昭和の脱獄王と言われた・白鳥由栄(しらとり よしえ)は長い服役の中で
の4つの刑務所で脱獄を成功させています。
しかも!!!
白鳥は常人では決してマネできないような方法で脱獄を成功させているのですがこの辺りは記事本編にて詳しく紹介しますので楽しみにしてくださいw
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また、この記事を書くにあたってこちらの『脱獄王 白鳥由栄の証言』を参考にさせてもらうのですが、筆者の斎藤充功さんが実際に白鳥由栄にインタビューした内容がこと細かく書かれており、そこには驚愕の脱獄方法と同時に脱獄を決意するに至った経緯などもバッチリ書かれていて、本当に面白い本でしたね♪( ´θ`)ノ
どの刑務所での脱獄劇も刺激ある話でしたが、その中でも特にセンセーショナルな『網走刑務所の脱獄ストーリー』を今回は紹介しようと思います✅
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白鳥由栄の生涯の主な出来事
- 明治40年(1907年)・・・7月、青森に生まれる
- 昭和8年(1933年)・・・4月、青森市で強盗○人を犯す(25歳)
- 昭和10年(1935年)・・・8月、土蔵破りの犯人として盛岡警察署に逮捕される
- 昭和10年(1935年)・・・12月、青森刑務所柳町支所に移送される
- 昭和11年(1936年)・・・6月、青森刑務所を脱獄(28歳/3日後に逮捕される)
- 昭和11年(1936年)・・・8月、青森地裁にて準強盗○人と逃走の罪で無期懲役の判決
- 昭和11年(1936年)・・・11月、宮城控訴院において無期懲役が確定
- 昭和12年(1937年)・・・3月、青森刑務所から宮城刑務所に移監
- 昭和15年(1940年)・・・4月、小菅(こずけ)刑務所に移監
- 昭和16年(1941年)・・・10月、秋田刑務所に移監
- 昭和17年(1942年)・・・6月、秋田刑務所を脱獄(34歳)
- 昭和17年(1942年)・・・9月、捜索の網を潜り3か月かけて、上京し小菅刑務所を訪ね、その後に自首
- 昭和18年(1943年)・・・3月、東京区裁において逃走罪で懲役3年の判決
- 昭和18年(1943年)・・・4月、小菅刑務所から網走刑務所に移監
- 昭和19年(1944年)・・・8月、網走刑務所を脱獄(37歳)その後、2年間にわたり山中の洞窟で生活
- 昭和21年(1946年)・・・8月、北海道空知郡砂川町で殺○を犯し、逮捕される
- 昭和21年(1946年)・・・12月、札幌地裁において殺○、加重逃走罪で死刑判決を受ける
- 昭和22年(1947年)・・・2月、大通りの拘置所より札幌刑務所に移監
- 昭和22年(1947年)・・・3月、札幌刑務所を脱獄(39歳)山中で300日間生活
- 昭和23年(1948年)・・・1月、札幌市琴似町で逮捕される
- 昭和23年(1948年)・・・5月、札幌高裁は砂川の殺○を傷害致○と裁定し、加重逃走罪と併合で懲役20年の判決を言い渡す
- 昭和23年(1948年)・・・7月、GHQ札幌地方軍政本部の命令で特別仕立ての郵便貨車で府中刑務所に移送される
- 昭和36年(1961年)・・・12月、模範囚としての生活が認められ仮出獄が許可される
網走移送を言い渡された白鳥由栄
36歳の誕生日を本来であれば小菅刑務所で迎えるはずだった白鳥は、昭和18年(1943年)4月23日午後8時過ぎに突然、監房から引き出されて戒護課の部屋に連れて行かれ、当直看守長から『網走移送』を言い渡される。
こうして網走刑務所に移送されることになった白鳥ですが、彼は既に青森刑務所と秋田刑務所で2度の脱獄を成功させていたので網走刑務所では”特別な独房”が用意されていました(⊙_⊙')
白鳥の網走刑務所での1年4ヶ月の生活は狭い独房を一歩も出ることなく
をかけられたまま、拘束され続けたのです。
極寒の中、薄着で独房に放り込まれた白鳥は...
また網走刑務所は真冬には零下30度になることも珍しくない極寒の刑務所。
そのような厳しい環境にもかかわらず、白鳥は夏物の単衣1枚で独房に放り込まれていたのです🥶
その時のことを白鳥はこのように語っています。
白鳥
『網走の時は俺も死○かと思った。冬は想像を絶する寒さで、吐く息が両手を縛った革バンドの上ですぐ霜になって、
フーッと吹くと白い粉になって舞って、髭なんか、バリバリに凍ったもんだ。』
白鳥
着物は単衣を着せられて、体は痺れて感覚はなかったな。
なにしろ逃げるまで体の自由なんかなくて、イモ虫みたいに房の中に転がされ、飯なんか口だけでアルマイト(耐食性のある)の食器をくわえて食うありさまで、犬以下の生活だったな。
本当に網走の時は、俺もダメだと思ったよ。』
白鳥
『夏は反対に刺し子みたいな厚い綿入れを着せられて、手錠や足錠はほとんど外してくれなかったから、
ウジが湧いてきて、生きている人間にもウジが湧くことをあの時に初めて知ったね〜。
クソまみれで、その上、ウジまみれの生活だったんだ。』
白鳥
『それで俺は、網走にいると本当に殺○れると思って、半年前ぐらいから逃げることを考えるようになった。
体力をつけるために飯だけは1粒も残さずに食ったんだが”くさい飯”でとうもろこしと米くずの混ざった飯だった。
食器に歯型がつくほど夢中になって食ったことを今でも覚えているな』
つまり白鳥が網走刑務所から脱獄したのは生命の危機を感じたからで、彼にとっては生死を賭した闘いでもあったのです(⊙_⊙')
白鳥由栄がどうやって網走刑務所から脱獄したのか!?
それでは白鳥はどのような方法で網走刑務所の脱獄を成功させたのでしょうか?
本人に聞いてみましょう👀
白鳥
『体は革バンドで縛られ、重さ四貫目ぐらいはある太い鎖で繋がれた手錠と足錠は、看守が2人がかりでナット締めをしたもんだ。
俺はそれを外すのに苦心したんだ。
だけど、”人間が作ったものは必ず壊せる”という信念が俺にはあったから、毎日、看守のスキの見ては手錠と手錠をぶつけ合わせ、ナットを歯で何万回と噛んだよ。』
白鳥
『 同じ作業を昼も夜も、半年ぐらいやってたな。
足錠のほうも同じようにぶつけて壊したが、案外簡単に外れたな。
逃げる時期は夏を選んだが、その日が来るのが気の遠くなるほど長く感じられた。
冬逃げれば、寒さと、飢えで死○ことは分かっていたから、夏を選んだ。』
因みにですが白鳥は普通の手錠はすぐにねじ切ってしまうため、20kg近い鉄製の連鎖錠がつけられていたのですが、それすらも長い間、歯で噛み切らして切断、1944年8月26日に大暴走雨の夜を利用してなんなく脱走したのです(⊙_⊙')
白鳥が語った網走刑務所脱獄の理由とは!?
白鳥が網走刑務所を脱獄しようと考えたのはもちろん命の危機を感じたからですが、これ以外にも彼を脱獄に駆り立てるものがあったのです。
白鳥
『俺は看守に言ってやったな、絶対ここから逃げてみせると。
俺は一人、あんたらは大勢だ。
堀の内側で捕まれば俺の負け、外に出れば、たとえ死○だとしても俺の勝ちだとね。』
白鳥
『それと網走に入所した当初は戒具が手錠だけだったが看守の扱いが酷く、それに横柄な態度でなじるんで、俺も頭にきて手錠をブッチ切ってしまった。
その度にゴツイ手錠に代えられ、4回目からは手錠と足錠をはめられたんだ。』
白鳥
『風呂なんかは1度も入ったことがなく、
房の中で1週間に1度、看守が水で体を吹くだけだった。』
白鳥
『また食物にしたって3食、出ることは出たが、飯は一番量の少ない八等飯で、おかずはタクアンと葉っぱが2、3枚浮いた味噌汁の色をした塩汁だけ。
副食の魚なんかは、めざしみたいに小さいのが2匹、10日に1度出るか出ないかの状態だった』
白鳥
『それと房の外には出してもらえず、一年以上も運動はさせてもらえなかった。
その間、房の中でジーッとしていることに耐えられたのは”なにがなんでも逃走してやる”
という気持ちが俺の心の支えになっていた』
白鳥
『だから人間、その覚悟さえつけば、
どんな仕打ちにも耐えていくことが出来るんだ』
とこのように強い信念を抱き続け、行動に移した白鳥ですが、実は白鳥は脱走計画の予定日を1日ずらしています(⊙_⊙')
理由は『その日は白鳥のことを気にかけてくれていた看守が夜勤だったため、その看守に迷惑をかけたくなかった』からでした。
白鳥は自分に対して不当な扱いをしていた看守が担当する日を狙って脱獄したのです。
白鳥由栄が語った網走刑務所脱獄の全貌!
白鳥が脱獄した時の状況を『北海道警察史』は次のように記録しています。
このように白鳥は特に厳重な監視と20キロもある太い鎖の手錠・足錠をかけられていたにも関わらず、1年後の1944年に8月26日に大暴風雨の夜に独房からこつぜんと消え、独房の中には摩滅してちぎれた手足の錠と鎖が残っているだけでした(⊙_⊙')
それでは白鳥はどうやって脱獄したのでしょう?
白鳥自ら語るまで、どうやって脱獄したのか長い間、謎とされており、そのため次のような説が唱えられていたのです。
- 絶え間なく鎖と情をぶつけあった説
- 歯で何千何万回と噛み続けた説
- 小便で錆びさせた説
など。
そして独房をどうやって抜け出したのか?
というのも謎のままでした👀
白鳥脱獄後、刑務所側は警察と軍に応援を求めて数百人にのぼる大捜査線を敷き、約2カ月にわたって必死の捜査するも、その行方はわからないまま2年が過ぎ去ることに...
では、実際の脱獄はどのような方法で行われたのでしょうか?
教えて〜白鳥さ〜ん♪( ´θ`)ノ
白鳥
『網走の獄舎も木造で扇型の作りになっていて、懲役が容れられる監房は一舎から5舎まであり
俺が容れられたのは監視所とは目と鼻の先の4舎24房だった』
白鳥
『網走は 最初から手錠をかけて独居に容れたので、
俺は看守に外してくれるように頼んだんだ。』
白鳥
『でも看守は規則の一点張りで手錠を外すどころか『外したければ自分で外してみろ』なんて俺を挑発するんで、
こっちもカーッと頭に血がのぼって『やってやる!』と言って、
上膊部(じょうはくぶ)を両脇に押し付けて胸の上で手錠を交差させ、鉄環をネジ切ったんだ。』
白鳥
『その時の看守は俺の顔を見てポカーンとしていたが、気づくと、慌てて非常ベルを押しに走っていったな。
手錠を壊したのは3回目だが、それ以後は特性の手錠と足錠をハメられたんだ』
白鳥
『ここを抜け出す時は一切の道具を使うことが出来ず、五体(身体)だけで抜けたんだ。
房の外に出るために目をつけたのが房扉に取り付けられている長方形の視察口で
これには鉄格子の枠がボルトで留めてあった』
松材で出来た扉に取り付けられた視察口は床から1.4mの高さにあり、大きさは縦20cm、横40cmで5本の鉄棒が縦に鉄枠に溶接されていました👀
白鳥が目をつけたのはその視察口で、鉄枠を外すことができれば体を抜くことが出来ると計算し、まず実行したのは松材にボルトで留めた鉄枠の隙間に味噌汁の塩汁を垂らすことで、時間をかけて松材を腐らせ、鉄枠を留めてあるボルトを浮かすことでした。
白鳥が半年間、毎日、朝と晩の2回、塩汁を垂らす作業を続けると!?
頑丈なボルト留めの鉄枠のボルトの部分が浮き始め、両手で鉄枠を数十回、強く揺らすとついに”ズレる”ようになったというわけです。
白鳥のある身体的特異点!
白鳥にはある身体的な特異点があり、これが数々の脱獄を成功させることが出来た要因の1つになっています(⊙_⊙')
そして網走の脱獄においてもその特殊能力を駆使しており、そのことに関しても白鳥は語っているので続きを見てみましょう。
白鳥
『手錠と足錠をかけられたままだったので、汁は腹ばいになって口を食器の中に突っ込んで吸い、口に含んだ塩汁をかけたんだよ。
最初は何の変化もなかったが、3ヶ月ぐらい経つと鉄枠にサビが出てきて、頭で鉄枠を何回も押すとボルトを止めてある木と鉄枠の間に隙間ができたんだ』
白鳥
それからはその隙間をかける作業を繰り返して、下の部分をガタガタにしたわけだ。
俺の頭が枠に入る大きさなので、頭が入れば俺は両肩の骨を外すことが出来るので、房扉の外に出る自信があったんだ』
白鳥
『そして、出来るだけ身軽になる必要があったから、身につけたのは褌一本だけだった。
決行したのは就寝時間が過ぎて1時間も経っていなかったので、時刻は10時頃だったと思うな。』
白鳥
『逃走する時は一旦、敷いた布団を片付けて、布団の上に赤テンを整頓しておいてきたんだ。
手錠と足錠は留め金のナットを緩めておいたので
当日の検査が終わった後でボルトを歯で抜いて外しておいたというわけだ』
白鳥
『そして手錠、足錠は鎖付きのまま、
房の中にある便器の横に転がしてきたんだ』
白鳥
『10時前後という早い時間を狙ったのはこの日に限って停電があり
看守の交代時間が遅れて巡回の間隔が長引いたので千載一遇の機会になったわけだ』
白鳥
『あの当時、刑務所は灯火管制が実施されていて
房の窓には暗幕を張って光が外に漏れないようにしていたから、夜の舎房は暗かったな』
白鳥
『出るときは両肩の骨を外しておいて、視察口に頭を突っ込み、
足で房扉を蹴るようにして身体をせり上げて、舎房の廊下に肩から落ちたんだ』
白鳥
『そして廊下に立つと肩の骨を入れて、もう一度房扉をよじ登って、桟木(さんぎ)で組んだ舎房の天井まで辿りつき、
桟木を伝わって採光窓まで這って行き、頭突きで採光窓のガラスを破って舎房の屋根に出たというわけだ』
白鳥
『でもな、ガラスを破った時は音がして破片が廊下に落ちてしまった。
その時は一瞬、発見されたと思い、息が詰まってしまったな』
白鳥
『屋根に抜けると瓦の上を四つん這いになって舎房の一番端まで行き、舎房の窓枠を伝って地上に降りたんだ。
地面に足が着くと、少しの間、舎房の壁に身を寄せてジーッとしていた』
白鳥
『それから、舎房の横手にある舎房区と工場区の境を仕切っている
2mぐらいの板堀を乗り越えて、工場の建物に近づいたんだ』
白鳥
『目的はハシゴ探しだった。
最初は舎房のストーブの支柱を引き抜こうとしたんだが、
監視所に近いところにあって発見され易いので
それで、無人の工場のストーブの支柱に目をつけたんだ』
白鳥
『それは煙突の支柱で、結んであった針金を引っ剥がし、そいつを抱えてレンガ掘のところまで運んで
あとは、その支柱をハシゴ代わりに利用して高堀を乗り越えたというわけさ』
このように白鳥は自由自在に肩の骨(関節)を外すことが可能で、そのため後ろ手で手錠をかけられていても簡単に手を前に戻すことが出来たそうです(⊙_⊙')
また彼はわずかな窪みさえあれば壁を簡単に登ることもでき、身長はそれほど高くはありませんでしたが筋骨隆々の非常に逞しい身体をしていたなど...
とにかく身体能力が高いのですw
また網走の脱獄には20分もかかっておらず、超人的な身体能力の持ち主だったと言えるでしょう💪🤩💪
網走脱獄後の白鳥は洞窟で暮らしていた!?
網走脱獄後、白鳥は約2年間にわたり逃亡し続けるのですが、彼はどのような生活を送っていたのでしょうか?
白鳥
『翌朝、暗いうちに山伝いに西に向かったんだが、途中で開拓農家に忍び込んで食糧と衣服を盗んだんだ。
農家だからあまり物がなくて大豆、じゃがいも、麦、それと、つぎはぎだらけの野良着一着だけだったが、その時は申し訳なくて、手を合わせて盗んだんだ』
白鳥
『刑務所からどのくらい離れたのか見当がつかなかったが、俺の勘では20kmぐらい遠のいていた感じだった。
場所の移動は秋口までせずに、その間は能取(のとろ)の開拓農業の近くの山中で過ごしていたんだ』
白鳥
『北海道は夏が終わるとつるべ落としの秋で、朝晩の気温は急に冷え込むようになったので、
本格的な冬ごもりをするために適当な場所を探して、能取から中佐呂間(なかさろま)へ。』
白鳥
『地名がわかったのは山林の掲示板を見てだが、その中佐呂間の山中まで湖に沿って山伝いに移ったんだ。
そこで理想的な洞窟を見つけて俺は生活を始めたんだ』
食糧調達はどうしてたの?
白鳥
『一番困ったのは火と食糧で、夜になると人里に下りては、開拓農家の数軒から調達したんだ。
火はカマドからボロ雑巾に移して、火種をフーフー吹きながら穴まで持って帰り、その火は洞窟を出るまで大切に使って絶やさなかった』
白鳥
『食糧は麦や雑穀、それに畑の野菜を盗んでた。
他には熊が沢の岩をどかして魚や蟹を捕っていたからそれを真似て、
熊が遠ざかっていくのを確かめてから、魚や蟹を捕って、食糧の足しにしていた』
このように人里に下りて畑の野菜を盗んだり、熊の知恵を借りて魚や蟹を捕って暮らして白鳥ですが、一度、命の危機を感じるような恐い体験をしたそうです(⊙_⊙')
白鳥
『山中の生活で一番恐かったのは”ヒグマ”の出現で、一度はダメだと思ったことがあった。
その時は子連れの羆だったが、俺はその親子ヒグマに追われて立木に逃げたんだ』
白鳥
『ヒグマはジリジリと立木に登ってきて
もう、それ以上は登れないという所まで追いつめられて、
そのときは夢中になって木を揺らすと、ヒグマはドスーンと滑り落ちて、
それっきり登ってこなかったけど、あのときは本当に命拾いをしたな』
百戦錬磨の脱獄王もヒグマにはビビりまくったようですねw
また白鳥は冬の間に出歩くと雪の足跡から発見されると用心してほとんど穴から外に出ることはなかったそうですが雪が降っていないときには外の様子を探るために人里に下りる場合もあったそうです〆(・∀・@)
山生活で白鳥が守っていた四戒とは!?
白鳥はインタビューの際に山で逃走生活をする秘訣を聞かれた際に
白鳥
『別に逃走の秘伝なんていうものはないがね。
ただ、逃げるためには、これだけは固く守っていたな』
と答えています(⊙_⊙')
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白鳥が固く守っていた四戒
- ①一集落からたくさん盗まず、方々の集落から少しずつ盗んで回る
- ②逃げたら山中に深く潜ること。夜なら穴のようなところで昼なら茂った木の上にいれば絶対に安全
- ③汽車やバスには乗らずに必ず歩く。昼歩きは禁物。人相・服装ですぐに分かる
- ④ 道路は本道は危ない。橋だけ渡れば、あとは間道、獣道を歩く
この逃走訓とも言える四戒を固く守り続けたことで約2年間も逃亡し続けることが出来たのです👀
山中生活で辛かったことは?
白鳥
『山中の生活は山狩りに遭うこともなく、平穏無事に過ぎていったが
なんとも辛かったのは退屈したことだ。』
白鳥
『話し相手もいないし、だからよく野鳥を相手に気を紛らしていたんだ。
俺は刑務所にいるときは笑ったことなどなかったが、山の中はそりゃあ、自由で楽しかった。』
白鳥は人と話をしないことがあんなにも辛いと、山中生活で痛感したようですが『自由で楽しかった』と言っている通り、かなり満喫していたようですね👀
日本が敗戦したことを知った白鳥は○殺を決意する!
白鳥は国民学校に忍び込んだ時に読んだ新聞で日本の敗戦を知ることになります。
彼は山に住んでいるにも関わらず”ある違和感”を覚え、情報を得るために国民学校に忍びこむことに...
