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ジョン・フォン・ノイマンが認めた真の天才『クルト・ゲーデル』

クルト・ゲーデル(Wikipedia)

アインシュタインが『真の天才はジョン・フォン・ノイマンだ』

と言ったようにノイマンも『20世紀最高の知性・頭脳』と言われる度に

真の天才はゲーデルだ』

と生涯、言い続けたのですが、このクルト・ゲーテルという人物はノイマンが唯一、頭脳で敗北したと言える人物なので彼のことも紹介したいと思います🤩

1930年9月5日〜7日にかけて『厳密科学における認識論』第2回会議がケーニヒスベルクで開催されました。

(この会議はヨーロッパ中の科学者が総動員される一大イベント)

翌日にはベルリン大学のハンス・ライヘンバッハ、ライプツィヒ大学の物理学者ヴェルナー・ハイゼベルク、ゲッチンゲン大学の数学者オットー・ノイゲバウワーが各1時間の講演を行い、さらに若手研究者3名が各20分の簡単な報告を行ったのです。

その若手研究者の中の1人だったのがウィーン大学の24歳の論理学者クルト・ゲーテルで、彼は述語論理の『安全性定理』についての概要を述べたのでした〆(・∀・@)

ゲーテルの不完全性定理

クルト・ゲーデルの署名(Wikipedia)

最終日には数学基礎論に関する討論会が行われたのですが、セッションの終了間際にゲーテルが立ち上がり

ゲーテル
『いかなる形式体系においても、 その内容が全て表現可能であるとは限りません

述べた。

するとそれに対してノイマンが

ノイマン
直感主義的にも許容できる推論規則を形式化できるかどうかは、 まだ結論付けられていないでしょう』

と発言したのです(⊙_⊙')

ゲーテルが『不完全性定理』を公表したのはこの瞬間で

ゲーテル
『古典数学の無矛盾性を前提とすると、その形式体系において、 内容的には真であるにも関わらず、証明不可能な命題の例を与えることができます』

と言ったのです。

この発言に対してその場にいた科学者や数学者のほとんどが反応しなかったのです。

正確にはゲーテルの発言の重要性にこの場で即座に気づけたのはノイマンだけでした(⊙_⊙')

ノイマンは、セッション終了後にゲーテルに

ノイマン
『非常に興味深い発見について詳しく知りたい』

と言って、連絡を取り合う約束をしたのです。

ウィーンに戻ったゲーデルは第一不完全定理の決定不可能命題を多項方式に書き変え、さらに衝撃的な

『数学の無矛盾性は、その体系内で証明不可能である』

ことを示す第二不完全性定理の概要を付け加えたゲーテルは10月23日にその概要をウィーン科学アカデミーに提出したのです。

ノイマンの敗北!?

クルト・ゲーテル
画像:デンタルフロスの歌

ゲーテルの完成論文を学会誌『数理物理学月報』が正式に受理したのは11月17日。

その3日後の11月20日付ノイマンがゲーテルに送った手紙には彼自身が『注目に値する』第二不完全性定理の主旨を発見したという内容が書かれています(⊙_⊙')

その手紙を送付した直後に、ノイマンはゲーテルの完成論文のコピーを受け取ったのです。

ノイマンが11月29日付でゲーテルに送った手紙には、既にゲーテルが第二不完全性定理を証明していることは明白であり

ノイマン
もちろん、私はこの結果を発表するつもりはありません

と書かれています。

当時、『ヒルベルト学派の旗手』と呼ばれていたノイマンは『ヒルベルト・プログラム』に基づいた『数論の安全性』を導くためのセミナーをベルリン大学で担当していたのですが、そのセミナーは打ち切られました_:(´ཀ`」 ∠):

生まれてから1度も先を越されたことがない天才ノイマンですが、自分が推進しようとしていた『ヒルベルト・プログラム』が『達成不可能』だと証明されたこと。

そして何より、その事実に自分が気付けなかったことは2重のショックだったのでしょう。

その後、ノイマンはこの分野の第一人者の地位をゲーテルに譲り、2度と数学基礎論に関する論文を発表することはありませんでした👀

トータル的に偉業を達成しているのはノイマンですが、ゲーテルは人類史上最高の頭脳が認めた天才であることは間違いないでしょう_φ( ̄ー ̄ )

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上下揃いのスーツはノイマンのトレードマーク!

