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マンハッタン計画に携わる天才科学者たち!
1942年9月、46歳のレズリー・グローブス准将が原子爆弾プロジェクトの責任者に任命。
彼はニューヨーク州ウェストポイントの陸軍士官学校を卒業後にアメリカ陸軍司令部・参謀本部および陸軍大学校を経て、陸軍マンハッタン工兵管区司令官となった人物です(⊙_⊙')
(原爆開発が『マンハッタン計画』と呼ばれるようになった理由は最初の総司令部がマンハッタンに設置されたから)
グローブスはカリフォルニア工科大学教授であったロバート・オッペンハイマー(当時38歳)を抜擢。
その理由はオッペンハイマーが優秀な原子核物理学者であったこと、そして気難しい天才科学者たちを、まとめることができると見込んだためでした。
彼らが新たな研究所を設置する場所として選んだのはニューメキシコ州ロスアラモスで、ちょうどそこには『ロスアラモス牧場学校』があったので、陸軍は牧場学校と周辺一帯の土地すべてを買い取り、研究所と居住区の建設を急ピッチで進めます。
『ロスアラモス国立研究所』の初代所長になったオッペンハイマーは、アメリカ各地の大学や研究機関からトップクラスの数学者・物理学者を集め、その結果...
- エドワード・テラー(ジョージワシントン大学)
- ハンス・ベーテ(コーネル大学)
- リチャード・ファインマン(カリフォルニア工科大学)
といった天才科学者たちが極秘任務に携わるようになったわけです_φ( ̄ー ̄ )
プロジェクトXとプロジェクトY
『マンハッタン計画』はテネシー州オークリッジの精製工場で原材料となるウランやプルトニウムを精製する『プロジェクトX』とロスアラモス研究所で原子爆弾を設計し製造する『プロジェクトY』という2本の主軸で進められていて、『X』と『Y』は機密保持のための暗号名でした(⊙_⊙')
ノイマンはすでに複数の政府機関に関係していたので、ロスアラモス研究所にだけ居るわけにはいかなかったのですが、『爆発研究所の第一人者』が参加しないと原爆の完成はあり得ない。
なのでノイマンだけはロスアラモスに定住せずに出入り自由の特別待遇で任命されたのです。
ロスアラモス国立研究所顧問ジョン・フォン・ノイマン
ロスアラモス国立研究所顧問としてノイマンが中心になって推し進めたのが『爆縮型』原爆の設計です。
これはノイマンが発見した重要な理論の1つで、原爆の威力を最大限にするには、落下後に爆発させるのではなく、上空でプルトニウムに着火させる必要がありました(⊙_⊙')
そこでノイマンたちが考えたのは臨界点に達していないプルトニウムの周囲に32面体型に爆薬を配置し、一定の高度で爆薬に点火し、その爆発の衝撃でプルトニウムを臨界量に転化させるというもの。
彼らはこの一連のプロセスを正確に制御するために複雑な数値計算を半年かけて行い、その設計は1944年末に完成。
またハンス・ベーテはノイマンについて
と述べています。
また別の研究員は
という証言もあるようです_φ( ̄ー ̄ )
夜中に目を覚ましたノイマンが喋った内容とは!?
1945年の春のこと。
昼前にロスアラモスからプリンストンの自宅に戻ったノイマンはベッドに直行し、12時間も眠り続けたのです👀
大学の頃からノイマンの睡眠時間は常に4時間だったので、一気に3日分の睡眠を取ったことになります。
妻のクララが何よりも心配したのは彼が食事を3回も飛ばしたことで、美食家のノイマンが食事を取らずに眠り続けるのは初めてのことでした。
そして夜中に目を覚ましたノイマンは異様な早口で
と喋ったのです(⊙_⊙')
これはちょうどノイマンの担当する『爆縮』設計が完了した頃の出来事で、ノイマンは原爆が完成し、それが使用されることで何が起こるのかを予見し、自らの行動を正当化しようとしていたのかもしれません(⊙_⊙')
世界初の大型コンピュータ『ENIAC (エニアック)』
アメリカのコンピュータ開発は陸軍が中心になって進めていたのですが、アナログの『微分解析機』では1発の弾道を計算するのに丸一日かかっていました(⊙_⊙')
そこでノイマンが陸軍を説得してコンピュータの開発を急がせたわけです。
陸軍コンピュータ開発プロジェクトを指揮したのは、ミシガン大学講師から陸軍に志願した数学者ハーマン・ゴールドスタイン中尉で、彼の下で工学者のジョン・エッカートとジョン・モークリーが設計したのが
ENIAC
というコンピュータでした。
2人は陸軍からの資金援助を受けて、ペンシルベニア大学電子工学科で研究開発を進め、1944年8月に『ENIAC』の試作品を完成させた。
この試作品は1秒間に300回の計算が可能でしたが、膨大な数の真空管は毎秒10万回のパルスを発し、1本の真空管の1回のパルスが誤作動を起こすだけで装置全体がダウンしてしまうという状態だったため、ゴールドスタイン中尉は改善する方法が分からずに悩んでいたのです。
ある日、彼はアバディーン駅でフィラデルフィア行きの電車を待っていると!?
