらず、非常に謎めいているのですが!?
この記事では先に挙げた当時の研究内容や概要について紹介していくので、ぜひ最後までご覧ください_φ( ̄ー ̄ )
Contents
登戸研究所の存在はウルトラシークレットだった!
1947年にアメリカ軍が撮影した登戸研究所跡の写真
登戸研究所の正式名称は『第九陸軍技術研究所』で、その存在は戦前日本ではウルトラシークレットだったんです(⊙_⊙')
ココで研究・開発していたのは秘密戦兵器や資料なのですが、秘密戦兵器とは謀略・諜報・宣伝などのスパイ戦のことで、当然、これらの研究・開発内容を他に知られてはいけないので正式名称ではなく『登戸研究所』という秘匿名で呼ばれていたわけです。
また登戸研究所はアジア太平洋戦争における中核を担っており、軍から特別重要視されていましたが、敗戦と同時に閉鎖されています。
その後、1950年代に明治大学が研究所跡地の一部を購入して、同大学の生田キャンパスが建てられますがキャンパス内には
『明治大学平和教育登戸研究所資料館』
が設けられており、かつてこの地に秘密戦研究所が存在したことが後世に伝えられています_φ( ̄ー ̄ )
登戸研究所の歴史と研究内容
1935年に昭和天皇が陸軍科学研究所を行幸する
大正8年(1919年)に登戸研究所の前身となる『陸軍科学研究所』が発足し、昭和10年(1935年)11月には※昭和天皇行幸の栄に浴します(⊙_⊙')
翌昭和11年11月、日本はヒトラー政権下のナチスドイツ、ムッソリーニ政権下のイタリアと『日独伊防協定』を結び、この翌年6月〜12月にかけて陸軍科学研究所は作業移転を開始。
昭和14年には『陸軍科学研究所登戸主張所』と改名され、この時期から通称『登戸研究所』と呼ばれるようになります。
登戸研究所で考案された風船爆弾で実際にアメリカ本土を攻撃することに成功した。
- 昭和16年6月・・・正式名称を『陸軍技術本部第九研究所』に改称
- 昭和17年4月・・・登戸研究所の指揮命令系統が陸軍参謀本部に直結する
- 同年10月・・・正式名称を『第九陸軍技術研究所』と改称
- 昭和18年4月・・・登戸研究所の所長と所員数名が陸軍技術有功賞を受賞
- 同年11月・・・風船爆弾の試作品が完成する
- 昭和19年2月・・・登戸研究所が千葉県一宮海岸で風船爆弾の実験を開始し、さらに同年、風船爆弾によるアメリカ本土攻撃を開始
- 同年9月・・・登戸研究所の地方疎開が決定
ちなみにですが、登戸研究所の研究費は陸軍の所有する計10ヶ所の技術研究所全体の約18%(約650万円)を占めており、陸軍がいかに登戸研究所に戦局打開の期待をしていたかが窺い知れます(⊙_⊙')
しかし...
1945年8月に日本が無条件降伏を決定し、戦争終結が確実になると、陸軍中央の命令によって
登戸研究所は証拠を隠滅。
玉音放送後、長野県で解散式を行い、同年10月、アメリカ軍によって研究所は接収されることに...
登戸研究所は陸軍中野学校とも関係あり!?
陸軍中野学校二俣分校
引用:Yahoo! JAPANニュース
登戸研究所の敷地は11万坪にあり、陸軍の技術将校・技師・一般職員など総勢1,000人が働いていました(⊙_⊙')
また研究所は
- 総務科
- 第1科
- 第2科
- 第3科
- 第4科
の計5課によって成り立っており、各科の業務内容は↓のようなものでした。
- 総務科・・・研究・運営に関する総務全般
- 第1科・・・風船爆弾(ふ号)・怪力光線(く号)・謀者用無線通信機・宣伝用自動車(せ号)・電話盗聴器などの物理関係全般
- 第2科・・・秘密インキ・秘密カメラ・毒薬・細菌・特殊爆弾・時限信管などの化学全般
- 第3科・・・経済謀略資料・偽造紙幣・印刷関係資料の調査研究・製造・偽造書類・偽造パスポート・各種証明証の偽造などの印刷関係全廃
- 第4科・・・第1、第2科が研究開発した器材を実用化するための最終実験と製造工場の管理及び陸軍中野学校の指導。
第4科の業務内容にある陸軍中野学校は
陸軍のスパイ養成機関
で、諜報・防諜・宣伝など秘密戦に従事する人材を育成していましたが、第4科ではその指導も業務の1つだったことから深い関係にあったのです。
小野田寛郎少尉
ちなみにですが戦争終結後、30年間に渡ってフィリピン・ルバング島に潜伏し続けた小野田寛郎少尉が、ゲリラ戦のエキスパートを育成する陸軍中野学校二俣分校の出身であったことは広く知られています_φ( ̄ー ̄ )
風船爆弾の素材は和紙とこんにゃくだった!?
アッツ島近辺で撃墜される風船爆弾
登戸研究所では様々な秘密戦兵器が開発されましたが!?