スーツにネクタイ姿でラバに乗るノイマン(1940年)
画像:フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔

ゲーテルの所で頭が痛くなった方も多いかも!?

なのでここでは読みやすいものを用意しました♪( ´θ`)ノ

大学で授業を担当するようになったノイマンは常に上下揃いのスーツを着て、胸ポケットにはハンカチを覗かせていました👀

この理由はベルリン大学の私講師になったのが23歳プリンストン高等研究所教授になった時点でも29歳と常にノイマンは最年少教員だったので、学生と間違われないようにするためにこの服装を常にしていたようですw

その後、この衣装はノイマンのトレードマークになり、1940年の夏にシアトルのワシントン大学での集中講義に出かけたついでに、グランド・キャニオンに旅行した際には、周囲が皆、ラフなハイキング姿なのに対してノイマンだけが、スーツにネクタイ姿でラバに乗っています〆(・∀・@)

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ノイマンの授業を受ける学生が超大変な理由とは?

学生がノイマンの講義についていくのは超大変だったようです👀

なぜなら彼は速すぎる自分の頭脳の回転に合わせるべく、凄まじい勢いで喋りながら、黒板の片隅の60cm四方に電光石火の早業で一気に方程式を書き込み、書き終わると、サッと消して、すぐに次に方程式を書く。

この繰り返しのため、学生たちは講義中に息をつく間もなかったようですw

人類史上最高の頭脳!でも運転は超下手だった?

ノイマンと妻のクララ(2番目の妻)と愛犬のインバース(1954年)
画像:フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔

アメリカでは州の運転試験場に行って筆記試験を受けて合格すると、その場で『仮免許証』が発行され、仮免があれば免許保持者が助手席に同乗することで一般道で車を運転することができるのです♪( ´θ`)ノ

ノイマンの妻マリエットはブダペストで運転免許証を取得していたため、ノイマンの運転の練習に付き合っていたのですが...

ノイマンは『ハンドルを左右に振り過ぎたり、アクセルを猛烈にふかして急ブレーキをかける

という癖が治らなかったため、周囲の誰もが本試験に受からないと思っていましたw

しかし、ノイマンは本試験に見事合格したため、『賄賂でも渡したのでは?』と噂されていたのです👀

晴れて運転免許を取得したノイマンはその後、有名になる『無謀な運転』を繰り返しては毎年のようにぶつけて買い替えることになったのですw

また彼が何度も事故を起こしたプリンストンの交差点は『フォン・ノイマン・コーナー』と呼ばれるようになったのです。

どうやらノイマンは運転中に本や論文を読みながら運転していたという証言もあるのですが、幸いなことに大事故を起こしたことはないようです_φ( ̄ー ̄ )

ノイマンの娘マリーナ・フォン・ノイマン誕生

マリーナ・フォン・ノイマン・ホイットマン(Wikipedia

1935年3月6日にノイマンとマリエットの間に、娘マリーナが誕生し、彼女はノイマンの唯一遺した子供です(⊙_⊙')

マリーナはその後、ハーバード大学経済学科を最優秀の成績で卒業し、コロンビア大学大学院で博士号を取得、ピッツバーグ大学助教授から教授になり、ゼネラルモーターズ主席経済担当役員を経て、同社副社長に。

1972年〜73年にかけてはニクソン政権の経済諮問(しもん)委員会委員も務め、1992年以降はミシガン大学の教授になっています。

2012年に77歳のマリーナは英語版『火星の娘』という自伝を出したのですが、『火星人』というのは『マンハッタン計画』を推進したハンガリー系科学者集団のことで、彼らはあまりにも人間離れした天才だったので『火星人』と呼ばれていたのですw

そしてこの自伝のタイトルの”火星人”とは当然、ノイマンのことを指しています〆(・∀・@)

ノイマンとマリエットは離婚することに

ノイマン家のパーティの様子。左からロバートソン夫人・マリエット・物理学者ユージン・ウィグナー・ウィグナー夫人・ノイマン・物理学者エドワード・テラー・物理学者ハワード・ロバートソン

画像:フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔

ノイマン家では頻繁にヨーロッパ風のサロン・パーティが開かれていました♪( ´θ`)ノ

パーティの最中、ノイマンは研究者たちとの会話に没頭し、何かアイディアを思いつくと書斎に駆け込んでは方程式を書くことも多かったようです。

またノイマンはマリーナの体重を毎日計測しては喜ぶ『子煩悩』な一面もありましたが、決してオムツを変えることはありませんでした。

マリーナを寝かしつけた妻・マリエットは夜遅くまでゲストの相手に追われ、次第にノイマンとの間に溝が生じ、それは深くなっていった...

結局、7年余りで2人の結婚生活は終わってしまいますが、『円満離婚』だったために慰謝料等は発生していません(⊙_⊙')

ただし、子供の養育費はノイマンが支払い

マリーナは12歳になるまで母親と暮らし、その後、18歳になるまでは父親と暮らすこと

という条件がついていました。

この条件を主張したのはマリエットで12歳になったマリーナがその理由を尋ねるとマリエットは

あなたはフォン・ノイマンの娘だから、彼と一緒に暮らして、彼のことを知らなければならないからよ』

と答えたそうです〆(・∀・@)

(※後にノイマンはクララという女性と再婚しています)

ゲーデルの『うつ病と人格異常』

クルト・ゲーテル
画像:日経サイエンス

ノイマンは『20世紀最高の知性』と呼ばれるたびに『それは自分ではなくゲーテルだ』と返答するほど高く評価していたウィーン大学のクルト・ゲーテルは『うつ病と人格異常』の持病があったため、高等研究所では彼を招くことに反対する意見もありました(⊙_⊙')

またノイマンの妻・マリエットはゲーテルがノイマン邸に勝手に入って来ては書斎に入り、蔵書を取り出して読んで、黙って出て行く姿に恐怖を感じたそうです。

しかし、ノイマンはそれでもゲーデルを擁護しました。

1938年、ナチス・ドイツはオーストリアを併合。

ウィーン大学の『私講師』制度は廃止され『新秩序の講師』制度が設置されることに。

ゲーデルはユダヤ人ではありませんでしたが、ユダヤ人研究者が多かった『ウィーン学団』に参加していたこともあり、簡単に新秩序の講師として承認されませんでした👀

しかし、この後に事態は急展開します。

ノイマンがゲーデルを危機から救う!

クルト・ゲーテル
画像:Twitter

1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発し、ゲーデルはドイツ陸軍から『守備隊勤務適合』の通知を受け取り、焦りまくったんです(⊙_⊙')

なぜなら彼の私講師の資格は10月1日付で無効になり、それ以降はいつドイツ陸軍に招集されるか分からないからです。

ウィーンを脱出するには、ドイツの出国許可証と合衆国特殊ビザが必要でしたが、それらを通常申請で取得することは不可能でした。

ゲーデルの危機を知ったノイマンは高等研究所の所長エイブラハム・フレクスナーにゲーデルを専任研究員として招聘(しょうへい)するよう嘆願

この嘆願書の内容は次のようなものでした。

ノイマン
ゲーデルは余人を持って代え難い人間です。 彼は私がそのように断言できる唯一の存命する数学者です。 現代の科学界において、ヨーロッパのがれきの中から 、ゲーデルを救出すること以上に、重大な貢献はありません!』

そしてゲーデルは”あらゆる手段”によって無事に救出されました。

ノイマンはゲーデルには驚くほど親切だったのです_φ( ̄ー ̄ )

ノイマンの2番目の妻・クララのコンプレックス

クララ・ダン・フォン・ノイマン(wikipedia)

ノイマンが再婚したクララはノイマン家のパーティのホステス役を立派にこなしていましたが、彼女は内心に深いコンプレックスを抱えていました(⊙_⊙')

ノイマン邸を訪れるのは、皆、世界的に著名な学者や大学の教授、博士課程の優秀な大学院生ばかりでクララは大学に進学していない自分が天才ノイマンの妻であることに大きな引け目を感じていたようです👀

娘のマリーナによるとクララは自分のことを

すごく背の高い草に張り付いた虫』

に過ぎないと卑下していたそうで、そのことが原因で夫婦喧嘩になることも多かったようです_φ( ̄ー ̄ )

プリンストン高等研究所でアインシュタインが反乱を起こす!?