なんとそのプラットホームに同じ列車に乗るノイマンが現れたのです♪( ´θ`)ノ
その時のことをゴールドスタインはこのように語っています。
ゴールドスタインはぜひ実物を見てほしいと言ったため、ノイマンはペンシルベニア大学に『ENIAC』を見に行くことに。
その話を聞いたエッカートは
とゴールドスタインに念を押しました👀
8月7日『ENIAC』を見たノイマンの最初の質問は当然のように
『機械の論理構造』
でしたw
続けてノイマンはエッカートとゴールドスタインを質問攻めして、さまざまな改良点をアドバイスしたのです。
その甲斐あって『ENIAC』の計算速度は毎秒5000回にまで向上し、それを見たノイマンは
と言ったそうですwww
ノイマン型コンピュータの誕生!
1944年の夏から秋にかけて原爆設計の最終段階に差し掛かっていたこともあり、責任者のノイマンは超多忙な日々を過ごしており、彼の自由時間はプリンストンとロスアラモスを往復する電車の中だけでした(⊙_⊙')
そこでノイマンはコンピュータの『論理構造』を考え続けて、手書きのメモを何枚も書き、そのメモを受け取ったゴールドスタインは101ページのタイプ原稿にまとめた。
そこで描かれているのはハードウェアとソフトウェアを分離した、人類史上かつて存在したことのない、まったく新しい機械の定式化で、その後、この定式化がバイブルとなって、世界中に『ノイマン型』コンピュータが誕生することになりました(☝︎ ՞ਊ ՞)☝︎
EDVAC(エドバック)
『EDVAC』は『ENIAC』の後継機として開発されたコンピュータのことで、ここでノイマンは入力→中央処理装置→出力→という現在のコンピュータの根本となる『ノイマン型アーキテクチャー』を設計。
中央処理装置は
- 制御装置
- 算術論理演算装置
- 記憶装置
によって構成されるのですが、ここで重要なのが!?
『プログラム内蔵方式』
になっている点です💡
かつて人類史上に存在した機械のほとんどは各々が特定の目的を果たすために制作されてきました✅
例えば
- 時間を示す『時計』
- 写真を撮る『カメラ』
- 計算をする『計算機』
など。
それに対して『スマートフォン』には電話としての機能の他にメール・時計・計算機・カメラ・カレンダー・ゲームなどの数多くのソフトが組み込まれており、タップするだけで1台の機械がさまざまな目的を果たす機械へと早変わりします。
つまり同じハードを使いながら、ソフト(プログラム)を変換すれば多目的に対応できるようになるわけです。
この『プログラム内蔵方式』の概念を明確に定式化した人物こそノイマンなのです_φ( ̄ー ̄ )
ノイマンの癖はスカートの中を覗くことだった!?
ノイマンはさまざまな機関で仕事をしていたわけですが、どの職場でも秘書のスカートの中を覗き込むという『癖』があったそうですw
そのため、机の前を段ボールで目張りする秘書もいたようで、彼の助手を務めたスタ二スワフ・ウラムによればノイマンはスカートを履いた女性が通ると、放心したような表情でその姿を振り返って見つめるというのが彼独自のクセだったと述べています🥺
物理学者クラウス・フックスはスパイだった!?
1949年8月にソ連がセミパラチンスク核実験場で核実験に成功したというニュースが世界を驚愕させたのですが、なぜソ連はアメリカの軍部の予想より10年も早く成功できたのか?
実はソ連は『マンハッタン計画』のように0から原爆を開発する必要はなく、その出来上がりの情報だけを入手すればよかったのです(⊙_⊙')
1950年1月27日、アメリカの原爆情報をソ連に流していた物理学者クラウス・フックスがイギリスで逮捕された...
