歴史上の偉人の中で天才と言えばアルベルト・アインシュタインが有名ですが、アインシュタインが『この男こそが真の天才だ』と言った人物がいます。
その人物こそ今回の主役であるジョン・フォン・ノイマン♪( ´θ`)ノ
ノイマンはIQが300あったと言われており、人類史上最高の頭脳を持つ人物で53年の生涯で150編以上の論文を発表。
またアインシュタインも在籍していた天才たちが集うプリンストン高等研究所の教授陣の中でも、さらに桁違いの超人的な能力を発揮したノイマンは
『人間のフリをした悪魔』
と呼ばれていましたw
そんな超人的な頭脳を持つノイマンの生涯や逸話などを今回は紹介していきたいと思います🤩
(ノイマンはいつかやりたいと思っていたので書く前からワクワクが止まらないw)
それでは人類史上最高・最強の頭脳を持つジョン・フォン・ノイマンの生涯を覗いてみましょう〆(・∀・@)
Contents
幼い頃のジョン・フォン・ノイマン
1903年12月28日にジョン・フォン・ノイマンはマックス・ノーマン(父)とマーガレット・カン(母)の長男としてオーストリア・ハンガリー帝国のブダペストで誕生。
(ノーマンにはマイケル(次男)とニコラス(三男)という弟もいます。)
父・マックスは『複数の外国語が流暢に喋れなければヨーロッパで生き抜いていけない』と考えていたので子供たちに英語、フランス語、イタリア語の家庭教師を雇っていました。
(子供たちと一緒にマックス自身も授業に参加していたようですw )
マックスの趣味は古代ギリシャ時代やローマ時代の文芸と音楽だったため、ノイマンにギリシャ語とラテン語の英才教育を施したわけです。
これは後にノイマンが得意気に語った自慢話の1つですw
また少年時代から商売の世界に身においていたノイマンの祖父カーンは8桁の掛け算を暗算で解くという驚くべき能力の持ち主だったのですがこんな話があります👀
と言うと!?
カーンは目を閉じて暗算を始め、ノーマンは紙に書いて計算を始めて、答えが一致するとお互いニッコリするというもの。
この祖父の影響でノイマンも大きな桁の数字の暗算ができるようになったのです。
これはニコラ・テスラとかにも言えるんですが、天才と言われる人の家族は頭が異常に良いケースが多いと思いますねw
ノイマンも祖父や父の英才教育でより才能を伸ばしていくことができたのでしょう_φ( ̄ー ̄ )
ジョン・フォン・ノイマンの驚異の記憶力『電話帳のページをその場で暗記』
ノイマン家のパーティでは、幼い頃のノイマンが抜群の記憶力を披露をしており、彼は客が適当に開いた電話帳のページをその場で暗記するというもの。
その後、客がランダムに氏名を尋ねると、ノイマンはその電話番号と住所を答え、客が電話番号を尋ねると、ノイマンが氏名と住所を答えるというゲームで、さらにノイマンはそのページの6桁の電話番号の列を全て足した和を暗算で求めることができたというレベチ過ぎる記憶力を披露していたのですw
そのうち彼は、奇数や偶数、素数の性質そのものに興味を持つようになり、ノイマンの天賦の才能に気づいたマックスは、数学専門の家庭教師を付けることを決めたのです〆(・∀・@)
記憶力は抜群でも音楽はまるでダメだった!?