その中でも筆頭と言えるのはやはり
風船爆弾
でしょう(ΦωΦ)フフフ・・
風船爆弾は文字通り風船に爆弾を吊るし気流の力を利用してアメリカ本土まで飛ばして爆発させる兵器ですが、昭和19年(1944年)〜翌年にかけて千葉県や茨城県などの東関東の海岸線から9300発以上飛ばし、その内1000発以上はアメリカ本土まで届いています。
(オレゴン州では風船爆弾によって6人が死傷しており、日本が唯一成功したアメリカ本土空爆)
ネバダ州ニクソンで発見された風船爆弾。
この風船爆弾の研究開発に携わったのが登戸研究所第1科で、戦争末期に研究所敷地内では巨大なクラゲのような物体が空中を浮揚する光景が見られたそうですが、これは風船爆弾の実験最中だったのでしょう(*´Д`*)
風船爆弾の素材として使用された和紙(実物)
風船爆弾という名称から
とイメージしやすいですが、実際は見た目とは裏腹に単純な兵器ではなく、当時としては極めて高い技術が結集されていた兵器なんです。
風船爆弾の素材ですが『風船=ゴム』をイメージすると思います。
が!!!
ゴムで日本から9000km離れたアメリカ本土まで飛ばそうとすると、本体内の水素ガスが漏れてしまい、途中で墜落してしまうため飛距離的に無理ゲーなんですw
そこで研究員が採用したのが和紙をこんにゃく製の糊で貼りつけて、水素ガスを本体内部に注入するという案でした。
夜間飛行の対処
こんにゃく製の糊を和紙に貼りつけたことで飛距離の問題はクリアしたものの、まだ懸念点がないわけではありませんでした(⊙_⊙')
それは夜間飛行で日本からアメリカ本土まで必要とする日数は2昼夜半(60時間)で、昼間は気温上昇によって問題なく飛行できるものの、夜は気温低下によって飛行高度が下がってしまい、そのまま高度が下がり続けば海の藻屑になることは必至...
そこで対応策に採られたのが
飛行高度を自動的に維持するシステムの装備
なんです💪🤩
具体的には『砂袋を複数個ぶら下げておき気圧が一定以上下がると砂袋が自動的に落下し気球を浮上させる』という装置で、今でいうところの自動制御装置システムに相当するでしょう。
未完成の兵器・怪力光線(殺人光線)
紫外線による殺人光線のメモ
引用:探検コム
登戸研究所第1科は風船爆弾だけではなく
怪力光線の研究
も行っていたんです(⊙_⊙')
この怪力光線について陸軍の兵器行政本部の資料には
『超短波ノ強力発振集勢』
と記されており、現代での意味は
超短波を使用した強力な電波により対象物を破壊する研究になるだろう
となりますが、今日の
殺人光線
の名で知られています。
この怪力光線はマウイ島や能登で使用されたと噂されているDEW (指向性エネルギー兵器)の一種で、別名『く号』と呼ばれているのですが、これは戦前『怪』を『くわい』と発音したことに由来しています。
陸軍の照射灯の様子
引用:探検コム
怪力光線の研究は登戸研究所の前身である陸軍科学研究所が秘密兵器として研究しており、それを第1科が引き継いで研究していたのですが、実用化には程遠く、未完成のまま敗戦を迎えています。
- レーザー兵器(ち号)
- 熱線を利用した『ね号兵器』
- 万年筆型の毒物注入器
- 缶詰爆弾
- 傘型火炎放射器
第3科の偽造紙幣製作
日本陸軍が作ったニセ札
引用:NHK
第3科では偽造紙幣製作を大々的に行っており、特に昭和17年(1942年)には、陸軍が香港の紙幣印刷工場を掌握したのを機に、類のない規模で実施されました(*´Д`*)
これは日中戦争で交戦中の中国市場に膨大な偽札を流通させることで経済的混乱を誘発させ、中国側を経済的に疲弊させる作戦だったのです。
が!!!
この作戦は大失敗に終わりますw
というのも偽札があまりにも精巧過ぎたため
誰ひとりとして偽札と気づかず
そのまま流通し続けてしまったからですw
登戸研究所の謎
このように登戸研究所は秘密線の最前線となったのにも関わらず、なぜか軍事裁判で研究所の技術将校たちは
誰ひとりとして戦争犯罪に問われていない
んです(*´Д`*)
そればかりか戦後、登戸研究所のメンバーがアメリカ軍で働いていた事例は少なくないため、司法取引が行われた可能性があるでしょう。
実際、中国人をマルタと呼び、人体実験を行っていた731部隊は全ての資料・データを引き渡すことを条件に隊員全員の罪が免除されているからです。
そして実はもう1つ謎めいたことがあるんですよ(⊙_⊙')
それは東京大空襲の際、
登戸研究所は空爆されていなかった
ということです。
大空襲によって焦土と化した東京
東京大空襲における損害家屋は約85万戸以上という甚大な被害をもたらしており、偶然、空爆されなかったとは考えにくく、『戦争の最中にアメリカとなんらかの取引があったのではないか?』と個人的には思っています。
登戸研究所は今もなお全貌が不明な点が多いですが、全てが不問にされたことだけは紛れもない事実なのです_φ( ̄ー ̄ )