プリンストン高等研究所(Wikipedia)

1939年9月に天才が集うプリンストン高等研究所で反乱が起きています(⊙_⊙')

教授陣の要求で『研究者の楽園』と言われたこの研究所の生みの親、エイブラハム・フレクスナーが所長を辞退し、後任にスワースモアの学長だった教育学者フランク・エイデロッテが就任

高等研究所設置当時から、フレクスナーと教授陣の間には確執があり、彼の解任を先頭に立って求めた人物は、普段は温厚なアインシュタインでした。

アインシュタインがプリンストンに到着してから間もない頃、ルーズベルト大統領の秘書管が研究所に電話してきて、アインシュタインを大統領の晩餐会に招待したことがあり、彼は承諾したのです。

ところが!?

この話を聞いたフレクスナーは激怒し、ホワイトハウスに直接電話をかけて、招待を断ってしまいます。

さらにフレクスナーは今後はアインシュタインの外部予定は、全て自分を通して決めるようにと秘書に命令。

アインシュタインはこの時、どうにかフレクスナーを説得し、晩餐会に出席することができましたが、その後もフレクスナーの干渉が続き、温厚なアインシュタインもついに我慢の限界に達したようです👀

後にアインシュタインは高等研究所理事長のルイス・バンバーガーに次のような内容の手紙を出しています。

アインシュタイン
『フレクスナー氏は私と妻の私事に至るまで、不愉快で失礼極まりない介入をしてきます。 また、私宛の大事な手紙や電報を勝手に開封し、ロンドンでの講演も止めさせようとするのです。』

またアインシュタインは友人宛の手紙に『プリンストン強制収容所』と書くようにw

このようにフレクスナーは独裁者のようになってしまったようです_φ( ̄ー ̄ )

ノイマンの『オートメタとブラックホール』

ジョン・フォン・ノイマン
画像:smart FLASH

第二次世界大戦が始まるとプリンストン高等研究所は合衆国の『国家非常事態管理局』に全面協力することになり、ノイマンは戦争省から『科学研究開発庁』の公式調査官に任命され、爆発研究の科学技術面の最高責任者になります(⊙_⊙')

これによってノイマンは

  • 陸軍
  • ホワイトハウス
  • 戦争省

に直結する3つの機関の重要関係者となったのです。

そしてこのような不安定な時代であってもノイマンは専門研究を続けており、彼は1941年『オートメタの一般的かつ論理的理論』という論文を発表。

『オートメタ』は欧米では『自動人形』を指す言葉ですがノイマンは『自動機械』という意味で用いており、この論文でノイマンは形式論理と自己言及系によって自己増幅する自動機械』という新たな概念を定式化しています✅

天文物理学者スブラマニアン・チャンドラセカール(Wikipedia)

この年の9月にノイマンはシカゴ大学附属ヤーキス天文台の研究員である天文物理学者スブラマニアン・チャンドラセカールを高等研究所に招聘しています。

チャンドラセカールはイギリス領インド生まれの天才でケンブリッジ大学大学院でアーサー・エディントンに師事しています。

エディントンはアインシュタインの一般相対性理論の予測を日食観測で立証した世界的な天文学者)

チャンドラセカールは大学院在籍中に恒星質量の限界に関する独創的な理論を組み立てますが、エディントンに全否定されてしまいますw

(この理論は後に『チャンドラセカール限界』と呼ばれるように)

1934年の夏に集中講義でケンブリッジ大学を訪れていたノイマンはその論争の話を聞いた途端に『チャンドラセカールの理論が正しい』と味方したそうです。

実際に『チャンドラセカール限界』が存在することが白色矮星(はくしょくわいせい)やブラックホールの観測に確認され、チャンドラセカールは1983年にノーベル物理学賞を受賞しています。

1941年の秋学期にノイマンはチャンドラセカールと共同研究を行い、年末に『恒星のランダム分布を生じさせる重力場の統計的解析について』という共著論文を仕上げた。

つまり!!!

日本が真珠湾攻撃で沸いていた頃、ノイマンは『未来のコンピュータやロボット、ブラックホール』に関連する基礎研究を進めていたということになります_φ( ̄ー ̄ )

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