8歳になると歴史に興味を持つようになったノイマンは父親の図書室にあったドイツの歴史家ウィルヘルム・オンケンの『世界史(全44巻)』をドイツ語で読破。
特にノイマンは南北戦争の章がお気に入りで、後にアメリカの古戦場を訪れた際に、その章をそのまま暗唱して見せていますw
このノイマンの『1度読んだ本や記事を一語一句、違うことなく引用する能力』は生涯にわたって続くのです。
ノイマンも母・マーガレットは芸術好きな女性だったため、幼いノイマンにピアノとチェロを習わせたのですが、音楽はまるでダメだったようですw
この理由はいかにもノイマンらしいもので、彼は譜面の後ろに数学や歴史の本を忍ばせて、読みながら適当に指を動かして、まともに練習しなかったからなんです。
また本の虫だった幼き頃のノイマンの逸話としてこんな話も残っています(⊙_⊙')
マーガレットがノイマンを床屋に連れて行こうとすると、オンケンの『世界史』を1巻持って行くことができないのならば絶対に床屋には行かないと駄々をこねる。
ある日、ノイマンが2冊の本を抱えてトイレに入ろうとしていたのを目撃した従姉が『なぜ2冊も持っていくの?』
と尋ねると
と答えていますw
貴族の称号を得て『フォン・ノイマン』を名乗るように
1913年に父・マックスはオーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・ヨーゼフ皇帝から貴族に叙され、世襲の称号を与えられたことで、マックス一家はドイツ語では『フォン・ノイマン』姓を名乗ることが許されます♪( ´θ`)ノ
ハンガリーの貴族は、伝統的に領地の名前を姓の前に付けていたのですが、この頃には自由に国内の町名を選ぶのが慣習となっていたのです。
そこでマックスは妻の名前であるマーガレット(マルギット)にちなんで、現在はルーマニア領になっている『マルギータ』という町の名前を選んでいます👀
ハンガリー語では日本語と同じく、姓・名の順に名乗ることからマックス(ミクシャ)の名前は『マルギータイ・ノイマン・ミクシャ』となったわけです。
ノイマンのハンガリー名は『マルギータイ・ノイマン・ヤーノシュ』となり、その後、ヨーロッパではドイツ語で『ヨハネス・ノイマン・フォン・マルギータ』と名乗り、アメリカに移住する際に『ジョン・フォン・ノイマン』に正式に改名・改姓しています_φ( ̄ー ̄ )
※ノイマンの愛称はハンガリー語圏では『ヤーンチ』ドイツ語圏では『ヨハン』英語圏では『ジョニー』
ギムナジウム、ルーテル校へ入学するノイマン
ドイツ語の『ギムナジウム』は10歳〜17歳までの8年間、一貫教育を行う学校のことで、古代ギリシャの若者が鍛錬・知性を磨いた施設『ギムナシオン』に由来しています。
当時のブダペストにはヨーロッパを代表する
- ミンタ校(進歩的な教育で有名)
- ルーテル校(ギリシャ語・ラテン語の古典を重視)
- レアール校(科学や製図など実用的な科目が多い)
の3校がありました(⊙_⊙')
因みにですが、後にアメリカの原爆開発の中心を担う4人の科学者が、この時期にブダペストの3校のギムナジウムに通学していて
レオ・シラードは1916年にレアール校を卒業
ユージン・ウィグナーは1920年にルーテル校を卒業
エドワード・テラーは1926年に卒業しています。
父・マックスは『どのギムナジウムにノイマンを進学させるか』相当悩んだようで、当初はミンタ校を考えていたようですが、ミンタ校の卒業生の義弟が『母校の教育は実験的過ぎる』と批判したため、ルーテル校に決めたのです👀
ノイマンとウィグナーの出会い
1914年に10歳のノイマンはルーテル校に入学、ここで彼を理解できる数少ない知性を持つ一級年上のウィグナーと出会うことになります♪( ´θ`)ノ
ノイマンは入学直後から
- 習字
- 音楽
- 体育
以外の全ての学科で最優秀の成績を収め『神童』と呼ばれるようになります🤩
この時、既にノイマンの頭脳は超人的であったため、同級生の遥か遠方に進んでいましたが、ノイマンはそれを誇示することはなく、むしろ周囲から浮かないように、同級生に好かれるように努力していました。
(このノイマンの気配りする傾向は生涯にわたって続く)
またウィグナーはギムナジウム時代のノイマンに関して次のように語っています↓↓↓
ノイマンにギムナジウムの数学は時間の無駄です』
ギムナジウムの数学教師ラースロー・ラーツは、入学直後からノイマンの異常な能力にイチ早く気づいていました👀
10歳のクラスでは簡単過ぎるので11歳、12歳と少しずつレベルを上げて、最終的には最上級である17歳のクラスに入れますが、それでもノイマンには簡単過ぎたわけですw
またギムナジウムの数学教師の誰もが、もはやノイマンに教えることはなく、むしろ彼ら(数学教師)でさえ知らない集合論や群論の定理をノイマンから教えて貰っていたのです🥺
このようなことからラーツはノイマン家を訪れて
と主張。
そしてラーツはノイマン親子をブダペスト大学数学科の教授たちに引き合わせ、その中から若い数学者ガブリエル・セゲーがノイマンの特別講師を務めることに。
セゲーが初めて10歳のノイマンに会った日に、試しに大学レベルの問題を出してみると!?
ノイマンはその問題を完璧に解いて見せたため、感激のあまりに涙ぐんで帰って来たとセゲー夫人が証言していますw
ジョン・フォン・ノイマンとアドルフ・フランケル
マックスはノイマンが数学の天才であることにはもちろん気づいていましたが
『数学では稼げない』
と考えていました(⊙_⊙')
(20世紀初頭のヨーロッパでは『化学こそが人類の生活を向上させる』という『化学ブーム』が生じていた)
そこでマックスはベルリン大学応用化学科への進学をノイマンに勧めたのです
が!!!