フックスは1943年にアメリカに渡り、コロンビア大学研究員として『爆縮』を理論化し、そこで『マンハッタン計画』に関わるようになり、翌年にはロスアラモスに移住し、ハンス・ベーテの下で原爆開発の中枢に関わる任務に就く。
フックスは無口でしたが陽気な性格で周囲からの評判は良く、ロスアラモスで人気者でした。
原爆製造が完了した後、ロスアラモス国立研究所では、特殊技術に関連して、将来の特許取得が見込まれるあらゆる発明の詳細を『発明開示書』と呼ばれる機密書類にリストアップしていた。
しかし、この書類を作成するには原爆製造に関連する主要分野に精通し、発明の内容を精密に分析できる人物が必要でした。
そしてその執筆者として選ばれたのがノイマンとフックスだったのです。
つまりフックスは多くの研究者と共に原爆を製造し、その過程で生じた多くの発明の詳細をノイマンと一緒に話し合い、共著書類をまとめた人物。
そのフックスが実はソ連のスパイだったのです。
この事件がノイマンにどれほどのショックを与えたのかについて書かれた文献は見当たりませんが、後にノイマンがソ連を憎むようになった大きな要因になったのかもしれません。
多くの天才が反対した水爆開発!しかしノイマンは...
1950年1月31日、合衆国大統領のハリー・トルーマン大統領は
とフックスが逮捕された数日後に発表されました(⊙_⊙')
フックス事件以前は、原爆でソ連に対して先制攻撃を仕掛ければ、ソ連の指導者が戦争の勃発にさえ気付かないうちに
ことができると考えられていましたが、アメリカの原爆の最高機密情報がソ連に漏洩した以上、ソ連も相当数の原爆を保有している可能性があり、アメリカが仕掛ければ、ソ連もすぐに報復するだろう...
このように考えたトルーマン大統領は『水素爆弾』の開発を命じたわけです。
1943年に『核融合』爆弾のアイディアをロスアラモス国立研究所で最初に主張したのは、後に”水爆の父”と呼ばれるようになるエドワード・テラーでした。
しかし、多くの科学者たちは『核融合』を生じさせる超高温・超高密度状態を作り出すことは不可能だろうと考えていたため、テラーを相手にしなかったんです👀
特にオッペンハイマーは道徳的な観点から水爆開発に猛反対し
と強く非難したのです。
またアインシュタインは水爆が使用された場合
と述べています。
その他にもエンリコ・フェルミやハンス・ベーテなどの原爆開発に関わった科学者たちも水爆開発には批判的でした。
このように多くの科学者が水爆開発に否定的でしたが、ノイマンは水爆開発は一貫して推進すべきであると考えていました(⊙_⊙')
ノイマンは水爆開発について
と述べており、さらに道徳的批判に対しても
と平然と述べているのです。
これはノイマンが原爆開発の時に夜中に突如起きて早口で喋った『科学者として科学的に可能だとわかっていることは、やり遂げなければならない。それがどんなに恐ろしいことだとしても』から見ても分かるように科学者としてのノイマンは悪の化身とも言えるような恐ろしい思想を持っていたのです。
ジョン・フォン・ノイマンの死
1955年7月9日、ノイマンは左肩の強烈な痛みによって突然倒れる...
診察の結果、左肩鎖骨に腫瘍が発見され、それは別の部分で発症したガンが血液の循環によって骨に転移したものとわかったのですが、ノイマンが癌になったのは何度か立ち会った核実験で浴びた放射線が原因だと言われています(⊙_⊙')
緊急手術を受けた後も、ノイマンは痛みに耐えながら仕事を続け、時には救急車で原子力委員会に出席することもあったのです。
同年12月12日、全米計画協会で行った講演がノイマンの最後のスピーチとなり、そこで彼は
と未来を予見して発言しています👀
1956年1月にはノイマンは自力で立つことが出来なくなり、2月に『合衆国自由勲章』を授与された際には車椅子で授賞式に出席。
アイゼンハワー大統領はノイマンの襟に勲章を付けながら
と言った。
全身に癌が転移したノイマンはワシントンのウォルター・リード陸軍病院に入院しますが彼の病室は大統領の病室と同じ病棟にある特別室でした。
臨終が近づくと、鎮静剤によって譫言(うわごと)を言うようになったため、軍の機密を口走らないように監視が付き
1957年2月8日にジョン・フォン・ノイマン逝去
ノイマンの箱とエドワード・テラーの予言
ノイマンの死後に
と書かれた謎の箱が見つかるんです(⊙_⊙')
この『ノイマンの箱』の中には何が入っているのか?
関係者の間で長年、大きな話題になっていたのですが、2007年にノイマンの死から50年経ったため、マリーナがついに箱を開けると!?
中身はクララと彼女の前夫に関連した無価値な書類ばかりが入っていました_:(´ཀ`」 ∠):
これはあくまでも噂ですがニコラ・テスラ同様にCIAなどが箱の中身をすり替えたのでは!?
という説もあるようです👀
またエドワード・テラーは
と述べています。
またノイマンと共に原爆を開発したベーテは
と本気で考えたことが何度もあったそうです_φ( ̄ー ̄ )
<参考文献:フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔>