イギリスの解剖医&外科医だったジョン・ハンターは『実験医学の父』『近代医学の開祖』と呼ばれ、近代医学に大きく貢献した一方、解剖教室で使用する死○を非合法な手段で手に入れてるという裏の顔も持ち合わせてました(⊙_⊙')
そんなジョン・ハンターですが、生涯の中で自らの体を使って人体実験を行なっており、あわや命を落としかけたことがあるんです。
この記事では彼の生涯と共に彼のマッドサイエンティストぶりを窺い知れる逸話を紹介してきます(ΦωΦ)フフフ・・
Contents
ジョン・ハンターと兄ウィリアム
ジョン・ハンターの肖像画
18世紀頃の医者と言えば、医学に精通した内科医かノコギリで人体を切○刻む外科医のどちらかでしたが、いずれも古来以来の言い伝えや俗説を本気で信じていました。
そのため医学研究や医療水準は数百年間ほぼ向上していなかったのです。
そんな中、ハレー彗星の如く現れたのがジョン・ハンターでした。
若い頃の彼は学校での勉強には興味を持たず、また読み書きを嫌い、屋外で虫や動物を追いかけるようなことを好んでいましたが、この男が外科を商売から科学へと昇華させることになるのです。
1947年、ジョンは兄・ウィリアムを追ってロンドンに出てきます。
ウィリアムは外科医になるために修行を重ねていたものの、時折、血を見て気絶することがあったため、内科医兼産科医に転身しようとしていました。
ウィリアムは解剖講座を開いていたのですが、そこで使用する研修用の死○の調達をジョンは任せられます。
また解剖講座の助手にも器用され、弁はウィリアムに及ばないものの、標本作成や解剖の実践では兄を凌駕するようになり、のちに監督を任せられるまでになります。
その後、ジョンは2人の有名外科医の元で短期間見習いを務めたのちに聖ジョージ病院で外科医としてのキャリアをスタートさせることに。
ジョン・ハンターの夜間講座
聖ジョージ病院は『援助が必要な貧困者』の治療のために設立された病院でしたが、それと同時に『不平を言わない貧者』を
実験台にすることを容認していた
のです(*´Д`*)
ジョンは午前中は治療費の払える患者を往診し、午後は貧しい患者を無料で治療していましたが、やがて、彼の元には他の外科医の患者全員よりも多い貧しい人々が治療を求めて訪れるようになります。
彼は
と考えていましたが、ベテラン外科医たちは聞く耳を持たず....
そこでジョンは自宅で夜間講座を開くことにし、やがて彼の講義にはロンドン中の若い医師が集まり、多大な影響を与えることになります。
講座は大盛況でしたが、ある晩、学生が1人しか来なかった時がありました。
すると!?
彼は骨格標本を持ってきて、いつも通り
と呼びかけて講座を開始したのです。
兄・ウィリアムが医学校を創立
やがて兄・ウイリアムはロンドンのグレートウィンドミルストリートに私立の医学校を創立しますが、その目的は他の医学校で無視されていた実践的な解剖技術を教えることでした(⊙_⊙')
今では考えられませんが、この当時の医学校試験は通常、口頭試問のみで、外科医になるための講座ですら、実技試験は一切ありませんでした。
つまり『初めてメスを入れたのは生きている患者』という外科医がいてもおかしくなく、これは患者にとっては恐怖しかないですよねw
このことからジョンとウィリアムは
『外科医の訓練は生きた患者ではなく、解剖用の死○で行うべき』
だと考えていたのです。
またジョンは学生たちに
と教えていました。
ハンター兄弟の医学校では学生1人につき、一体の解剖練習用遺○が与えられることになっていたため、多くの遺○が必要で、またその遺○は鮮度が高くなければなりませんでした(*´Д`*)
遺○調達を任されたジョン・ハンター
タイバーン・トゥリー(タイバーン刑場)
多くの遺○が必要なため、その調達をジョンが任されます。
1752年に『殺○法』が改正されたことで、処刑された殺○犯の遺○を医師が請求することが認められるようになったことで、多くの外科医がタイバーン刑場の絞首台に群がるようになります。
ちなみにですが、処○後はまだ温かいうちに死○を下さなければならず、また死○の取り合いから争いに発展することもあり、なかには激しく取り合いしている最中に死○が蘇生したケースがあったそうです。
またこの殺○法は医療の発展のためではなく、犯罪者の処罰目的で定められたもので、麻酔がない当時、意識ある状態で体を切○刻まれることは死以上の恐怖だったのです。
死○盗掘者と付き合うようになったジョン・ハンター
夜警に見つかり逃げ出すジョン・ハンターの様を描いた風刺画
生きた人間の中で解剖されたいという人は当然いなかったため、ジョン・ハンターは死○盗掘者と付き合うようになります(⊙_⊙')
死○盗掘者は亡くなったばかりの人を墓から盗み出す犯罪者のことで、死○はクライアントの注文に応じて、カゴや樽に詰め込まれてイギリスのどこへでも運ばれましたが実は当時のイギリスでは墓の盗掘は犯罪行為ではなかったのです。
(法律上は所有物ではなかったため、窃盗罪の対象にならなかったが、死○を覆う衣類などは所有物と見なされたため、盗掘者たちはそれらには手をつけずに柩の中に残していた)
このような行為が平然と行われていた為、民衆が解剖医を糾弾する騒動へと発展したのです。
死○調達を依頼したロバート・ノックスと殺○を犯したバーク&ヘア
ロバート・ノックス
死○を手にいれる手段が墓泥棒の方が遥かにマシと思える事件も発生しています(⊙_⊙')
19世紀初期に活動していたイギリス人医師、ロバート・ノックスはスコットランドで解剖学校を運営しており、生徒数は多い時で500人ほどでした。
やはり生徒1人に対して1体の死○が必要でしたが、それだけの数を揃えるのは通常のやり方では不可能だったため、彼もまた死○調達人に依頼して手に入れていたのですが...
ウィリアム・ヘア(左)とウィリアム・バーク(右)
1827年〜1828年にかけて17人が犠牲となったウィリアム・ヘアとウィリアム・バークによる連続殺○事件(バークとヘア連続殺○事件)が発生するのですがなんと!?
犯人らの殺○動機は
ロバート・ノックスに死○を売るため
で実際、ノックスは彼らから遺○を受け取っていたことが明るみになりますが、ノックスは
と訴え、結局、起訴は免れます。
しかし、事件との関与が疑われたことで学校は追われるハメになり、1862年にこの世を去っています。
ジョン・ハンターの奇妙なコレクション
『アイルランドの巨人』と呼ばれたチャールズ・バーン(真ん中)
ハンター兄弟は臓器や骨格の標本をコレクションしており、最終的に標本数は13,500に達しました(⊙_⊙')
(当時の解剖学者はハンター兄弟だけでなく、珍しい個体や奇形の標本を収集するコレクターが多かった)
ジョンのコレクションの中にはチャールズ・バーンという1780年代にロンドンで注目を集めたアイルランド出身の巨人症の人物の骨格標本も含まれています。
チャールズ・バーンは身長が2m40cmもあり、またアイルランドの出身であることから『アイルランドの巨人』と呼ばれていましたが、そんな彼は死に際に
と葬儀屋に頼み込んで約束させました。
が!!!
ジョンは5百ポンドで葬儀屋を買収し、巨人症の骨格標本を手に入れたのです。
チャールズ・バーンの骨格標本(ハンテリアン博物館)
現在、チャールズ・バーンの骨格標本は彼の意志に反してハンテリアン博物館に陳列されていますが、せめて安らかに眠って欲しいと願うばかりです。
『ジキルとハイド氏』のモデルになったジョンの邸宅
リチャード・マンスフィールド扮するジキルがハイドに変身する場面。
解剖医として成功を収めたジョンはレスター・スクエアに引っ越しをしますが、この新居は2軒の家を繋いだ変わった構造になっており、そのため標本室と解剖室は充分なスペースを確保することができました(⊙_⊙')
ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『ジキルとハイド氏』にはジキル博士はロンドンの家を
『有名な外科医の遺産相続人から買い取った』
というくだりがあることからジョン・ハンターの邸宅がジキル博士の邸宅のモデルと言われています(ΦωΦ)フフフ・・
ウィリアム・ブロディーの人形
ちなみにですがジキル博士は18世紀半ばのエジンバラの市議会議員で、石工ギルドの組合長をしていたウィリアム・ブロディーがモデルとされており、プロディは昼間は実業家、夜は盗賊として18年に渡り数十件の盗みを働き、またスコットランド間接税務局本部の襲撃計画が露見したことで1788年に処○されています。
ジョン・ハンターが開発した新たな治療法で患者は切断を免れるように
脳外科手術で使用されていた当時の手術器具
当時の外科医は体の悪い部分=切断するというのが一般的でしたが、ジョン・ハンターは類稀な技術と深い知識によって新たな治療法を考え出したんです(ΦωΦ)フフフ・・
動脈瘤は血管が血液によって誇張し破裂する恐ろしい病気の1つですが、ジョンは下肢の背部に大動脈瘤ができた患者の手術をした際に、病変部分の※結紮(けっさつ)を行なったのです。
ジョンは結紮することで
考え、その結果、患者は足を切断せずに済んだのです。
(ジョンはこの手術の前に同じような外科手術を動物で行って、効果を確かめていた)
この患者は手術の1年後に熱病で亡くなってしまいますが、ジョンはこの患者の遺○を買い取ると脚の血管を再検査し、自分の推測が正しかったことを確認しています。
ジョン・ハンターの歯牙移植は失敗だった!?
またジョンは人工授精の研究も行っており、通常の性行為を行えない夫婦に対して妊娠する方法を教え、見事妊娠させることに成功しています。
さらに動物を使った臓器移植にも成功していることから臓器移植のパイオニアとも言えます。
そんな彼も全部が全部成功したわけではないんです(*´Д`*)
当時の総入れ歯は象牙で作られていたのですが、これは人間には似合わなかったんです。
そこで彼は金で雇った志願者から前歯を抜いて、これを裕福な老婦人の口に埋め込んだわけです。
この方法で埋め込まれた歯は数年〜長いもので10年以上持ったケースもありますが、残念ながら永続的に定着した歯は一本もありませんでした。
ハンターが煽ったことで、この差し歯移植は流行しますが、ある女性が移植した歯から梅毒に感染したことで流行は急速に衰えることになります。
そしてこの梅毒がハンターと非常に密接に関わってくることに...
性病が蔓延る当時のロンドン
ジョン・ハンターが住んでいた近辺のレクター・スクウェア
ジョンは論争を避けるタイプではありませんでした(⊙_⊙')
ある時『マスターベ○ションするとイ○ポになる』という説に対して彼は
と反論しています。
近代の研究で若い頃に多く射○するほど、年をとってから前立腺ガンになりにくいことが明らかになっているので、ジョンの説は正しかったと言えるのではないでしょうか(ΦωΦ)フフフ・・
1967年、39歳のジョン・ハンターは王位協会会員に選出されますが、当時のロンドンはセ○クスが活発に取引される一大商業都市だったため性病患者が数多くいたのです。
そのためハンターも多くの性病患者を診ていたわけです。
当時の性病は主に
- 淋病
- 梅毒
でしたが淋病に関しては致死率も低く、また当時ありふれていた病気でした。
が!!!
梅毒の方は非常に危険でした。
梅毒の症例
引用元:eScholarship
梅毒に感染した際の初期症状はまずペ○スにしこりができ、リンパが腫れます。
数週間経つと、症状が治まったように見えますが、数ヶ月後に脱毛や発熱、腫瘍が現れ、治ったり再発したりを繰り返し、最終的には皮膚と骨は潰瘍だらけに脳や内臓までも壊滅的な状態に...
ジョンは淋病に関しては自然治癒で治ると確信していたため、淋病患者で臨床試験を行います。
彼は患者の半数に通常の治療薬を与え、残りの半数にはパンを丸めて作った丸薬を与えました。
すると!?
全員が見事に回復したのです💪🤩
またジョンは
という仮説も立てており、これは局部的な淋病がやがて全身に広がることで梅毒になると考えたわけです(⊙_⊙')
ジョン・ハンターの危険な自己実験
梅毒トレポーマの電子顕微鏡写真
この仮説が正しいことを証明するには実験が必要でした。
ジョンは
を知りたかったのです。
梅毒の兆候が現れたら、仮説が正しいことになり、現れない場合は仮説が間違いであったことが証明されるので、なんとしてもこれを確認しなければなりませんでした。
しかし、健康体でさらに局部に淋病を意図的に感染させてくれる志願者などいるはずもなく、また毎日診察できる被験者となると、それはジョン以外にあり得ませんでした(*´Д`*)
そこでジョンは
自らのペ○スに傷をつけたうえで、淋病患者の膿を擦りつけた
のです。
それから数週間後、彼のペ○スは硬性下疳(げかん)と呼ばれる梅毒特有のしこりが現れます。
が...
ジョン・ハンターの致命的なミス
腸管梅毒
ジョンはこの自己実験で致命的なミスを冒しており、それは淋病の膿を提供した患者が
淋病と梅毒の両方に感染しているかもしれない
ということです(*´Д`*)
梅毒は初期段階で食い止めることができなければ命を落とすことになるため、彼は塩化水銀や有毒な水銀で何度も口をすすいだのです。
僕を含め、医学知識のない人でもこれらが人体に害であることは察すると思いますが、実際、この治療を行うと
- 口内に潰瘍ができる
- 歯がグラグラするようになる
- 黒い唾液が大量に出る
などの症状に見舞われますが、後にジョンは
と豪語していますw
結局、彼は梅毒に感染したものの、クレイジー過ぎる治療法によって完治しますが、この当時、自分を実験台にする勇気を持っていた医者はジョン・ハンターのみです。
この自己実験体験を講義の教材にして、自らの体に梅毒を感染させ硬性下疳を発生させたことを説明し、また性病に関する論文も著しています。
ジョン・ハンターは1793年10月16日に狭心症で亡くなりましたが、彼の勇気ある自己実験はまさに
マッドサイエンティスト
の鏡であり、後に彼と同じように自己実験を行う医者・科学者が増えるきっかけとなったのです_φ( ̄ー ̄ )
<参考文献:世にも奇妙な人体実験の歴史(文春文庫)>