マックスはこの時にノイマンにブダペスト大学大学院数学科の試験を受けることを許可していたのですが、なんとノイマンは大学を飛び越えて、大学院に合格してしまったのですw
というわけで1921年9月、17歳のノイマンはベルリン大学応用化学科に入学すると同時に、ブダペスト大学大学院数学科にも籍を置くことになりました(☝︎ ՞ਊ ՞)☝︎
この頃、数学界の最先端で議論されていたのは『集合論の厳密な定式化』というテーマで、ノイマンはこのテーマに自発的に取り組み、1922年の春には第三の論文『集合論の公理化』の草稿を書き終えていました。
ノイマンはベルリン大学数学科のエルハルト・シュミット教授の研究室を訪ねて草稿を見せますが、その内容はシュミット教授でも容易には理解できないものでした👀
当時、公理的集合論の専門家として知られていた、マールブルク大学の数学者アドルフ・フレンケルは初めてノイマンの草稿を読んだ経緯についてこのように書き残しています。
フレンケル教授はすぐにシュミット教授に『その若者に会いたい』と返事を書き、彼はマールブルク大学にノイマンが訪問してきた際に、論文の込み入り過ぎている点を改善する方法を説明し、さらに結論を常人にも分かりやすく噛み砕いて示すように勧めたのです👀
ノイマンはその忠告を受け入れて『集合論の公理化』を書き直し、その最終稿は1925年、フレンケルが副編集長を務めていた『数学雑誌』に掲載されることに。
この論文が数学会の大御所ダフィット・ヒルベルトの目を惹いたことで、ジョン・フォン・ノイマンの人生が大きく動き始める...
化学兵器の父・フリッツ・ハーバー
ノイマンを語る上で重要な人物であるフリッツ・ハーバーについても触れておきたいと思います♪( ´θ`)ノ
ノイマンが入学した当時、ベルリン大学応用化学科を代表する科学者は1918年にノーベル化学賞を受賞していたフリッツ・ハーバーでした。
ハーバーはユダヤ人でキリスト教ルーテル派の洗礼を受けてプロテスタントに改宗し、第一次世界大戦が勃発した際にはドイツ軍に志願したほどの愛国者で『ドイツ人以上にドイツ人になろうとした』と言われた人物なのです(⊙_⊙')
ハーバーは1980年以降に化学者カール・ボッシュと共に開発した『ハーバー・ボッシュ法』は空気中の窒素と水素から化学肥料の原料となるアンモニアを化学合成する方法で『空気からパン』を限りなく生み出す夢の技術とされていました。
アンモニアは『硝酸』に化学変化させることで火薬の原料にすることが可能。
第一次世界大戦が勃発するとイギリス海軍は海上を封鎖したため、ドイツは火薬の原料となる『硝石』の輸入ができなくなったのです。
しかしドイツは『ハーバー・ボッシュ法』で火薬の大量生産に成功していたため、爆薬の原料全てを国内で調達することができたので、その方法をもたらしたハーバーはドイツ科学界の『英雄』としてもてはやされたのですが...
その一方でハーバーは『化学兵器の父』として悪名が高く、ハーバーは『塩素ガス』を開発し、1915年4月22日、西部戦線ベルギーのイーペルにおいて陣頭指揮をとって5700本のボンベに詰めた塩素ガスを散布。
連合軍は5000人が死○、15000人が毒ガス中毒となり『呼吸困難』や『失明』などの後遺症に苦しめられることに。
アインシュタインがハーバーを批判!?
ベルリン大学でハーバーの同僚で親友だったのがみんな大好き天才物理学者のアルベルト・アインシュタイン教授でした♪( ´θ`)ノ
アインシュタインはハーバーを天才と認めてはいましたが
と批判。
これに対してハーバーは
と反論。
後にプリンストン高等研究所でノイマンとアインシュタインは同僚になるのですが『原子爆弾』の使用をめぐって全く同じ論法で議論になっています(⊙_⊙')
(結局、平行線のまま終わっている)
ノイマンはハーバーの思想に影響を受けた!?
ノイマンもハーバー同様にアメリカに移住した際に『アメリカ人以上にアメリカ人になろうとした』一面があります👀
ノイマンは原爆投下するのは京都が良いと考えていました。
理由は歴史的文化的価値が高い京都に原爆を落として日本人の戦意を喪失させることで、戦争を早く終わらせることができると考えたからです。
一方でアインシュタインはナチスよりも早く原爆を開発するように合衆国大統領に進言していたものの、原爆が投下された後の日本の悲惨な状況を知ったアインシュタインは、深く後悔し、日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹と会った際に
涙を流しながら謝ったそうです(⊙_⊙')
ところがノイマンは第二次世界大戦後、アメリカが優位に立っているうちにソ連を先制核攻撃して『冷たい戦争』を一気に終わらせるべきだと大統領に進言。
このような思想はノイマンがハーバーから影響を受けた可能性が少なからずあるのでは!?