白鳥
『日本が戦争に負けたことは、国民学校に忍び込み、新聞記事を読んで分かった。
だが、その前からなんとなく様子がおかしくて
山の上にいるとよく日の丸をつけた戦闘機が千島の方に飛んでいくのが目についたんだ』
白鳥
『そのうちいつの間にか海の方から、星のマークをつけた飛行機が飛んでくるようになったり
刑務所の方角に煙が立ったり』
白鳥
『それで俺も不安になってね、 学校なら新聞が置いてあると思って、忍び込んで新聞を探したんだ。
記事には別段、変わったことも書いてなかったし、一安心したんだ。』
そして、白鳥はその年も一冬山籠りをして、一年ぶりに再び国民学校に忍びこむ...
白鳥
『1年ぶりにまた 国民学校の職員室に忍び込んで新聞を探したんだ。
その時は、俺のことが新聞に出ていないか知りたかったんだが、ニュースを読んではじめは信じられなかったよ。
日本が負けるとは』
白鳥
『一番新しい記事を見ると、日付は昭和21年(1946年)6月19日になっていて、
戦争は10ヵ月も前に終わっていたんだ。』
白鳥
『 それで俺も覚悟を決めてね、日本が負ければ俺みたいな重罪犯は
どうせ占領軍に死刑にされると思い
それならいっそ死に花を咲かせてやれと、山を降りる気になったんだ。』
こうして日本の敗戦を知った白鳥は、自害するために山を下りる決意をし、2日後に下山したのです。
白鳥が自害するのをやめた理由とは?
下山した白鳥でしたが途中で食糧が底をついてしまい、しばらくは農家などに忍び込んで盗んで食いつないでいたのですがふと、『札幌に買い出しに行こう』という気分になったそうです(⊙_⊙')
その途中である光景を見た白鳥は自害する気持ちがなくなったと言います。
白鳥
『自◯する気持ちが萎えてしまったのは途中の旭川の街に寄った時で、アメちゃんと日本の女がくっついて歩いている姿を見て、
日本はアメリカに完全に占領されてしまったんだと、それで自○するのが馬鹿馬鹿しくなった』
このようにアメリカ人と日本女性が歩いている姿を見たことで自害することはやめたのですがこの後、白鳥は殺○事件を起こしてしまうのです...
白鳥が起こした『砂川事件』
まずはこの事件の判決文を見てみましょう。
この事件に関して白鳥は殺○ではなく『正当防衛』だったと言います(⊙_⊙')
白鳥
『百姓の息子に野荒らしと間違われて、木刀で散々殴られてね。
あの時は本当に殺◯れると思ったので夢中でマキリを若い男に刺してしまったんだ』
白鳥
『殺○気持ちなんて全然なかったから一審、二審とも俺は裁判で正当防衛を主張してね。
その裁判の弁護をしてくれたのが斎藤弁護士で、あの先生が俺を死刑台から救ってくれたんだ』
そして白鳥は死刑判決を言い渡されることになるのですが、斎藤弁護士のおかげで彼は死刑を免れることになります(⊙_⊙')
札幌刑務所の脱獄を計画した理由とは!?
死刑判決直後の心境について白鳥はこのように語っています(⊙_⊙')
白鳥
『 俺は死刑の判決を言い渡された時、これは不当な裁判だと思って、控訴したんだ。
しかし、あの時は被告席で一瞬、目の前がボーッと霞んでしまってね。』
そして法廷で白鳥は判事や検事に対してこのように言い放ったのです。
白鳥
『 無期ならまだしも、死刑判決なんてとんでもない。
俺は必ず脱獄して、あんたたちの寝首を掻いてやる』
札幌刑務所の脱獄を計画した理由については白鳥は
白鳥
『刑務所に入ると24時間体制で2人1組の看守2組が
拳銃を携帯して房を監視しているんで頭にきてね。』
白鳥
『だが、札幌を逃げようと計画したのは控訴したからすぐには死刑にはならないと分かっていたが、
内心は死刑が怖くて、それで逃げたんだ...』
まとめ
というわけで脱獄王と呼ばれた伝説の人物『白鳥由栄』の網走脱走の全貌について書いてきましたが、この他の3つの刑務所での脱獄や最後に収監された府中刑務所編もめちゃくちゃ面白いので興味がある方はぜひ『脱獄王・白鳥由栄』を読んでみてください♪( ´θ`)ノ
この記事では紹介しきれなかった白鳥の家族への思いや出所後の白鳥、晩年の白鳥など、見どころ満載の1冊になっているので〆(・∀・@)
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