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江戸時代に起きた4大飢饉によって餓死者が数百万人に!?

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今の日本では考えられませんが、江戸時代ではたびたび飢饉に見舞われていました_:(´ཀ`」 ∠):

またそれ以前の日本でも飢饉によって人々は苦しめられており、例えば8世紀の『続日本紀』には702年(大宝2年)から791年(延暦10年)までの約90年間で飢饉に関する記述が116回もあり、これは全国のどこかで毎年1回以上の頻度で飢饉に見舞われていたことになります(⊙_⊙')

江戸時代に起きた飢饉のうち、特に被害が大きかったのが

  • 寛永の大飢饉
  • 享保の大飢饉
  • 天明の大飢饉
  • 天保の大飢饉

で、4大飢饉と呼ばれています。

これらの飢饉の原因は異常気象、虫害、火山噴火など様々でしたが、いずれも人々を悲惨な状況に追いやったのでした...

それでは4大飢饉について、詳しく見ていきましょう_φ( ̄ー ̄ )

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寛永の大飢饉が起きた原因とは?

寛永の大飢饉

寛永15年(1637年)、九州から牛の疾病が大流行し、特に田畑の耕作で牛を中心に使っていた西日本の米作りに大きな影響を与えていました(⊙_⊙')

これを受けて幕府は飢餓奉行を設立し、迫りくる危機に備えていたのです。

が!!!

寛永17年(1639年)に駒ヶ岳噴火という天災が発生し、降灰によって津軽地方は凶作になってしまいます。

さらに翌年の初夏には、近畿、中国、四国地方で日照りによる干ばつ、秋には大雨で、北陸は長雨、冷風などによる稲作被害が出たのです(*´Д`*)

このような天災が積み重なったことで、寛永19年(1642年)〜20年にかけて東日本で多くの

餓◯者

が出始め、さらに!!!

タイミングが悪いことに、幕府は寛永通宝を大量発行して貨幣経済を目指しており、そのため貨幣の価値が爆下がりし、物価が高騰したため、人々は余計に食べ物を手に入れられなくなったわけです。

寛永の飢饉が武断政治廃止のきっかけになった!?

またこの当時、藩の改易(取り潰し)が多く、幕府の体制が整うまでの混乱があったり、多くの武士の失業が拡大したことで、

庶民は一層困窮

してしまい、その結果、江戸・大阪・京都に多くの難民が流れ着くことに。

そして寛永の飢饉は政治にも影響を与え、それまでの武断政治(強権で武士・百姓を押さえつけること)が難しくなり、百姓撫育に切り替えて、文治政治になるきっかけになったのです(*´Д`*)

百姓撫育とは?
百姓が戦乱と飢饉から解放されて、安定した生活を営める状況の確立のこと。

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蝗害による不作が招いた悲劇!享保の大飢饉

享保の大飢饉

享保16年(1731年)末〜年明けまで悪天候が続き、享保17年(1732年)の梅雨明け頃から九州でウンカによる※蝗害(こうがい)が始まりました(⊙_⊙')

(ウンカとはバッタに似た害虫で、中国で大発生したものが、日本に飛来した)

※農作物を食い荒らすなどの虫の被害のこと

蝗害は7月頃から九州・四国・中国など、西日本に広まり、わずか数日で稲作は壊滅的な状況になったため、農民は困窮し、葛の根を掘るなどしたり、物乞いが増えていきました。

被害は西日本の46藩に及び、46藩の総石高は236万石でしたが、この年の収穫はわずか63万石程度...

当時、米は財政の基礎で、このような状況では藩も農民も生きてはいけませんよね_:(´ཀ`」 ∠):

享保の大飢饉での飢餓死○数がヤバい!

享保の大飢饉時の将軍・徳川吉宗

『徳川実紀』によると、享保の大飢饉での餓死者は

約96万9900人

250万人以上の人々が飢餓に苦しんだとされています(⊙_⊙')

幕府は被害を抑え込もうと東国の米を救援米として西日本に送りました。

しかし、莫大な量の救援米を西日本に送ったことで、江戸の米価が急騰し、享保18年(1733年)には日本橋の米間屋・高間伝兵衛の店が江戸庶民に襲撃されるなど、打ちこわしが広がったのです。

最大の被災地だったのは大三島でしたが、下見吉十郎という人物が薩摩からもたらしたサツマイモのおかげで餓○者が出なかったんですよ👀

これを教訓に将軍・徳川吉宗は米以外の穀物の栽培を推奨し、その後、青木昆陽によってサツマイモの栽培が広く普及するようになりました。

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噴火によって起きた『天明の大飢饉』

天明の大飢饉で放浪する人々

1770年代から東北地方では悪天候や冷害によって農作物の収穫が激減し、農村部を中心に疲弊していました(⊙_⊙')

そこに追い打ちをかけたのが噴火なんです。

天明3年(1783年)3月12日に岩木山、7月6日に浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせ、また降灰は日射量低下による、さらなる冷害をもたらし、農作物に壊滅的な被害を生じさせ、これによって翌年から深刻な飢饉状態になってしまったんです_:(´ཀ`」 ∠):

特に津軽藩と南部藩は以前から飢饉的状況だったため、財政に余裕がなく、どの藩も米を買う余裕がなく、そのため大飢饉となりました。

空腹で死○の肉まで食べた!?

飢饉で馬や人の肉を食○る人々

『後見草』で杉田玄白は、東北地方の農村を中心に全国で数万人が餓死したと伝えていますが、飢饉による空腹で牛馬や土壁の中の藻を食べ、さらには

死○の肉まで食○た

と記録されています_:(´ཀ`」 ∠):

幕府の人口調査によれば、天明の大飢饉を挟む安永(1780年)〜寛政4年(1792年)までの12年間で

人口が112万人減少

しているようです。

被害が特に酷かったのが陸奥で、農村部から逃げ出した農民が各都市部へ流入して治安が悪化。

また天明7年(1787年)には、江戸や大阪で米屋への打ちこわしが起こり、江戸では千軒の米屋と8千軒以上の商家が襲われ、その後、全国各地で打ちこわしが起きるようになったのです。

天保の大飢饉が起きた原因は?

飢饉の際、救小屋に収容され保護を受ける罹災民

主な原因は天保4年(1833年)の大雨による洪水や冷害による大凶作で、天保3年から9年にかけて連年凶作が続き、特に天保4年は、7月末にも関わらず霜が降りるほどの冷害となっています(⊙_⊙')

東北での被害が特に酷くて、仙台藩では実高で100万石を超える石高があったものの、米作に偏った政策を行っていたのが完全に裏目に出ています。

秋田では7月にようやく穂が出ましたが、9月び雪が降ったことで、稲刈りの時期になっても実りはなく、食糧にすることができず。

そのため誰もが野山に入って木の実や草の根を掘り求めたのです。

各地で百姓一揆・打ちこわしが起きた!

大塩平八郎の乱で大阪の町は炎上

徳川幕府は救済のため、江戸市中21ヶ所に御救小屋を設置しますが、被災者は70万人を超えました。

さらに米価急騰も引き起こしたことで百姓一揆や打ちこわしが頻発

特に江戸市民に配る米は西日本から集めたため、大阪では米の相場が暴騰し、毎日、数百人単位の餓死者が出るように...

これをきっかけに大塩平八郎による打ちこわし事件が起こっています(*´Д`*)

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