と思うのですが!!!
明確にノイマンがハーバーの思想に影響を受けたという記録や形跡がないため、あくまでも推測の域を出ないですね_φ( ̄ー ̄ )
スイス連邦工科大学チューリッヒ校でのノイマン!
1920年代におけるドイツは第一次大戦敗退による膨大な戦争賠償金を抱えており、そのしわ寄せが国民にのしかかり、多くの人々の生活は苦しめられていました(⊙_⊙')
また各地でストライキや暴動が頻発し、そのようなベルリンの悪影響を心配した父マックスはノイマンをヨーロッパで最高水準と評価の高かったスイス連邦工科大学チューリッヒ校に編入するようにノイマンに勧めたのです。
この学校がどれだけレベルが高いかと言うと、1895年にアインシュタインが受験して不合格になっているほどの難関校なんですw
アインシュタインは予備校に通って、翌年は合格したものの、1度の不合格が尾を引いて大学に研究者として残ることができず、スイス特許局に務めることになっています。
ノイマンは1923年9月に通常の入学試験よりもさらに難関の編入試験に合格(さすがw)し、スイス連邦工科大学チューリッヒ校応用化学科に進学。
この大学の特徴はカリキュラムが通常の大学の2倍の授業数で構成されているため、通常の大学生の2倍勉強する必要がありました。
しかし、ノイマンの成績は
- 有機化学
- 無機化学
- 分析化学
- 実験物理
- 高等数学
- フランス語
の全ての科目で『最優秀』評価を得ています(*´Д`*)
またこんな話があります👀
実験中に別のことを考えていたノイマンは数え切れないほど、フラスコを割り、ガラス実験器具を壊してしまい、2年間でノイマンが壊した実験器具の請求費用総額は長い間、破られなかったそうですw
ノイマンに恐怖を抱いたポリア教授!
チューリッヒ校のポリア教授は当時のノイマンについてこのように述べています(⊙_⊙')
このように悪魔的頭脳でポリア教授を恐れさせたノイマンは1925年8月にスイス連邦工科大学チューリッヒ校を卒業し、応用科学の学士号を取得。
さらにこの年の『数学雑誌』に掲載された『集合論の公理化』はブダペスト大学大学院数学科の学位論文として認められ、さらにノイマンは1926年に実施された最終口頭試験においても最高評価を得て、博士号を取得。
つまり!!!
弱冠22歳でノイマンは大学を卒業すると同時に大学院博士課程を修了、博士論文も完成させて前代未聞の『学士・博士』となったのです_φ( ̄ー ̄ )
ジョン・フォン・ノイマンのゲーム理論とは!?
ノイマンが発表した多くの論文の中に『ゲーム理論』というのがあるんです(⊙_⊙')
ゲームについては1921年にソルボンヌ大学の数学者エミール・ボレルが最初に数学的応用に触れた論文を発表しており、それに敬意を表す形でノイマンは『ゲーム理論』をフランス語で発表、次作の『戦略的ゲーム理論』を通常のドイツ語に戻して書いています。
ボレルの論文では『ポーカー』で勝つための確率や『ブラフ』の利益率を検討し、数学的なゲーム理論が政治学や経済学にも応用できるというものでした👀
そのためボレルが『ゲーム理論の創始者』とする声も一部ではありますが、それには無理があるというのが数学史学会の大方の見解のようです(つまり創始者とは認められていない)
ノイマンこそが『ゲーム理論の創始者』
ノイマンの論文は『2人の零和ゲーム』を数学的に定式化し、それぞれのプレーヤーが利益を最大化し損失を最小化する『ミニマックス戦略』を取る場合、そこに『鞍点(あんてん)』と呼ばれる均衡点が生じることを『不動点定理』を用いて示している。
というのが!!!
『ミニマックス定理』や有名な!?
『ノイマンの定理』
と呼ばれる重要な帰結なんです🤩
そこから数理経済学の『一般均衡理論』や『線形計画法』といった分野が本格的に始まるのですが
これらの原点は1928年のノイマンの定式化と定理にあり、数学史上、その証明を最初に導いたノイマンこそが『ゲーム理論の創始者』とみなされています〆(・∀・@)
ちなみにノイマンはポーカーなどのゲームがめちゃくちゃ弱かったらしく、その理由はゲームの最中に他のことを考えていて集中してなかったためと言われていますw